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人 × 人 = 物語

 僕が趣味の一つとしているGarage Bandでの楽曲制作。
 その楽曲の一つを、【carat】というタイトルで4人のラッパーの方が使用してくれることになり、8月にミュージックビデオが公開された。

 自分自身「夏」をイメージして作曲したのだが、MCの皆様もその雰囲気を感じ取ってくれたようで、ガッチリのサマーチューンとして仕上げてくださった。
 彼らの地元である川口にあるショッピングモール「ダイヤモンドシティ・キャラ」をタイトルに据えたこの曲は、地元愛を前面に押し出しており、フック(サビ)では有名な川口オートレース場の前で撮影が行われている。

 それぞれのリリックも非常に個性的かつ、とても素敵にトラックに合わせていただいた。特にSALPHAさんのメロディラインの部分は「このトラックにこんな使い方があったのか?!」と作った僕が驚き、鳥肌が立ったくらいだった。
 Be-LUSTさんの「また紐解くB-BOYイズム」というリリックは、Rhymesterをキッカケに日本語ラップにハマった僕には堪らないラインだったし、MANCHINさんの「死ねない理由ばっか増えてく毎日/不自由もあるが食えてるウマい飯」というリリックは荒んでいた心に大きな潤いと励ましを貰った。
 そして極め付けは正宗君の川口愛が炸裂している思い出の店名ライム。どんなお店なのか一軒一軒検索してしまった程に、強烈なインパクトを与えてくれた。

 公開後、多くの方がリツイートやいいねをしてくださり、僭越ながら僕もエゴサをし、フォロー外よりリツイートさせていただいた。
 普段使わないInstagramやFacebookでも、これでもかとばかりに宣伝させていただいた。
 それくらい、僕にとっては自信のあるトラック(曲)だったし、4人のMCの方々のおかげでお世辞ではなく最高の楽曲に仕上がったと思っている。

 ただ今回のこのnote、単に「僕の作った楽曲を使ってくれることになった」と感謝の気持ちと宣伝をサラッと書くだけには到底できない、長い長いストーリーがある。
 
 どうか、お時間のある方や興味のある方は読んでいただきたい。

Kanaria結成前夜

 さて、このMVの指揮を取ってくださったのが、最初に映っている正宗くんなのだが、この正宗くんは現在「Kanaria」というラップグループに所属している。

 実はこのKanaria、2004年の結成時に僕はメンバーとして名前を連ねていた。

 18年前、僕は高校1年生。
 中学3年生で携帯電話を買った僕は、「魔法のiらんど」というホームページ作成アプリで自分のサイトを作り、当時から大好きだった日本語ラップの情報を流したり、自分で作ったリリック(ラップの歌詞)を掲載したりしていた。

 その管理人同士で知り合ったのが、Kanariaのほーりー君と正宗君だ。

 先述した通り、当時は2004年。スマホは影も形もないどころか、Twitterすら存在すらしていなかった。mixiやFacebookはサービスを開始していたものの、ほとんど普及はしておらず、こういった個人で作成したホームページの掲示板などで趣味の合う友人と見つけることが多かった。
 データ通信が定額制になるなんてのはもっともっと後の話。サイト管理するにもデータ通信料がかかるので、「パケ死」なんて言葉があちらこちらで聞かれたのも懐かしい。

 当時、ほーりー君はDJ 846さん・Who-Meさんという方と三人でS.D Muzister、正宗君はAsian Masterというグループで活動していた。 

 同時期、グループ名は失念してしまったが、僕らと同様にサイトの管理人をしていたかさまね君というMCの方が、その様なネット上を主体に活動しているMCやグループを集める形でイベントを立ち上げた。確かイベント名は「韻 da Net」だったと思う。初回は参加できなかったが、2回目のイベントに参加することができた。

 しかも僕は何を思ったか、思いつきでそのイベント内で行われるトーナメント制のMCバトルにエントリー。今でこそSing上で自分の楽曲を発表したりしているが、実は僕のステージデビューはMCバトルだったのです。
 
そこでなぜか準優勝してしまった僕だが、当時はどんなことをラップしていたのか、全く覚えていない。とにかく初めて人前でマイクを握ることへの緊張と、普段あまり僕が活動していない深夜という高揚感、今までほとんど体験してこなかったことだらけで脳がトリップしていたのだろう。
 「楽しい」とか「嬉しい」という感情よりも、今は「あの空間はなんだったのだろう」と呆けてしまう。「若気の至り」と言ってしまえばそれまでだが、当時は今よりも我武者羅だったんでしょうね。

 そのイベントを通して、更にほーりー君や正宗君とも親交を深めていった。
 そしてある時、ほーりー君から一通のメールが入る。

 「新しいクルーを立ち上げるんだけど入らない?」

 その新しいグループ名は「Kanaria」。
 このKanariaというグループ名は、サッカーのブラジル代表のユニフォームが由来と記憶している。当時はロナウドやリバウド、ロナウジーニョといった選手がまだ20代、世界サッカーを席巻していた頃だ。彼らのホームユニフォームは鮮やかな黄色で、日本では「カナリア軍団」という愛称で親しまれていた。
 現在も彼らがよくリリック内に使う「音の上飛び交う黄色い鳥」というキャッチフレーズは、結成当時から使用されていた。
  HIP HOPが好きとはいえ、当時も今もクラブにもほとんど行ったことが無いような僕。この時は後先を考えずに二つ返事で了承をしてしまった。
 「我武者羅」という言葉では片付けられない程、自分が背負っている物が多いことにも気付かないまま。

