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怖い、醜い、さびしい、愛しい。  「わからなかった人」のパンク侍感想

「パンク侍、斬られて候」。
公開初日6/30と、7/15のティーチインイベントの2回、鑑賞しました。
イベントの際、監督がふと、「わからない人いるんですかね…、いや、この映画、観た人にわからなかったと言われることがあるんですが」とおっしゃって。
会場に向けて、わからなかった人?と挙手を促す流れがありましたが、さすがに挙げる人おらず…わたしも、その場では手を挙げていませんが、少し遅れていま「ハイ…」とこっそり挙手します。
わからなかった……
でも、わからないなりに感想を書きたいと思います。
わからなかった人なのにわざわざ書く、ということがわたしにとってのパンクです!
(と、なんでもパンクと言えば許されると思っているのも大いなる勘違いですよね、きっと(^^;。もはやわたしの中でパンクがゲシュタルト崩壊気味)
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■とりあえず、順を追って鑑賞中の気持ちの変化
この映画、途中までは文句なしに楽しいです。(冒頭のワンシーンを除いて。後述)
映画館で日本人観客で、これほど頻繁に笑い声があがる映画って、とても珍しいんじゃないかと思います。わたしは初めての経験です。
仕掛けられた笑いの箇所がひとつもすべらず全部爆発しているのも、さらっと観てしまうけど、すごいことだと思う。
脚本の面白さと監督のテンポづくり、そして役者のうまさの三位一体でしか作りえない、良質なエンターテインメントだと思います。

映画館ではあまり経験ないけど、このテンポよく笑いがたえない感じ、そういえば観劇では経験がありました。
とくに前半、この映画はとても舞台演劇的です。
人物の出入りや音の付け方、せりふ回し、いずれも舞台的で、でも、風景とか場面転換とか、物理的に舞台ではできないことができるという点で、映画的面白さにも満ちている。
なにしろオープニングがドローン撮影ですし。

家老が猿回しの村へ行くあたりから、第2段階。
だんだんと、様子がおかしくなってきて、カオスも顔を覗かせ、テンポも気持ちいリズムから微妙にずれていく。でも、まだ笑いも起きます。
わたし個人でいうと、このあたりから結構きつい。たぶん猿が苦手なんです…。猿に何か恨みがあるわけじゃないんですけど、ピエロが怖いみたいなのと同じ感じで、なんか生理的に怖い。
猿回しも見ていてつらいし(もしかしてわたしは正論公と似たタイプなのかもしれない…?笑)、居心地の悪さ、切なさ、と同時に恐怖も感じる。
(恐怖はたぶん映画「ジュマンジ」のトラウマが大きいと思うんですけど…、秩序をめちゃくちゃにしていく狂った存在というイメージ。)

そして、大臼が出てくるあたりからは第3段階、カオス極まり、笑いなんて消え失せて、ひたすら真顔。(あくまでわたし個人の状況です。)
そんな狂った状況もまた「現実だってこうじゃないか」という描写にも思えます。もういいです、いいです、十分です、と目を覆いたくなる感じ、例えば当事者には重要だろうともこんなに毎日ワイドショーでやる必要ある?と思う話題が延々と流されている状況とか。
序盤の観やすい話から段々と進んでいく崩壊は、映画の破綻ではなく明らかに狙い通り。観客を笑わせるのと同じぐらいの精密さでカオスが展開している印象。

そして最終盤、戦場から出てきた掛とろんのシーンがまたなんとも不可思議で、メタ的に浮いている。(メタ的といえば、白い謎空間の茶山のカメラ目線も面白いw)

映画の冒頭で、すごくフィクション的な血しぶきを舞い上げて原作者である町田康さん演じる巡礼の父が斬られて物語が始まり(観客にこの映画を一瞬で紹介するようなシーンですよね…シャニダールの冒頭のギター音みたい。)、ラストでは、タイトルロールである掛十之進が斬られて物語が終わる。円環構造というのかなんというのか。
すごくわかりやすいようでいて、全然わからない気もするラストシーン。

そこで観客は放り出されるけど、主題歌のアナーキー・イン・ザ・UKで気持ちよくなって、あれ、意外となんかこのまま気持ちよく終われちゃうのかな?と思ったとたん、2曲目の主題歌(?)でまた放り出されて、そのままぽかんとして終わる……。
わたしの鑑賞は二度ともこんな感じでした。

