いろいろな価値観



世の中には様々な価値観が存在する。同性婚を希望する人やスカトロ趣味(糞便食愛好)の人など、まさに様々だ。

私からすれば到底理解できない世界だが、しかし、他人に迷惑を掛けなければ自分の人生や自分の肉体をどうしようと個人の自由だと思っている。(自由意志の尊重)

但し、高い社会的地位を得ながらも平気で毒を売りつけて高い所得を得続けている医師という職業は如何なものかと思っている。嘗ての同級生たちが沢山入る世界だが、悪いものは悪いと糾弾せねばならないだろう。

国立大学では医学生は年間に約600万円の国費が投じられている(私が医学生当時の話で、現在はどうなっているのかは知らない)というから、国から数千万円も貢いでもらった身としては医療界の闇を告発することがせめてもの恩返しといったところだ(苦笑)

さて、話は変わるが、養生のコツは、常日頃から無理をせず、健康維持にとっての良い習慣を身に付けるというものだが、現代社会では人それぞれの事情があって、なかなかそう簡単ではないかも知れない。

それで、健常者ならば、多少の甘えや油断も許されるかも知れないが、しかし、こと病人は少し身構えて考えるべきかも知れない。

それが難病や、或いは死に至る、半身麻痺、失明に至るなど、重篤な危機を有する場合だと尚更強くそう思うべきだろう。

さて、ではそのような場合にはどうすべきなのか。

以下は健常者にとっての『養生訓』ではなく、病人にとっての『養生訓』といっていい。

簡単に言えば、病気が癒える(完治する)まで全力で病気の原因を廃し、良い習慣を身に付ける努力をすべきだ。

完治すれば、耐性も出来るし、病気以前よりもより健常な身体に戻る可能性もある。

よって、再び、多少の油断(健康に悪い生活)も許されるようになるかも知れない(笑)

まぁ、兎にも角にも執行猶予期間中は大人しくするに限ると思っておけばいいだろう。

死が避けられない状況や、失明に至った後に後悔しても始まらないわけだから、兎も角、まずは一刻も早く「どこも異常なし」の健常状態に戻ることが最優先だ。

しかし、人生いろいろ、世の中には様々な価値観の人がいる。仮に失明するリスクが高くなろうが、目先の楽しみは止められないという人は多い。こういう方々が実際に失明したときに、「十分楽しんだ代償だから仕方ない」と諦めきれるのならば、それはそれで大したものだが、多くの場合は、おそらく「あの時に辞めておけばよかった」と、後悔するのだろう。

しかし、「後悔先に立たず」である。

もし「タイムマシーンがあって、時を遡れるならば」と思うのならば、実は擬似的にはそれは可能だ。

それはこうだ。

まず、臨場感を高め、強いイメージで未来に飛ぶ。そこで(自分の持病の行く末と照らし合わせて)悲惨に死ぬ。或いは失明してみる。そのときどう感じるか?

後悔している自分が存在するならば、タイムマシーンに乗ってまだ症状が深刻でなかったころの過去に戻ればいい。

タイムマシーンに乗れば、それは可能だ。

そして、その過去こそが「今でしょ!」(笑)

本当の恐怖を理解できた今度こそは正しく養生が出来るはずだ。

尤も、こんな与太話で大切な楽しみを奪われては堪らないと思う人は、その人の自由なので、このような考え方を強要するつもりは毛頭ない。

そもそもそのような人たちとは基本的な価値観が違うのだから。

ただ、現在闘病中の病人たちが注意しておかなければいけないことは、服薬(飲み薬、貼り薬、塗り薬、点眼薬など)

によって症状が緩和されていると、ともすると「自分は病人であり、現在闘病中なのだ」ということの意識が薄らいでしまうという事実だ。

痛い、痒い、疲れた、食欲がない、熱がある、などなどの症状はその個体に「自分は病気である(正常状態ではない)」

と自覚させ、注意を喚起することを大きな意味の一つとしている。

身体の声に従って、正常状態を取り戻すまでは活動(狩猟などの通常習慣行動)を控え、安静第一で、無駄なエネルギーを消費しないようにする。

換言すれば、完治まで生活習慣を「悪」から「良」へと可能な限り変化させるのだ。

というのは、生活習慣の中にこそ発病の原因が潜んでいるからだ。

「馬を湖の畔に連れて行くことはできても、水を飲ませることは出来ない」

昔からよく言われてきた諺ではある・・・

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