【ひぐらし卒最終話】見たいように見た考察風あれこれ【ネタバレ有】

※本稿には旧作『ひぐらしのなく頃に』を含む、シリーズ全体のネタバレが含まれます

アニメ『ひぐらしのなく頃に卒』が、先日ついに最終回を迎えた。

恐る恐るハッシュタッグでの検索をかけてみたが、やはりというか賛否が飛び交っている。しかし思っていた以上に賛の割合も多かったのに何故かホッとした。先に断っておくと、私も賛側の人間である。

元々やり過ぎるぐらいにやり過ぎるオーバーさが作者の持ち味だと思っているので、前話の展開についても次のように納得していた。

もちろん、初見時こそド肝を抜かれたものの、純粋に楽しめてはいた。親友同士がすれ違ったけど最終的に殴り合って分かり合った(完全な和解とは少し違うけど前向きに)、その陰にはもう一人の親友(羽入)の助力もあったという。プロットとしては、かなりすっきりとした話だったんじゃないだろうか。

超展開に次ぐ超展開からの尻すぼみだと感じてしまうのは、実際に見せられている事象――画面上のシーン――を重要視し過ぎてしまうからというのが大きいだろう。実際、「こんな話数かけてすることじゃなかったのでは」という意見には同意する。純粋にサスペンスとして視聴、考察していた勢にとっては尚更である。

中でも本作の結末について、受け入れがたいとする視聴者の主張として多く見られたのが前述した「沙都子の所業」。ひいてはそれに対する「お咎めはないのか」という意見、もやもやである。気持ちは分かる。そう感じるのは当然だろう。これに関しては、作品そのものを受け入れたかどうかとは別次元の問題としてぶち当たっている人が多いように感じる。

特に『ひぐらしのなく頃に』はループの仕様からして、沙都子のしでかしたことがすべて無かったことになったわけではない。彼女によって無茶苦茶になった世界は「カケラ」という名の平行世界として存在し続けているわけで、つまりメタな視点に立つまでもなく彼女は大量殺人者のままなのだ。

最近の風潮として罰や制裁はフィクションにおいても現実においても、もはやトレンドとすらなっている。そういった事情を横に置いても、悪行には相応の罰がなければというのは、古くから創作物における一つの不文律でもある。それは手塚治虫『バンパイヤ』におけるロックのように、ピカレスク・ロマンの側面を持つ作品においてさえ適用されることが多い。

中には悪が栄えたまま終わる物語も少なくないが、そういったものは最初から後味の悪さを目指した作品や、リアリズムを強調しようとした結果そうなったというケースがほとんどだ。だが、ひぐらし卒はそうではない。別離ではあるが、前向きな結末として描かれている。リアリズムは最初から放り投げられている。だからこそ、沙都子に何のお咎めもないことに違和感を覚えるのだろう。しかしあえて言いたい。「ひぐらしはそれでいいのだ」と。

※ここから先は、旧アニメ版未視聴で原作同人ゲームのみプレイした筆者による見解なので内容はすべて原作版に準拠します。しかもリアルタイム勢なので記憶の不確かさはお察し下さい。

◇罰ゲームはあっても天罰はない世界

原作の頃から『ひぐらしのなく頃に』は、罪(業)と赦しが、限りなく表に近い裏テーマとなっている。圭一もレナも詩音も沙都子も、主要人物の多くが過去に罪を犯し、あるいは本編中に犯すことになる。そしてそれに囚われていく。そこから如何にして救いを得るか、折り合いをつけて解放されていくか。『罪滅し編』がサブタイトルからして象徴的であるが、他の章もおおむねこのパターンを踏襲している(そもそも詩音のように、罪と解放が章を跨いでいることもある)。

分かりやすい例として『祟殺し編』と『罪滅し編』で考えてみる。この二編で罪に囚われているのは沙都子とレナだ。それぞれの章でどん底にいる彼女たちには共通点があった。自らの不幸を罰や祟りだと考えている点だ。沙都子はにぃにぃに甘え切っていた罪に対しての、レナは雛見沢を離れた罪に対しての。しかし圭一たちは、ひいては『ひぐらしのなく頃に』という作品は彼女らの考えを否定しようとする。天罰や祟りなど思い込みに過ぎない。不幸は単なる理不尽に過ぎないと。

また原作においても卒においても頻出したワードである「奇跡」も、人間が意思と行動によって起こす大いなる結果であり、神や運命がもたらすものではない。『祭囃し編』で赤坂が「間に合った」のも、梨花に幸運という奇跡が舞い降りたからではない。本編中でもモノローグで語られている通り、赤坂の後悔と不屈の意思が呼び寄せた結果なのである。

