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十界(その1)

◎ 菩薩界・仏界

「私が生涯尊敬するのは、私の父親です。後にも先にも、私の父ほど完璧な人は居ないと思うからです」

都内で開かれた自己啓発セミナー講師の田端幹夫(47)に、発言を促された吉田秋穂(55)が言った。

本間広明(52)は、びっくりして秋穂の顔を見遣った。
前に据えられた白板に書かれているお題は、『私の尊敬する人を書き出し、その理由を述べよ』だった。
その場に居合わせた50名ほどの参加者も、皆、秋穂を興味深そうに見つめている。

講師の田端が、再度、秋穂に問う。
「どういう時に完璧だと感じるのでしょう?」
秋穂が答える。
「彼は、いつも感謝の言葉しか発しないのです。愚痴を聞いたことがありません。彼が持つ技術や知識は、私を生育するなかで惜しみなく伝授してくれたし、今考えるに、彼は人間が出来ているのだと思います」

秋穂は、キラキラしたまっすぐな瞳で、講師を見ている。
広明は、ますます大きく目を広げて秋穂を見つめ、小さく「へぇ~」と声を漏らした。秋穂の語る人物像や感情は、自分の人生では出会ったことや味わったことが無いと思ったからだ。

”どんな人間だって、心の浮き沈みがある。陰陽の両面があるのに、彼女の父親は陰の部分を完全に抑えるか隠すかして、普段の彼女と接しているということか?”
”其れは、人間として、不自然なことではないのか?”
”それとも、本当に完璧な人間というのは、自我の陰の部分を完全に抑え込むや、制御することができるのか?”

広明は、人間は自我の完全な制御が出来得るのか、という疑問で頭の中がいっぱいになった。結局、その考えに捉われてしまい、その後のセミナー内容は上の空となった。

◎ 畜生界

広明は、昼間のセミナーでの秋穂の発言に心が悶々としたまま宿泊ホテルの部屋にいた。ふと、空腹感を覚え、時計を見ると午後8時をまわっている。
「メシ食いに行くか」
広明は重い腰を上げて身支度をした。

フロントに降り、フロント内に居た女性に聞いた。
「ここら辺で、軽く飲み食いできる店ある?」

フロントの女性は、洗練された笑顔で答えた。
「こちらに飲食店マップをご用意しておりますので、ご参考になさってください」
小さなビジネスホテルだが、サービスが充実している。アメニティや無料朝食などもあって便利だ。広明は、軽くお礼を言って外に出た。

馴染みのない不慣れな街だ。一件目、目星をつけていた洋風居酒屋は、大学生らしき若者で溢れかえっていた。そそくさと逃げるように足を早めて店の前を通り過ぎ、結局、別の和風居酒屋の暖簾をくぐった。

ここも比較的混んでいて、パッと見空いている席が無さそうだった。
「いらっしゃい」
威勢の良い店主の声に導かれて、無意識に歩みを進めると、
「お一人ですかぁ?カウンター席奥なら空いてます、どうぞー」

言われるまま、空いていたカウンター席に着く。まだ隣席も一つ空いていた。

ビールを含め、注文した品々は、長く待つことなく提供された。格別美味い料理という訳ではなかったが、取敢えず腹を満たせて満足だった。それでも何となくホテルの部屋には帰りたく無くて、ちびりちびりと酒を飲み続けた。

時計を見ると午後10時近くなっていた。”結構、ゆっくりしたな。あと一品つまみにして、酒を飲み干したら出るかな”と思っていた時だった。

「いらっしゃい」
威勢の良い店主の声が聞こえた。
「お一人ですかぁ?カウンター奥が空いてます、どうぞー」

一人の男の若者が、店主の声に導かれるまま、足元おぼつかない様子で、近づいてくる。広明の横の空いているカウンター席に、体重を重力に任せてドサッと腰掛ける。
”なんだ、酔ってるのか?”広明は体を避けるようにして顔をしかめた。

「焼酎、ロックで」
隣りの若者がくぐもった声で言い、ほどなくして彼の前に酒の入ったグラスと小鉢が差し出された。若者は、グラスの半分ほどを一気飲みすると、グラスを握りしめて静かに泣き始めた。

広明は、小さく背中を丸めて嗚咽している隣の若者を、見ぬふりでやり過ごすことができなかった。

「なにか・・・、あったのか?俺で良かったら、聴くよ?」
広明は、静かに語りかけた。

若者は、横目で広明を見た。小さく丸まって泣いている姿から受ける印象とは裏腹な、鋭い眼光に、広明は一瞬ギョッとする。何故か背筋がスーッとして、先ほどまでの穏やかな心情が消え去り、声をかけたことを後悔した。

若者は、血走った目で広明を凝視したまま歯を食いしばり、言葉を吐く。
「・・・おれ、いま、母親をぶん殴ってきたんだ」

広明が言葉を失っていると、若者は俯いて低く唸るように嗚咽した。広明は思わず若者の背に手をあてた。

少し嗚咽がおさまると、押し殺した様な声で、若者が語りはじめる。

「・・・おれは、・・・おれは、強姦でムショに2度入った。ほんの2か月前に出所したばかりだ」

若者の背に添えていた手が、すっと離れた。

「・・・出所の時・・・、そんなおれを、母親は迎えに来てくれたんだ・・・。迎えに来て、もう他人を傷つけるのは止めて、って言って。傷つけるなら、私をやって、って言って。あの時の母親の眼を忘れない。だから、もう暴力はしない、他人を傷つけないって、心に決めたのに・・・。今日まで、我慢できたのに・・・」