理想と現実の狭間

 さて、それからの経緯は色々と省くことにして、結果的に僕は一度もKanariaとして活動せずにグループを離れることになる。

 理由は「進学」そして「家庭の事情」だった。

 高校3年生に進学していた僕は、今後の進路を決めなければならない段階に入っていた。ひょっとしたら当時「音楽で食っていく」ということもほんのり頭によぎっていたかもしれないが、それを貫こうとは到底思えなかった。

 今でこそ笑い話に出来ることだが、当時我が家は完全なる家庭不和状態だった。
 父と母は顔を合わすたびに窓ガラスが割れるレベルの大喧嘩を始め、兄貴は原チャリで家出を繰り返す。
 当時は2階建の一軒家に住んでいたのだが、その家のことを思い出そうとすると暗い思い出しか浮かんでこない。ここでは書けない重ーい事件も山ほどあった。
 逆にいえば、そんな環境だったからこそ同じ音楽を愛する「仲間」を求めていたんだろうなと推測する。
 正直な話、高校3年生の時は友達もいなかったし、僕個人の暗黒期といえば恐らくこの時期だろう、と思えるくらいにどん底にいた。

 そんな中、Kanariaが初めてのイベントを行うことになった。
 フライヤーも完成し、僕のMCネームもしっかりと記載されている。もちろん深夜帯のイベントで、僕はショーケース(ライブ)のトップバッターに任命されていた。

 先述のような家庭状況の中、夜に遊びに行き、朝帰ってくると伝えれば…良くて怒鳴られて軟禁状態、悪ければブン殴られるだろう。そう考えた僕は、体調が悪いふりをして部屋で寝たふりをする。その部屋からこっそりと外に抜け出し、ライブ会場まで向かう計画を立てた。

 夕方4時ごろ、こっそり家を抜け出そうとする。
 リハーサルの開始時間に間に合うようにリュックに機材を詰め込み、2階のベランダから抜け出そうとした。
 屋根を伝い、家のすぐ横にある細い路地に足を着けた。

 ここで運の尽き。
 誰かが通報したのか、手袋をした警官が数人、僕に駆け寄ってくる。

 誰がどう見たって現行犯だ。
 ましてや多少なりに人前に出れるようなB系の格好をしているんだから尚更だろう。
 「身分証明書を出せ」「ここで何をしている」「カバンの中を見せろ」と矢継ぎ早に質問がぶつけられる。何度か「ここ僕の家です」と言っても信じてはくれない。そりゃそうだろう。普通に考えて、自分の家だったらベランダから出ずに正々堂々と玄関から出掛ければいいのだから。

 その騒ぎを聞きつけた兄貴が玄関からやってきて、あえなく家に連れ戻された。計画は大失敗。先ほどの不安だった「良くて軟禁、悪くて殴打」はどちらも受けることとなってしまった。
 その間、延々と反省と罪悪感に苛まれていた。もちろん、親にではなくKanariaのメンバーに。

 しかし、ただ反省しているだけで何も連絡せずに迷惑を掛けるのは不義理にも程がある、と思い勇気を出してほーりー君に電話をした。
 初めてKanaria主催で行うイベント、しかもメンバーとしてトップバッターを請け負うはずだった僕が出演できなくなる。僕は怒鳴られる事も、絶縁されることも覚悟していた。
 しかしほーりー君は黙って僕の事情を聞いてくれた。怒ることなく、ただ残念そうに僕の話を聞いてくれた。ほーりー君は「わかった」と言って電話を切った。

 それから数週間後、僕はKanariaを脱退する、というメールをほーりー君に送った。このままだと皆さんに迷惑を掛けることになる。何度も謝罪の言葉を交えて、メールを送った。
 しばらくして、ほーりー君から返信を貰った。
「自分がそう決めたのならしょうがない。これからも応援しているよ。Kanariaじゃなくなったって友達でいよう」。

 鮮烈に覚えているのは、返信のメールには僕のMCネームではなく、本名の名字が書かれていたこと。
 「あぁ、ただの趣味仲間ではなく、一人の友人として見てくれているんだな」と思い、再び先の罪悪感と共に感謝の気持ちが溢れてきたのを覚えている。

〜二つ返事でOK!〜

 その後、僕から積極的な連絡や接触はしなかった。正確に言うと「できなかった」。
 初めて加入したグループを、最悪な形でドタキャンし、メンバーに会う事も無く勝手に辞める、これだけの事をしてしまったのだ。何も言い返す事ができない、僕の失敗であり失態だ。あまり物事を引きずらないタイプだと自分では思っているが、さすがにこの失敗は数年経っても尾を引いていた。

 高校を卒業後、志望通り保育科の専門学校に入学し、無事卒業。
 学童の職員を10年勤め、今は自分の保育施設を立ち上げた。
 2016年に、流行りに乗って始めたTwitterで名前を見かけたほーりー君と正宗君をフォローすると、すぐにフォローが返ってきた。

 過程はどうあれ、という言葉は僕が使うべきではないことは重々承知している。しかし、約20年経って自分の音源を使っていただけたことに、未だ感謝と感動の気持ちが冷めやらない。
 紆余曲折、という四字熟語では表せない程のストーリーがあった。
 16年という月日を経て、恩返しをすることが出来たのかな、と胸が熱くなる。

 たくさんの迷惑を掛けたにも関わらず、僕の楽曲を「二つ返事でOK」してくださった正宗君
 そして参加してくださったBe-LUSTさん、SALPHAさん、MANCHINさん、最高のラップをありがとうございました。

 そしてKanariaのほーりー君、そして当時はあまり話すことが出来なかったけどハイビ君
 僕の濁った学生時代を彩ってくださってありがとうございました。

 いつか実際にお会いして、お礼を伝えさせてください。

 あれから長い年月が過ぎましたが
 オレ、まだHIP HOP好きです。
 

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