この2曲目の置き方も、なんか、うかつに触れられない感じがするんですけど、すごくもの言いたげな、それでいて何の意味もないような、絶妙なアレですよね…。
はっきり言ってそれまでの流れと全く合わなくて、一見するとタイアップで無理やり流させられたのかな、みたいな雰囲気を漂わせます。(バンドのファンの方はどういうふうに感じるのかなあ。)
でも、決してそうではないはずで(宮藤官九郎さん脚本の「ゆとりですがなにか」の主題歌のバンドですし…)、その曲のあいだに流れる画面はリアルのお猿さんが妙にムーディーな感じで映っている…というのが、また、なんか、なんか。

馬鹿にされているんだけど、それを了解したうえで面白がって笑って見せる度量を試されてる、みたいな居心地の悪さ。居心地悪くなってる自分って小さいなあ、みたいな。
この映画自体がわたしにとってはそんな印象です。
凄い人たちが凄いことをやってるのはわかるんだけど、真に楽しめてない自分がいる居心地の悪さ。そもそもこうやって考えてる時点で負けてる…という感じ。

■わからないまま放り出してもよかったはずなのに…
1回観て、ああ、これだめだわからない…とちょっとした絶望感に襲われ。
綾野さんのファンなので石井監督の綾野さん出演作で挙げてしまいますが、「シャニダールの花」も「ソレダケ」も、わからないといったらわからないんですけど、それでも自分なりに納得いくところがあって、解釈間違っててもいいや、わたしはこう思う、面白かった!で気持ちよく見終えていました。
でもパンク侍は、自分なりに、のレベルでも掴めなかった。

もちろん、大枠はわかったつもりです。
むしろ風刺はほとんど説明台詞で説明されるぐらい明確でわかりやすい。
そういう風刺映画として見ても面白いけれど、それだけの映画じゃないはず。その描きたかったほんとうのところが…なんとなくこんな感じかなとふわふわと思ってもうまく言語化できずにいます。

そのままにしてしまうことも十分あり得たのに、なんか悔しい、仲間に入りたい、というような思いが消えなくて、結局2回目を鑑賞することになりました。その後、原作である小説も読みました。それだけの吸引力がわたしにとってあったことはたしかです。

結局、狂気を孕んだ天才たちの仕事についていけない、という一言に尽きるのかも。その域に自分は行けていないということを思い知らされるさびしさ。

そこまで考えて、綾野さんの「この映画を全員が好きだったら日本はおしまい」というようなコメント(きちんとメモしていなくて、うろ覚えです。幸福であり、危険、だったかな?)があったのを思い出しました。
いつもながら後になって気づかされる綾野さんのコメントの適切さに救われます。

■ティーチイン(中途半端にレポ)
ティーチインに参加できたことはとてもよかったです。
お話そのものも興味深い話題たくさんだったし、なにより作り手である石井監督、宮藤さんが、あのシーンは切ない、ああいうところが好き、こういうふうに描きたかった、といったお話をされるのを聞くことでほっとするところがありました。
ちゃんと、人間が作ったものだったんだなって、フィクションだってわかってほっとするというか。もちろん最初からそんなことはわかって観ているんですけど。
「シン・ゴジラ」に対して抱くのと近い感覚だったかもしれません。あれも、怪獣の出現というわかりやすいフィクションでありつつ、全然フィクションじゃない話で。その作品について、役者さんたちが裏話とかしているのを見たり、蒲田君とかキャラ化されているのを見て、ほっとする気持ちがしたことをふと思い出しました。

ティーチインは、もう登場後最初の挨拶のあとすぐに質問を受けて始まったのですが、時間のわりに質問数自体はそんなに多くなく、ひとつの質問から連想ゲーム的にいろいろな話題が湧いてきておふたりが自由にお話されるという感じで進んでいきました。

マスコミの方も入っていたし公式からレポあるかも、と思っていたのであまり自分でレポするつもりなく聞いていたので、非常に記憶が曖昧です。
レポ中、カギカッコくくりは、発言内容として書いていますが、実際の細かい表現・言葉遣いはもちろん違うし、別の話の流れで出たのをまとめて書いてたり、順序違ったりすると思います。会場の質問部分も同様です。ご趣旨と違っていたらすみません…!
石井監督と宮藤さんのどちらの発言だったかだけでもきちんと覚えてればよかったんですが…