広明は、眉間にしわを寄せながら若者を見ていた。

若者は苦悶する。
「おれ、些細なことで激高して。あいつが、同じこと何度も何度も言うから。腹立って。気付いたら、あいつをボコボコに殴ってた・・・止められなかったんだ」

若者が広明の腕をつかみ、痛いほど力を入れてくる。
「殴って、蹴って・・・。動かなくなった母親を・・・見てたら・・・強姦したときの欲情がこみあげてきて、あいつを身ぐるみ剥いで、おれ・・・。それで、おれ・・・」
広明の脳裏に、裸で転がっている女性が浮かんだ。
若者の血走った眼が近づいてくる。

「ヒッ」
広明は、声にならない声を出すと、若者の腕を振りほどき、ガタンと椅子から立ち上がる。カウンターに一万円札を置くと、
「釣りはいらない」
と言って、慌てて店を走り出た。

どす黒いものが、広明の腹の底から湧き上がってくる。思わず道路脇に嘔吐した。

どうやってホテルに帰ったのかは分からない。気付くと、ベッドの上に腰かけていた。時計を見ると午前2時だった。若者の語った本能衝動がよみがえり、腹の奥がまたムカムカする。もう何度も吐いたというのに。

結局その日、広明は、本能衝動に抗うことが出来ずに苦悶する若者を思って、眠れない夜を過ごした。

◎ 修羅界

翌朝、広明は品川駅に向かい、東京土産を一つ買って、大阪行きの新幹線に乗った。

×××

広明は、大阪の自宅玄関を開けた。
「ただいま」

ヘルパーの宮本恵子(62)が、タオルで手を拭きながら出てきて、
「お帰りなさい、今ちょうど、昼の食事を終えて眠りについたので、もう帰るところです。晩御飯はお鍋の中に用意してありますので」
と伝えた。

「ああ、留守中の世話をありがとう。これ、東京土産。間に合って良かった」
広明は、品川で買ってきた土産を宮本に手渡すと、会釈をして、奥に入っていった。

広明は、奥の部屋の扉を開け、中の様子をみた。父親の本間守(90)が介護ベッドの上で、大口を開けて寝ている。

いつまでこの状態が続くのだろう。父親が倒れてから、もう2年になる。広明は、大きなため息をついた。

父親はとてもモテる男だった。そして、節操がなかった。広明が物心ついた時には、母親は愛想を尽かして家を出て行ってしまっていて、新しい母親が世話をしてくれていた。でもその新しい母親も、父親の不義理を許せず、やはり、広明の前から姿を消した。しかし、父親はそれでも改心する事なく、こうやって不自由な身体になるまで、雄としての人生を謳歌した。

「これが、あんたの成れの果てか・・・見苦しい」

広明は、吐き捨てる様に言った。忌々しそうに扉を閉める。寝たきりで小さく枯れた父親を見ても、憐れみとか、親子の情愛とかいった類の感情はみじんも湧かなかった。

広明は、眉間にしわを寄せながらリビングに向かい、ソファーに腰掛けてテレビを付けた。

×××

低い唸り声を聞いた様な気がして、ふと目覚めた。
いつの間にか、うたた寝してしまっていたようだ。つけっぱなしのテレビから、午後7時のニュースが流れている。

出張の疲れからか、前日よく眠れなかったからか、身体がだるい。何もしたくない。けれども、父親に夕飯を食べさせなくては。
重い身体を押して、何とかキッチンに向かい、恵子が用意してくれた父親用の夕飯をレンジで温めた。お手製の介護用刻み食だ。

介護食をトレーに乗せて、重い身体を引きずりながら父親の居る部屋に向かう。

「う~。う~」
部屋の中から、低い唸り声が聞こえる。

部屋の扉を少し開け、中の様子をみた。
小さく枯れた彼の何処に、その体力があったのか。
父親は、上半身が介護ベッドからずり落ちていた。
そして、床のマットに顔を伏せた状態で。

くぐもった、低い唸り声は、
床マットに塞がれた鼻や口から漏れる音だった。
広明の身体は、まるで銅像になったかのように固まって、動かなかった。
扉を開けかけた手だけが震える。

『未必の故意』

何故か、突然広明の脳裏に、浮かんだ言葉だ・・・。
このまま、このまま、いっそのこと。

くぐもった、低い唸り声は、だんだん小さくなる。
そのうち、声が聞こえなくなった。

広明は、自分でもよくわからない叫び声を上げた。
「ヒヤァーーーー」

持っていた食事トレーを落とし、扉に掛けていた手を思いっきり開いて、
父親に駆け寄り、その落ちている上半身を抱きあげた。

父親は、小さな寝息をたてていた。

広明の肩が揺れた。
そして、嗚咽が漏れた。
「あんたはずるい。ずるいよ。いつも周りに迷惑かけてばかりいるくせに」


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