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子育てのきたところ

年末、4ヶ月健診にいってきた。

この市は集団健診のため、健診の部屋にはすでに30組みほどの親子がいた。
よくよく見ると、当たり前だけれどどの子も違う顔をしていて、こんなに小さいのに本当に個性があるんだなあとしみじみしてしまう。

兄姉を連れてきている親もいたり、夫婦揃っていたり、お母さんとおばあちゃんだったり、来ているメンバーもそれぞれだ。中にはお母さん一人で双子を連れている人もいて、ダメ母のわたしなんかは尊敬の気持ちでいっぱいになる。

子育ては、学習だと感じることがよくある。
自分がどのように育てられたのか。それを「子育て」として学習して、自分の子育てにも応用してしまう。応用どころか、横流しの時も少なくない。
困ったことに自分が子育てしてもらえるのは人生で一度きりなので、ほかの子育てを学ぶ機会はほとんどない。大人になって育児書やネットの情報を見ると、いい育児悪い育児の代表がゴロゴロと転がっていて、知らない「子育て」に動揺してしまう。

お母さんとおばあちゃんで来ている組み合わせを見ながら、わたしは複雑な気分だった。
わたしなら、もし実家の近くに住んでいたとしても絶対に母とは来たくない。

もし自分の母がここに同席していたらーー
保健師さんと会話しているわたしの斜め後ろに立ち「おばあちゃんもどうぞ」と席を勧められても「いやいや〜」と手を振る。そのくせ、会話の最中に自分の気になったことを追求しだし、話の腰を折ってしまう。
その質問が確実に息子に関することならまだしも、別の孫の話だったりして、保健師さんを困らせているのに自覚しない。
健診後にわたしが注意しようものなら、「そんな怒ることじゃないでしょ」とまじめに取り合わない。

目に浮かぶ光景があまりにも現実味を帯びているので、正直ゾッとしてしまう。

母の育児を簡単にまとめると、
⑴添加物は一切排除
⑵子どもは風の子、雨でなければ家では遊ぶな
⑶怒鳴らない・手はあげない
⑷子ども優先、自分は後回し

いい母親でしょう。
いい母親なんです。

しかし、上記のとおり、子どもの話を聞かない(自分のものさしが優先)という大きな短所がある。会話の量は多いし、学校での出来事なども聞きたがるので一見コミュニケーションは豊富だが、実際は話の途中で筋違いの質問が入り、説教が入り、わたしは話す気が無くなってしまう。

最近ヘリコプターペアレントという言葉があるらしいけれど、近からずも遠からずと言った印象を受ける。子どものやることにレールを敷くわけではないけれど、「それは無理でしょ」「(そんなこと言って)偉そうに」「(ポジティブな報告をすると)●●という意味でしょ(ネガティブ変換)」など、子どもの自尊心ややる気をくじいて、無意識に自分の物差しに合わせさせる。

実家にいると喧嘩が絶えず、それに関しても両親から「(わたし)が悪い」と言われ続けてきたので、わたしに問題があるのだろうと思い込んでいた。

就職して一人暮らしを始めた時、生活のストレスが少ないことに驚いた。もちろん仕事のストレスはあるのだが、家でのストレスがあまりにも少ない。
しかしその時に思ったのは、やはりわたしは人間的に欠陥があって、人と生活することが根本的にできない人間なのだな、ということだった。

その後、結婚や出産を経て、わたしにも実家の考え方とは違うものさしができた。
新しいものさしができたことによって、これまで信じていたもののいくつかは正しくないことに気がついたし、自分にかかっている『呪い』の存在を理解することができた。
子育てとは全く、やりようによっては『呪い』だ。
親の価値観、親のものさし、親の言葉のひとつひとつは、親が思っている以上に子どもにとって大きな存在になってしまう。

今現在も、自分で作りつつある新しいものさしと、親に与えられたものさしの間で日々混乱しながら、なんとか子どもたちを育てている。きっとこの『呪い』は簡単には解けないし、うまく受け入れるにも何年もの年月が必要なのかもしれない。
幸い夫の物差しは幅が大きいので、それに救われている。

親から学習した「子育て」。親に与えられた『呪い』。
それを疑う事は、親を否定することとは違うことだ。そう信じて、新しい自分のものさしを作っていく。そして、その新しいものさしが子どものものさしとなってしまわないよう、どうすればいいのかを考えている。

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