見出し画像

『初夏ものがたり』のこと 

「初夏ものがたり」の初出は、1980年発行の集英社コバルト文庫『オットーと魔術師』。短編集の中に書き下ろしとして収録された。作者25歳のこと。同じ年に徳間書店より長編『仮面物語 或は鏡の王国の記』が出たあとのことで、78年の初出版『夢の棲む街』(ハヤカワ文庫)から数えてこれが3冊目。そもそもこの『夢の棲む街』を読んで下さった「小説ジュニア」の若い女性編集さんが声をかけて下さり、可愛らしい短編「オットーと魔術師」「チョコレート人形」などぽつぽつ書いて渡していたのだが、残念ながらご病気により担当降板。交代した男の編集さんから「200枚書き足して文庫を出しましょう」と連絡があり、すぐさま応じて書き下ろしたのがこの「初夏ものがたり」ということになる。ーー国書刊行会から昨年復刊された『仮面物語』の後記にも書いたことだけれど、この時期、若かった私は早書きとささやかな量産体制にあったのだ。〈寡作〉な現在とは大違い。
 何しろ長編『仮面物語』は一か月で書き上げたし(いったん中編として書きかけていて、助走期間はあったものの)、続けて「破壊王」シリーズをほぼ一冊分がしがしと書き、その合間に勢い余って「童話・支那風小夜曲集」も書き、「連載中だけどこれも掲載してね」と、渋る編集部相手に迫った。そう言えば「私はその男にハンザ街で出会った」は徹夜して一晩で書いたのだった。「初夏ものがたり」は、こうした時期にきっちり10日間で書き上げたが、速ければいいということでは無論まったくない。が、しかし何と言うべきか、頭の中は疾風怒濤(小規模ながら)。二十代半ば、そういう時期が私にもあったのだ……色々あって、短い嵐の季節のようにそれは過ぎ去ってしまったのだけれど。 

 さて「初夏ものがたり」という作について、もう少し。
 コバルトレーベルで200枚書き下ろし、内容についての相談は特に何もなし。その条件下で、自分なりに思いついたのは、アガサ・クリスティ『謎のクィン氏』のような雰囲気の連作ものが書けたらいいな、ということだった。『謎のクィン氏』はちょうど初訳が出たばかりの時期で、今では『クィン氏の事件簿』など複数の訳本がある。クリスティとしては初期の異色作、幻想色の濃いロマンティックなミステリ連作であって、中でも特に好きなのは「海から来た男」「世界の果て」「道化師の小径」等々。何よりこの世の者にあらざる存在、〈クィン氏〉というメインキャラクターの謎めいた造形が良いのだ。ーーあの世とこの世を仲介する謎のビジネスマン〈タキ氏〉の連作は、こうして産まれたという次第。本人的にはエンタメ寄りにしたつもりだったのかもしれない。日本人ビジネスマンが世界を席巻するという設定には、さすがに時代を感じるのだけれど。
 柄にもなくクリスティなど読んでいたのか、と言われるかも。ミステリ読みの弟がいて、実家にはクイーンとクリスティ、横溝正史の文庫が全巻揃っていたのだ。そう言えば当時、中島梓さん(一度だけ面識あり)がクリスティの、これも異色作『春にして君を離れ』の大ファンでいらっしゃいましたね。
 さてそれにしても。
 正直、大昔に凄い勢いで書いた「初夏ものがたり」。少女向きレーベル作品ということで『山尾悠子作品集成』にも収録していない。このたび久々に読み返すのが恐ろしく、しかし一読して何より驚いたのは、おやおや、意外なほど丁寧な書きかたをしているではないか、ということ。わかりづらいと定評のある現在の作風より、よほど真っ当なのでは。ただし若書きの青臭さはむんむん。ーーともかくこの際、存分に手入れをしてはと筑摩書房担当さんから勧められ、でも今さら内容は変えられず。矛盾のある箇所や、表現のアラなどちまちま修正していく作業となった。そしてふと気づいたことに、第2話「ワン・ペア」の高慢な少女、このイメージ源はアレクサンドル・グリーン『輝く世界』の権力者の娘ルナだったな、と急に思い出した。サーカスにて〈空飛ぶ男〉ドルートに接して以来、狂気となって彼を追い求め、終いに滅ぼすに至る娘。この『輝く世界』もまた当時初訳の懐かしい本で、特別なフェイバリット本でもあったのだ。これに影響を受けていたのかと思い出し、さすがに感慨があった。
 この恐るべき第2話だけは、現在の作者もまったく手出しが出来ず、ほぼ原型のままです。

