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ノスタルジー~トロント滞在記~

また、年寄りの懐古趣味です。悪しからず。
考えてみるとこの頃が人生のピークだったような気がする。
傲慢で自惚れ屋のアラフォーは、自分の人生はどこまで上昇するのかと、文字通り舞い上がっていた。そんな有頂天に天罰が下る。50代で心が萎え、どん底を経験して職場を移る羽目に。しかし、職を失うことなく続けられたのは周囲の温情のお陰だったことに気付いたのは最近のこと。どこまでおめでたい恩知らずの自己中なのか?この頃の自分はどうしても好きになれない。本質的には今も大差ないような気がしてまた落ち込む。⤵️

ともあれ、仕事でトロントに1年間滞在した。35年くらい前の話。昨日の関東の豪雪で思い出した。トロントは旭川と同じ緯度。冬は雪が消えることはなかった。一番寒かったのは-20℃くらい。現地の人には、いつブリザードに閉じ込められるかわからないので、車には常時毛布を載せておくようにと。古い借家ながら、地下室にガスボイラーのある床暖房と二重窓が設備されていた。温暖地育ちにはどちらも珍しかった。

1989年1月。

当時、6歳と7歳の子供達がランチボックスを持ってスクールバスに向かうところ。チャーチルパブリックスクールの1年生と2年生。初日、海苔むすびをランチボックスに入れて持っていった長男曰く、「みんなが鼻をつまんで嫌な顔をしたよ」。翌日からはサンドイッチになった。

汚染したオンタリオ湖ではなく、近郊のシムコー湖へアイスフィッシングに連れていってもらった。ハットと呼ばれる風避けの小さな小屋の中で氷に穴を空けて釣る例の釣り。氷上を自家用車が走っていたのには仰天した。氷が割れて落ちることはないのか?私の釣果はなかったが、同行の友人が釣った40 cmくらいのホワイトフィッシュを頂いた。「腸を出して3日間冷蔵庫に保存した後、刺し身でお食べなさい」との教えに従った。魚は新鮮なほど旨いという常識が当てはまらないこともあるのだなと実感した。時間を置くことで組織がオートリシスを起こし、かえって美味になるのだと。

当時からトロントの住宅事情は売り手(家主)市場で、990カナダドル/月で借りた家は、ヤングとシェパードの辺りの、ブルージェイズ🐦️のさえずりが聞こえる閑静な住宅地にあった。大家さんはすこぶる親切で家族ぐるみでお世話になった。
因みに、年棒22,000カナダドルで雇われた。半分は家賃に消えるので、日本の職場の給料が出ないとヤバかった。

車は必需品で、左ハンドルのターセルを中古で買った。運転免許の試験は、タッチパネルで回答する筆記試験と自分の車で受験する実技試験。小学校区で一時停止を怠って実技を一度落とされた。

ハイランドファームというバカでかいスーパーに週2くらいのペースで通っていた。休日には中華街(ダンダス通り)やインド料理街(ジェラード通り)で外食した。
ナイアガラにも近く、クイーンエリザベスハイウェイを行けば、日帰り出来るし、モントリオールやケベックシティへも高速を5~6時間のドライブではなかったか?

2009年9月

I miss you. の懐かしい思いを抱いて、20年後のシルバーウィークに家族で再訪した。1年を過ごした借家はそのまま。前庭の2本の木だけが成長していた。街も地下鉄が一部延伸したことを除けばあまり変わってなかった。時間が日本よりゆっくり流れていた。

しかし、この家は近頃跡形もなく消え、新しい2階建てに替わっていることがストリートビューで確認できた。ちょっとした喪失感。諸行無常。

思い入れのある場所へは、安く買える乗り放題切符で全部行った。地下鉄、路面電車、市内バスに全て有効なチケット。
ナイアガラへも長距離バス(有料:チケットは効かない)で行った。

話は前後するが、そもそもの出発の日は1988年8月。小さな子供2人と大きな荷物を抱えて、在来線山陽本線の五日市駅から広島駅まで数駅、広島駅からは新幹線で東京駅まで、さらにバスで成田まで。自分が望んだトロント行きではあったが、不安でドキドキしながら飛行機を待った。それまで飛行機に乗ったのは新婚旅行で松山~鹿児島間を飛んだ一回きりだったから。

何と言っても最大の障壁は言葉。
トロント国際空港に着くと直ぐに、眉間に皺を寄せたイミグレーションだったかエンバシーだったかの大柄のおばさんに捕まり、色々質問(詰問)されるが要領を得ない。最後は、カナダ政府のお金で働くくせに英語も満足に喋れないのか(そう聞き取れた)との捨て台詞とともに解放された。
ほとんどの人は、「アンタの英語は自分の日本語よりはるかにいい」と慰めてくれた。これは英語が母国語でない人に対する常套句らしい。多くの人から同じことを何度も言ってもらったから。

今考えると無謀としか言いようがないが、それでも人生で一番の思い出になっているのは、現地の職場の仲間や近隣に住む、やはり海外出張中の日本人の方々のやさしさや親切心に依るところが大きい・・・大きいどころか100% そうである。
救いだったのは2人の子供が、彼等なりに不満や悩みはあったにせよ、毎日嫌がることなく学校に通ってくれたことである。日本人学校ではなく英語しか喋らない現地校で、特に、長男のクラスには他の日本人がいなかったから。先生方の困難と尽力は想像を超えている。
子供の会話習得は、耳から入るだけあって早く、発音も完璧にネイティブ。日本人のいないクラスの長男は特に早かった。子供同士の会話は不自由ないまでになっていたけど、帰国後、忘れるのもアッという間だった。やっぱり、言葉は使ってないと維持できないらしい。
これだけ他人様のお世話になりながら、何一つ恩返しらしいことが出来てないのは忸怩たる思いである。感謝するのみ。
因みに、トロントとは先住民の言葉で人々の集まる場所(人種のるつぼ)という意味らしい。

余談ながら、「ヘミングウェイの妻」の自伝を読んでいたら、1920年代の一時期、幼子とともに一家がトロントで生活していた記述があり、知った地名などが出てくると懐かしさが沁みた。
また、「グレン・グールド 孤独のアリア」によるとトロントの生活が長く、シムコー湖畔で一人で住んでいた時期もあるらしい。孤独の天才ピアニストは32歳で演奏活動を止めることを宣言し、50歳に脳内出血でなくなるまで孤独に生きたらしい。最期のベッドには聖書となぜか夏目漱石の「草枕」があったらしい。

年寄りのノスタルジーを長々と書いてしまった。

今も捨てられずに残っているTTCマップ

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