見出し画像

弥生時代の衣服復元

弥生女性の衣装制作
2014年7月15日〜9月15日まで、千葉県佐倉市の
国立歴史民俗博物館で開催されていた「弥生って何 ⁉︎」展に展示されていた人体模型像「やよいちゃん(仮称)の衣装制作に携わりました。人体模型は出土した弥生時代の人骨を元に形成され148cmと小柄な(当時の平均身長による)若い女性像です。2013年8月に同館の藤尾慎一郎教授から依頼を受け希望される衣装の参考資料として吉野ヶ里歴史公園、弥生ミュージアムに展示されている「復元衣装」の写真を見せて頂きました。
そもそも今回の機会は2005年に上野の科学博物館で開催された「縄文vs弥生展」のポスターや図録のビジュアルに関わり衣装デザインをさせて頂いた縁によるものです。
普段は広告や雑誌、ミュージックビデオなどで
モデルやタレント、出演者の衣装を集めるスタイリストの仕事をしている私にとりましては、他分野であり納品まで約半年という短期間での作成、凝縮した学習と調査、情報収集が必要となる仕事となりました。

布目順郎先生の著書と養蚕

吉野ヶ里遺跡の復元衣装を考案された布目順郎先生の著書はもちろんのこと、「魏志倭人伝」に関する文献などを読み、大阪府弥生博物館を見学するなどをして徐々に構想を膨らませてゆきました。京都工芸繊維大学名誉教授であった故布目順郎氏は古代の繊維調査研究に長年携われ、なかでも弥生時代の研究には強い興味を持たれていました。吉野ヶ里の復元衣装制作では庶民の衣服と上層階級の衣服の男女4体で、繊維は麻と絹、麻は栽培から行い糸作り、織物、縫製すべて素材から復元するという7年もの歳月をかけた壮大なプロジェクトであったそうです。著書によると、北部九州で出土した絹繊維片の分析から弥生中期〜後期にこの地方で養蚕が行われていて、高度な紡績技術を持っていたと記述されています。華中と楽浪、現在の中国、朝鮮半島と交流があったということです

参考 布目順郎氏考案復元衣装https://www.yoshinogari.jp/introduction/qa/

「透き目絹」の再現作業

出土品の調査から当時は織り密度の粗い絹織物(著書では「透き目絹」と表現されている)であり、また「魏志倭人伝」から、紗穀、錦などという名称で表現されていること、さらに織り組織は「平織絹」素材は「楽浪型三眠蚕」の糸で、使用された織機は登呂遺跡などなら発掘されているものは大きめですが、大半は腰幅くらいの原子機を使用していたとのことです。「魏志倭人伝」に記されていた表現「貫頭着」について、タテ方向に対して直角に2枚の布を縫い合わせた織物片が発見され、和裁とは違い洋服と同じ方法で袖が付けられていることがわかったと述べられていました。衣服の形体は、古墳時代の埴輪や飛鳥、奈良時代の遺物、壁画、朝鮮、中国の人物像画などからイメージされたそうです。さて、写真と文献を元に私はデザイン画を仕上げ、絹生地を扱うメーカーや日暮里の繊維街、織物工房、京都の西陣や室町を巡り、多数の絹生地を集めました。「紗穀」と現在夏着物で言う「紗」は別であることが解り、デニール(絹糸の太さ)、精練についても学んで行きました。藤尾教授やパターン・縫製を担当して下さる方は、同年10月に吉野ヶ里公園へ見学に行かれましたが、その機会に同行出来なかった私は、一目真近に布目先生の復元衣装を見ておく必要があると判断し、後日訪れました。その結果、当初考案の糸や生地など再度練り直すことにしました。「透き目絹」を表現するため、上着の平絹の生地は京都で法衣や祭衣装など手がけ、風俗博物館を併設している(株)井筒へ相談し、見本を取り寄せて吉野ヶ里復元衣装に近い絹の生地を選定しました。精錬したもの、しないもの、半練りしたものの三種類を用意し、当時すでに煮炊きの土器は発達していましたので、確証はありませんが灰汁などを用いて行った可能性はあると判断し、精錬した生地を使用することににしました。染色は吉野ヶ里遺跡から発掘された「茜」色の織物片に基づき長年草木染色を研究されている江原音子さんに、地元の東京都稲城市の山で採取された日本茜を使用し、その絹の生地を染めていただきました。弥生時代、吉野ヶ里付近ではすでに家蚕を飼育したということですが、現在流通している絹の生地はほとんど機械織りです。着物用の白生地もそうですが、分量の多いスカート部分の生地探しには苦労しました。糸本来の白を生かした手織り物で表現したいと考えたのですが、生地では入手が困難でした。あるきっかけで出会った撚糸業の下村輝さんへ相談したところ、伝統的な技術を守り、昔ながらの座繰りで絹糸作りされている長野県岡谷市の宮坂製糸所を紹介していただきました。そこで製糸した絹糸を素材に、絹工房の小山町子さんに長さ10mの小幅の織物を織り上げていただき、スカート部分の素材としました。また下着にはインドの野蚕絹の薄い手織り生地を用いました。

貝紫と植物染料の染め

弥生時代の繊維遺物から貝紫の染料が検出されています。貝紫は、イボニシ、アカニシなどの巻貝のパープル腺から抽出される液を塗布し太陽光の下で酸化させることで紫に発色します。吉野ヶ里の甕棺などから、縦糸に貝紫、緯糸に茜で染められた糸で織られた織物の断片が出土しています。貝紫については、国際貝紫染研究会の山村多榮子さんに相談し、三重県伊賀で貝染めに取り組んでおられる稲岡良彦さんに染色を依頼しました。また、クチナシと茜の染色を京都の(株)田中直染料店へ依頼し、この3色の糸による帯の製織を、吉野ヶ里の復元衣装にも関与された(株)龍村美術織物にお願いしました。

貝紫で髪飾りも作りました。土浦の古代織研究会の大地英子さんに原始機を使用して織っていただき「クテ打ち」という組紐技法で結ぶ紐部分も仕上げていただきました。古墳時代にはその手法は行われていたそうで、魏との交流品の中で見受けられたかもしれないと夢をふくらませました。

弥生時代には権威を示す装身具も発達し、衣服に格差が表れるようになりました。吉野ヶ里からは多数の菅玉のビーズや翡翠の勾玉が出土しています。それらの資料を基に古代ビーズ収集家から既存ビーズを入手、新たに水晶でビーズを作り、菅玉はガラス工芸作家へ依頼、出土しているデータからサイズを出し、デザインは神社の催事で神主や巫女が履く浅沓を見た時、田下駄ではなく、特別なハレの日の沓であっていいのではないかと考え、靴メーカーの職人へ依頼しました。常に木型は作られていますが、堅い楠の素材で苦労をかけました。

こうして弥生時代後半にあたる3世紀の北部九州地方の支配階級の若い女性の復元衣装が出来上がりました。吉野ヶ里の復元衣装を原型に、現在ファッションに関わる仕事をしている私ならではの想像力で、私流の復元を試みさせていただきました。弥生時代に思いを馳せ、手探りでの復元作業でしたが、その過程でさまざまな出会いがあり、大変貴重な体験をさせていただきました。織物や衣服を通して、古代と現代との繋がりを、強く意識する機会となりました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?