 また思い出したこと。むかし書き上げた原稿を渡したあと、「タイトルを『夏ものがたり』に変更して、文庫の書名としては」と編集氏から提案があった。電話の向こうの顔を知らないこの編集氏、渡した原稿の内容については、「面白いけれど、暗い。あちらの世界の話だから」と、ひとこと感想があったのみ。想定外の内容にさぞお困りだったのだろうと、今にして思う。さて25歳の私は、「夏と初夏とは全く別物です」と断固改題拒否。「オットーと魔術師」を書名としてもらったのだが、いま思えば改題のみ断って、普通に「初夏ものがたり」を書名にしてもらえば良かったと思う。
 コバルト文庫『オットーと魔術師』は、一度だけ増刷となった。が、全くの〈暗闇に向けて投げた石〉、地方にひとりでいてインターネットもない時代であったし、届いたファンレターもなく、これを読んだという感想には当時ひとつもお目にかからなかったと思う。SF専門誌に好意的な書評が出ていたそうなのだが、本人はつい最近まで知らなかった。ーーそして令和の世となり、この度は何と、ちくま文庫より「初夏ものがたり」単体での復刊を、との有難いオファーがあったという次第。しかも、願えるならば酒井駒子さんのカラー挿画多数という豪華版で、と。
 聞いて冷や汗が出るやら、そのような図々しいお願いを酒井さんのようなかたに…と怯んだものだが、しかしいざ実現してみれば。鮮やかにビジュアルの花開き、元の作品とはまったく別物、見違えるよう。
「オリーブ・トーマス」の幼い少女のさすがの愛らしさは、まさに鉄板。「ワン・ペア」で敢えて人物を避けた表現、「通夜の客」の黄色いきものの少女像も嬉しくて。「夏への一日」のミステリアスな娘の表情には特に感銘を受け(これを表紙に用いればという案もあった)、元本では彼女がどのように亡くなったのか言及がなくて不自然だったので、土壇場になってこの部分を特に念入りに手直しすることにもなった。ずっと良くなったと思うのだけれど、これも酒井駒子さんの画の力のお陰です。小さなイラストカットに至るまで。酒井さん、本当にありがとうございました。そして装幀デザインはこれまた高名な名久井直子さん。酒井駒子作品をよく活かしたシャープな装幀、誠にありがとうございました。

 さらに季刊「幻想文学」誌以来、長い長いお付き合いの元編集長・東雅夫氏。かつて「通夜の客」をアンソロジー『少女怪談』に収録して下さった経緯もあり、この度は『初夏ものがたり』解説をお願いすることになりました。(京都・東福寺の幾何学庭園のイメージは、確かに頭にあったかもですね。)『謎のクィン氏』についても充分な解説を頂き、こちらの件でもたいへんお世話になりました。

 近年の『飛ぶ孔雀』や『山の人魚と虚ろの王』から読み始めて下さった読者ならば特に、この『初夏ものがたり』は同一人物の作とはとても思えないかもしれない。でも嵐のような若書きの本作に、もしや何がしかの良さを感じて頂けたとしたら、これに勝る喜びはない。と、ここまで書いたところで、愚痴多い元・作者は退場することと致します。長々お読み頂きありがとうございました。

        2024年5月吉日 山尾悠子



いいなと思ったら応援しよう!