以下、わたしの地の文・ざっくり会話調が入り混じりでたいへん読みづらいと思いますが、なんとなくのニュアンスが伝われば幸いです。
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最初の質問は、「終盤で人間や猿が爆発するとき花火みたいになるが、リアルな花火だったらカラフルな色でもよいところ、赤一色にしたのは、例えば血の色とかそういう意図があったのか」という主旨だったと思います。
監督「だいたいそれで合っている、あの場面にふさわしい色、こうしたい色というのが赤一色だからそうなっている」、「原作ではもっとリアルに猿が爆発する描写があるけれど、映像でそれをやるといろいろ問題があるし、作品としてもそういうのは必要ないと思ったから、あの花火になった」。
「腹ふり党のおなかが持ち上がっていくのも…」「原作は腰のところで反対向きに身体がふたつに折れ曲がって、というかなりすごい描写で、そのまま描くのは無理なんで、それに(そういう残虐なのは)作品に必要ないのでアドバルーンみたいに上がっていくのでいいかなと」「いや、あれでも相当すごい光景ですけどね」。
「(猿に関しては)動物にひどいことしてません、というのはエンドロールにも出てるし」。(気づけなかった!)
宮藤さん「作ってる最中は、あの爆発シーンはけっこう気持ちよい感じでとらえているんだけど、観客は悲しくなる方も多いみたいですね。そこまでで猿を可愛く描いているから感情移入しちゃうらしい」。
監督「だからあの戦場で花火を見上げているひとたちの感覚でいちばんまっとうなのは大浦だよね、猿たちの名前を悲痛に呼ぶという笑」

宮藤さん「あの戦場の描写は見たことないなって思った。かたや猿で、もう一方は武器もなにもない石投げるだけっていう」
監督「なにしろあの人たちフェスの2日目だと思ってるから笑」
宮藤さん「腹ふり党にも感情移入してかわいそうと思う人も多いかもしれないけれど、原作だとけっこう腹ふり党も悪いことをしてるぞっていう描写があるんですよね」
監督「そう。映画でもそれを示す言葉は出てくるけど、映像で詳細に描く必要はないと思った」

花火を起こすシーンのオサムは、宮藤さんは脚本上では単に快感というニュアンスで書いていたけれど、演じた若葉さんの解釈で哀しみの表現が加えられて、それがとても良かったとのこと。
オサムのシーンといえば、宮藤さん「小説を読んで、馬方をしていたときが楽しかったという最期のシーンがとても印象的だった」、監督「面白いよね、あれは。脚本からも伝わってきた。だから、そこはしっかり描こうと思った。ちゃんと馬も使って」
時代劇といえば馬がつきものだけど、本物の馬を使うというのはとてもお金がかかることだそうで、この映画中ではオサムの最期のシーンでしか馬が出てきていない。
「馬引けぇ、と殿様が言うシーンも、言うだけで馬出てこない笑 そんな中ちゃんと馬を使ったぐらい、オサムの最期は力を入れていたシーン。正論公の最期で腹ふり党に突っ込んでいくところも原作は馬で行くんだけど徒歩。でもあそこで徒歩で行く感じがいいなあと思った」。
そんな渾身のシーンだけど「若葉君はわかってやってたかなあ」「いや、よくわかんないままやってたって言ってましたよ」「でもいいシーンになったよね。本気で死んでいた。息とめてたと思う。撮りながら心配になった」。

特撮の話題が、個人的にいちばん印象的でした。特撮監督の尾上克郎さんは、「爆裂都市」で石井監督とお仕事をされています(その時は美術スタッフとして)。
当然といえば当然ですが、ひととおり撮ってからCGをつけていくんですよね…。宮藤さんが最初に映画を見た段階ではまだ特撮効果はついていなくて、ほとんどグリーンバックの状態のものだったそうです。
監督側は特撮のプロではないから、コストや技術的に何ができて何が難しいのか、という判断がそこまでできないから、要望を伝えて、それを打ち返してもらうというスタイル。
こういうのをやりたい、というのを伝えると、特撮部からはそれは無理、と言われることもある、こういうのだったらできます、という提案が来る。
「コンテを描いていたけど尾上さんはあんまり見ていなかったみたい。いや見てたとは思うけど、特撮側からのこうしたらどうかという提案でできていく部分もあった」
宮藤さん「でも意外に特撮の方って、特撮を使わないで済むのが一番良い、っていう考え方をする方多くありません?」
監督「そうそう、そうなんだよね。ないのが一番、使うとしても最小限にこう、っていう感じ」

原作のファンという方の質問、「町田康さんの反応、感想は?」。
ウェブニュースの記事でも使われていましたが、死後も残る作品という賛辞の話。
冒頭で斬られる巡礼の父の役をするときも、「最初に(原作者である自分が)斬られるのってこういうことでしょ、とその意味合いをわかってやってくださった」「倒れ方は、もうちょっとこういうふうに、というような細かい要望にも応えてきっちりやってくれた」。

