そのお話はあなたの物語ですか?

なにかを見て、聞いて「これは私のものだ」と感じることがある。MOTHER2の「おまえのばしょ」ではないが「私の物語」が存在する、気がする。

その「これは私のものだ」という気持ちは、いったいどうして起きるのだろう。

その感情の成り立ちは2種類に大別出来る。主観的理由と、物語の構造的理由だ。

主観的理由は、個人に起因する。たとえば、喫茶店で名前も知らぬ青年に一目惚れをし、恋焦がれている時に、同じような心境の曲を「たまたま」耳にすれば「私のことを歌っているみたい」という気持ちになる。

>この人あたしをわかってる / あたしの心を歌ってる / 恋したわ (ノゾミのなくならない世界/筋肉少女帯)

つまりは共時性(シンクロニシティ)による共感に起因するものだ。偶発的な出来事だからこそ運命的であり、物語への没入が深まる。

ロマンチックなことばかりはなく、竹本健治の「匣の中の失楽」のなかで、登場人物の1人の美少年真沼は「自分の思想が漏れているのではないか」という疑念を持っている。ふと思いついた詩の一節を、たまたま近くにいた男女が口に出したりする。

>「君はどこにいるの」「どこにもいないわ」「じゃ、行こうか」(匣の中の失楽/竹本健治)

これは、「物語の中に没入する共時性」とは真逆のように見えるが、匣の中の失楽という物語の性質上、物語の導入として小説の文章で描かれる人物に、真沼の頭の中が盗まれたというのは「物語の人物が物語の人物と化す」没入の象徴としてみることが出来るだろう。(書いててわけがわからないですが、それは匣の特徴)

「私」の頭の中を「私以外」が物語にした時、それは「私の物語」になり得る。

さて、物語の構造的理由のほうは、そのものずばり物語構造に起因する。

簡単なところで言えば、地の文の人称を二人称にする、という手法がある。芥川賞受賞作である藤野可織の「爪と目」は二人称で書かれた小説だ。

>はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。(爪と目/藤野可織)

しかしながら、小説という物語構造上「あなた」も登場人物に過ぎず、文章の外にいる「私」が物語のなかの「あなた」になり得るかといえば、それはなかなか難しい。二人称小説については、WEB小説を中心に様々に実験的な作品がある。

派生として、読者が犯人であるミステリという飛び道具も存在する。読んでいる読者にすぎない「私」が、物語の終盤で突然物語の内部に連れ込まれる、そんな構造だ。

他にも、「夢小説」と呼ばれる「名前変換型」の物語群も、主人公(ではないこともあるが)の人名を「私」に変換することで「私の物語」とする方法の1つだ。これは夢小説だけではなく、各種ゲームでの主人公の名前を自分にしてプレイするプレイスタイルにも通じる。更に進化すると、ラブプラスなどの恋愛シミュレーションゲームでの「自分の名前をキャラクターがその声で呼んでくれる」と、更に物語の中へ没入させられる。VRやSRの技術と組み合わさることで、物語体験はさらにリッチに、個人的になっていく。それは確かに「私の物語」の1つである。

他にも、登場人物から現実の「私」に介入がある(手紙が届く、電話が来る、メールが届く)ARG的な方法も物語の中に「私」が「私」のまま介入することが出来、「私の物語」という気持ちを強める結果となる。

しかし「私の物語」であるはずのに、物語の流れも、エンディングも(マルチエンディングがあるしても)他の大多数のユーザーと同じ物語であることを疑問に持たないだろうか。「私の物語」は、「私だけの物語」足りえてはいない。

「私だけの物語」を考えるとき、例えばTRPGやPBM(プレイバイメール)といった個人が物語を紡ぐ手法がある。もちろんこれは「私(たち)だけの物語」だ。プレイヤーの選択ごとに物語は変化し、筋も結末もプレイヤーの行動に委ねられる。

物語の流れも、エンディングも同じであっても「私」が介入するにあたり、物語の筋が変わったり、もしくは自分の心理的感情を引き起こされることにより、「私だけの物語」である感覚を強めることが出来る。リアル脱出ゲームでは、「忘れられた実験室からの脱出」の物語の結論について、「私はこうだった」と語り合うのが参加者の中で盛り上がっていたのは記憶に新しい。

「私の物語」と「私だけの物語」の違いは「受動/能動」だろう。能動的に動けば全て「私だけの物語」であることはないが、能動的に動くことは「私だけの物語」であることの条件の1つに思える。

受動的な物語で「私だけの物語」であることを実現させるにはどうすればいいのか。主観的理由から「私の物語」であるとき、その主観の観点がニッチすぎる場合は、きっと「これは私しか共感できない」という一種の優越感から「私だけの物語」であることはあり得る。これは主観という幻想が根本にあるので、覆されることは出来ない。自分が主人公の私小説的な作品はどうだろう。しかし、私小説的な作品であれ、物語化した時点で「私」は「私」ではなくなる。

「私の物語」であることは、思い込みと幻影だ。

結局のところ、リアルゲームと称されるイベントは「登場人物から現実の「私」に介入がある」を手を返え品を変え行っているのではないだろうか。といような現実への介入について、その内気が向いたら掘り下げて考えたい。







三月ちゃんをいろんなイベントに出張させることが出来ます。ヤバそうなイベントに自分で行く気はないけど誰かに行ってきてほしいときに使ってください。