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大老・井伊直弼を訪ねて⑦ 村山たか⑵〜(滋賀県彦根市) 2022年9月8日

幕末好きな私は、歴史を巡る旅を続けている。江戸時代の終焉、ペリー来航から西南戦争あたりに関心が高い。

中でも『桜田門外ノ変』には、ゆかり故の並々ならぬ思いがある。歴史の当事者となるのは、薩摩と水戸の藩士らと、時の大老・彦根藩主の井伊直弼だろう。

私は彼らの史跡をいくつか訪ね、今度はとうとう滋賀県彦根市までやってきた。もうずっと前から、私は彦根城前にある『埋木舎(うもれぎのや)』を見てみたかった。若かりし頃の井伊直弼が過ごした在所である。

彼はその実、藩主となれる可能性の低い人物だった。その彦根藩の世襲について、少々。

徳川四天王かつ筆頭譜代大名の井伊家では、原則として正室の子が跡取りとして据えられる。

井伊直弼は側室の子。上には兄もたくさん居り、藩主への道は遠かった。

由緒ある彦根藩主の子として生を受けつつ、部屋住みでしか生きられぬ身の上。それを儚み『埋木舎(うもれぎのや)』と名づけた風流人。

この井伊直弼と両親との関係は、どのようなものなのか。

井伊直弼の母は『君田 富(きみた とみ)』お富の方と言う。側室ながら『彦根御前』と敬われ、井伊直弼の父・彦根藩主の直中に深く愛されていた。

彼女には子が3人授かり、直弼の同母兄は彦根藩主の世継ぎとして据えられた。十一男・井伊直元、彦根御前に対する父・直中の寵愛ぶりが伺える。

しかし彼女は35歳で亡くなってしまう。末息子の直弼はわずか5歳、母との別れは如何ばかりか。

さて、井伊直弼の父は「井伊直中」第13代彦根藩主である。

名君と讃えられたが、彼には悔やみきれない過ちがひとつ。彦根の天寧寺、これは父・直中の建立した供養の寺である。

自分の孫を身籠ったとは知らず、腰元(側室候補)『若竹(わかたけ)』を死罪とした直中。彼女を孕ませた相手は、なんと彼の長男であった。

病弱のため14歳で廃嫡となったが、元は世継ぎの身。21歳で儚く世を去った長男・直清の子を、自ら成敗してしまった直中。

この一件から、井伊家の腰元には並々ならぬ神経をつかったに違いない。

今回の彦根の旅は、滞在時間3時間。

五百羅漢(ごひゃくらかん)の『天寧寺(てんねいじ)』にも訪れたかったが、彦根城内も見られなかった私は、そこまで足を伸ばすことが出来なかった。

この寺院には、父藩主・直中の腰元『若竹』(兄・直清の子を宿した女性)の菩提を弔う他、直弼の碑、村山たかの碑、長野主膳の墓がある。

私は先人彼らの歴史を書く時、可能な限り墓参りをするように決めている。そう遠くない未来にまた訪れ、花と香を手向けたいと思う。

◉直弼の墓まいりは行きました
https://mari24.jp/archives/2380

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