「浅野さんの話をしてください」との質問(?)で、役者さんの話も少し。
綾野さんについても、とても作品の世界に馴染んでいた、というような主旨のことをおっしゃっていたと思います。
あとは、浅野さん、永瀬さん、染谷さん、若葉さん、國村さんのお話が出たかな…
各ファンの方には一番肝心なところだと思うのですが、ごめんなさいうろ覚えで…新情報みたいなことはあまりなかったと思います。監督も宮藤さんも各役者さんをすごく認めて好意を持っていらっしゃるのが伝わる感じでした。

役者さんといえば、これも質問から、「「日本一の斬られ役」と言われる福本清三さんがオサムの祖父役で出演していますが、その出演の経緯は」、と。
この質問には、監督も宮藤さんも嬉しそうにしていらっしゃるように見えました。
監督「今回、初めて京都(太秦?)で撮影できることになって。それで福本さんのことはもちろん前から存じ上げていて出てほしいと思ってオファーしてみたらいいですよ、ということで」
「けっこう重要な役ですよね」
「いいですよね。今回は斬られていませんけどね…。撮った日も、このあとまた別の作品があるんだ、とおっしゃってましたね」
そこから、昔の(由緒正しい撮影所の)いわゆる大部屋俳優さんは、全部自分でやってしまうのですごい、監督やスタッフ側はとてもやりやすい、というお話。衣装もカツラまでも自分で身につけて来るとか。

「宮藤さんは自分で脚本を書いて監督をつとめることもあるけれど、他の監督に脚本を書くときは何か違いがありますか」という質問で、原作と脚本の話。
宮藤さん「自分で撮るときは脚本で完成させてしまうとつまらないからあまり完全には書かないかもしれない」、「今回は打ち合わせはしたけれど、監督の解釈で変わるのも楽しみにするような気持ちで」、監督「自分で脚本を書くこともあるけれど、最近は他の方に書いてもらうことが多いですね。脚本を見ると、宮藤くんはこのあたりノって書いてるなっていうのがわかるのがいい。そういう思い入れの部分を見るのが嬉しかった。幕暮のシーンとかそうでしょう」、「そうですね」。
宮藤さん「原作を読んでいるときは、独特の長い台詞とか会話とかを面白いなあって思って大好きなんだけど、結構切っている。尺の問題もあるけど、わかりやすさということで」
監督「ボブマーリーが出てきたりとか、そういうたとえの部分、非常に面白いんだけど、どうしても世代というか、今の人にはいきなり出てきたらわからないだろうなあっていうのが多い。そういう部分は精査して事前に切っている。だから映画はそういう意味での「わからない」っていうことはないようにしたつもり」
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(ざっくりレポここまで。ほんとざっくりですみません)

■そしてあらためて考える
観た後いろいろわからない中かろうじて浮かんできたのは「さびしいなあ…」という気持ちでした。
これ、1回目観て数日してから浮かんできて、そのときは自分の中から出た言葉だと思っていたんですが、2回目を観て劇中で出てきた台詞だったことに気づきました。
茶山たちネオ腹ふり党が初めて民衆の前で踊るとき、それを上から眺めながら、幕暮、魂次、掛が三者三様に感想を言うシーン(せりふはうろ覚え)。
「醜い、見るに堪えない」
「見てるとさびしい気持ちになってくる」
「え、可愛くない?」
この感想、そのままわたしのこの映画への感想だ、とびっくりすると同時に、あ、ちゃんと合ってたかも、と少し嬉しくなりました。

猿回しの面白さを理解しようとせず正論で返してくる正論公の話の通じなさ。
大浦と内藤が和解がありえないと互いに知った夜。
一世一代の告白するもあっさり振られる魂次。
馬鹿にされ続けてついには暴発するオサム。
いちいち「あるある」で、(たぶん誰もが)似たような経験があるから、身に染みてさびしい。
すべての「さびしい」は、「愛しい」(=可愛げ)でもあるのかなあ、人間の。

■いちばんわからなかったところ
さて、わたしはどこがわからないんだろう、と突き詰めて考えると、一番はたぶん、「パンク侍はどうして斬られなければならないのか」です。
タイトルが「パンク侍、斬られて候」だから「最後、パンク侍は斬られるんだろうなあ」と思いながら観ていて、ろんの復讐劇だというのもわかっていたけれど、物語の意義(?)的に、パンク侍はなぜ斬られるのか。
原作を読んで、展開のかなりの部分が原作に忠実だということがわかったのですが、読んでもやっぱり疑問は解消されませんでした。