『惨劇なんてない。あったのは、悲劇と喜劇』

オヤシロ様の祟りなんてなかった。すべては不幸な積み重なりと敵対する別個の意志によるものだった。そんな理不尽なルールを、生身の人間たちが自ら打ち破ること。これが『ひぐらしのなく頃に』の根幹を為していた。だから、天罰というのはそもそもこの世界観とシナジーが合わない。むしろ真っ向から反するものだ。天罰から逃れるには、贖罪どころか罪を罪として意識する必要すらない。そもそも天罰の存在しない世界なのだから、逃れるもクソもない。これは優しいようで厳しい世界でもある。どれだけ他で善行を積んでも辛い目に遭い続けても、戦うべきものと直接戦わない限り、立ち向かうべきものに立ち向かわない限り、その先の運命は切り開けないのだから。これもまた『ひぐらしのなく頃に』の世界における不文律の一つである。

現に最後まで罪に囚われたまま贖罪しようとしていた『祟殺し編』の沙都子は救われなかった。『皆殺し編』で示されたように、彼女が救われるのに必要だったのは「救われたい」とする意思、「助けて」と声を上げる行動であった。

また旧作においてリナや鉄平が殺害されたのも、悪人に天罰が下ったからではない。彼らは人間であるレナや圭一の意思によって殺されたのだ。逆に鉄平たちより遥かに大きな罪を犯したはずの鷹野に希望が残されたのも、富竹たち人間がそれを望んで死の流れを阻止したからである。

ただ勘違いして欲しくないのだが、沙都子が何のお咎めも受けなかったからといって彼女は赦されたわけではない。天罰というものが存在しない世界なら、逆に言えば罰を受けなかった=赦された、という図式も成り立たないのだから。今回の件で沙都子に失望し、徹底的に彼女を嫌ってしまった視聴者も少なくないだろう。そういう意味でも、沙都子というキャラクターはこれからずっと業を背負っていくことになるはずだ。

◇沙都子の喪失

ということで作中で沙都子にお咎めがないことへの理由付けは書いたが、それに納得できるかどうかはまた別の話だろう。ひぐらしはこういう世界、こういう作品なんだから受け入れようなんて言うつもりはない。散々書いてからこの結びは卑怯だろうが、結局のところ賛否が分かれるべくして分かれた結末だったという他ない。

私は本作に三島由紀夫『金閣寺』を想起した。人生に絶望して金閣寺へと火を放った後に自殺しようとした主人公が、最終的に自殺用の小刀を投げ捨てて「生きようと思った」あの結末。初めて読んだのは学生の頃だが、今も強く印象に残っている(小説のモデルとなった実際の事件の顛末や、三島自身の最後を思うと複雑だが……)。

ともあれ。自業自得だろうと因果応報だろうと、一度はまともな人生に絶望した人間がもう一度「生きよう」と縋ることが、私の目には殊更に尊く映るらしい。もちろんこれが現実であれば、まずは罪を償ってからという話になるが、ことフィクションにおいてそこは後回しでもいいと思ってしまう。

加えて言えば本作において沙都子は最終的には「梨花と一緒じゃない世界」に折り合いをつけた。そんなものはお咎めでもなんでもないだろうが、沙都子にとってあまりに大きな喪失だったのは間違いない。

「勉強さえすれば梨花とも一緒にいられたのに」というのは酷だ。無限の時間と死を超えるような覚悟さえあればどんな苦手も克服出来るはずだなんていうのは、強者の理論だ。「出来ないものは出来ない」というのは、甘えなどでなく事実だという場合もある。

沙都子は結局、勉強とルチーアには立ち向かえなかった。だから『ひぐらしのなく頃に』の不文律に従い、その先にあった梨花との生活も手に入れられなかった。これが喪失でなくてなんだというのか。

綺麗な鉄平、拷問しないタイプの詩音、復活したてにもかかわらずやたら血色のいい悟志。梨花の不在を除けばあまりにも沙都子に都合好過ぎる世界のようだが、そこで生きる決意を見せたということが梨花からの卒業を強調的に表しているようにも感じた。

ご都合主義、ご都合エンド。その指摘ももっともだが、一人の人間が再生するには本来それぐらいお膳立てが必要なのだろうとも思う。

ところでネタ扱いされがちな羽入の足音だが、改めて考えてみるとこれも良く出来ていたと思う。後付けにしても。罪悪感を作中人物の単なる譫妄の域に留めず、プレイヤーに対して分かり易く演出している点で秀逸である。

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