「ソレダケ」のとき、わたしの物語の消化方法は、「これは、ひとりの頭の中のできごと(ソレダケでいえば「大黒」)で、各キャラクターはすべてひとりの中にある様々な面なんじゃないか」と考える、というものでした。実際の作り手の意図がどうかはともかく、自分としてはそういうふうに考えてみるのが楽しかった。
今回もまた、どのキャラクターも誰しも少しは思い当たるふしがあるというような造形。ひとりの人間の中にこんなカオスがあるのかもしれません。だから主人公に当たると思われる「ろん」の複数の面、と考えてみるのも楽しい。
ろんは自分の中にいるパンク侍を斬る。
劇中で、この世は条虫の腹の中と表現されるぐらいだから、あながち的外れでもないのかな。
ろんが使う竹べらは腹ふり党の創世神話でも重要なアイテムでした。

戦場でのラスト、なんかかっこいいエフェクトで、まるで彼こそ世界を救う救世主だったのかと思わせて、でも実際やってることは後先考えない暴力的な対応でしかなくて、直後にろんによって斬られて無様に死ぬ。掛の役回りもさびしい。

パンク精神というのは、辞書的な意味をひいてもうまく理解できるものではないと思うけれど、ダサいものかカッコイイものかといったら、少なくともカッコよくあることを志向していると認識しているのですが…パンク侍の死にざまは全然カッコよくない。
かといって、ろんの仇討ちが正義かと言われると、あまりそうとも思えない。
狂った世の中なんだから何やったっていいんだよー、と言う掛の論理を否定するのはわかる。でも、ろんこそが真のパンクの魂なのか…?というと違う気がする。
ラストは、すがすがしいとか、痛快、とかも少し感じはするけれど、それより圧倒的に大きくさびしかった。仇討ちを果たしても、掛には本当の意味では自分の罪を思い知らせられるわけでもない。たとえば故郷に帰ったろんを温かく迎えてくれる誰かがいるとも思えない。
劇中もいろいろな人に心を寄せられ群衆の先頭にいても、誰にも真に心を許さない。
背を向けて歩き去っていくろんのナチュラルなヘアメイクは出家した女性のよう。

内なるパンク侍を竹べらで斬って捨てたのは、わたしたちの良心なのか、諦めなのか、希望なのか。パンクであることとは?もう、そうやって考えてる時点でなんか違うんじゃないかって気がする(2回目)。
このへんがわたしの限界でありました。
こんなに理解しようと努力してもわからないものがあるんだなあ……という得難い経験をした平成最後の爆夏!


ところで、ラストシーン、わからないながらも独特のカタルシスは好きです。
タイトルコールは文句なしにカッコイイ。
(北川景子さんのシーンはすべてが美しくカッコイイ!)
青空とがらがらと崩れていく街には、映画「トゥルーマン・ショー」を思い出しました。
トゥルーマン・ショーはジム・キャリー主演の映画で、本物の人を観察するリアリティ番組がある世界、その番組の主役である主人公は、生まれた時から24時間全世界に生放送されていて、家族も友人も街の人もみんな役者、人生のストーリーも番組スタッフに左右される。主人公はその中で疑問を感じつつも成長していくけれど、あるきっかけで抵抗を始めてとうとう虚構の街を脱出します。そのラストシーン、虚構の海に出て舟をこいでいくと、やがて空と海の絵がかいてある壁(番組セットの端)につきあたり、そこには上への階段がついていて、階段の先には外(現実世界)に続く扉がある。
あのまま歩いて行ったろんは、書き割りの空についたドアから現実世界に出て行ったりするのでしょうか。
あるいは、蜃気楼。ろんは、フィクションのような青い空を吐き出して、とあったけれど、これには蜃が吐き出す幻、蜃気楼を想像しました。
自分が吐き出した蜃気楼の中でひとりぼっち、せいせいと前へ歩いていく。掛の視線も大臼のナレーションも届かない。
「羅生門」の最後の「下人の行方は、誰も知らない」のような余韻があります。
ろんの行方は誰も知らない。


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なんだか煮え切らない長文感想を読んでいただきありがとうございます。
役者さんについてとか美術・衣装についてとか、他に触れるべきこと、書き忘れていることがたくさんあるなあと思うのですが、ひとまずこれにて!〔おしまい〕

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