見出し画像

瀬戸内海と私


穏やかな人でありたい。

自然に触れるたびに、
自然の穏やかさ、静けさやクリアな感じに魅力されるし、わたしも自然でいう瀬戸内海みたいな存在になりたいと思う。

そして、私の口癖は「荒波を立てたくない。」

特に、人との関わりにおいて。

穏やかな海が理想で、少し気にかかる言葉や少しグサッとくるような言葉が来たとしても、じっと波を立てずに耐える。

何を言われても気にしない心の広さが、前向きさが、強さがあれば、何を言われたって動じず穏やかなはずだ。
そう、自分に言い聞かせ、穏やかさを保つ。

けど、何を言われても動じないことはなく、ぐっと耐えて、さらっと流して忘れようとする。
そうすれば、私と関わる人との関係はずっと穏やかなままだ。

下手に荒波を立てて、反感を食らったり、揉め事になるのは極力避けたい。
素敵だと感じる一面があるのに、たくさんの感謝があるのに、わざわざ一部分だけを切り取ってわたしが荒波を立てて人が悲しむことを人との関係性が悪化することをやりたくない。
その一部分をぐっと耐えれば、マルッと解決だ。

そして、穏やかに見える関係性はもちろん見た目は穏やかだけど、気づけば私の心は荒波が立ちまくりだった。
大嵐の海みたいに。

なんなら、波がたっても外に出さないから、
波を吸収するポイントもなく、大きくなるばかり。

周りから見える自分ばかりに、自分の外ばかりに目を向けて、私の内側の状況なんて分からなかった。


瀬戸内海だって、嵐のような天気もあるし、渦潮だってある。
フェリーが通ったあとなんて、波はザブンザブンと音を立てる。
でも、波がたっても、ちゃんと海岸に吸収されれば、いつの間にかいつもの穏やかな海に戻る。

自分の外側ばかりを見ているうちに、私の内側は大嵐らしい。そして、大嵐を悪化させてたらしい。

これが本当に求めてた穏やかさなのか。

心の内側から、私そのものが穏やかでありたい。

わざわざ穏やかさを繕い、自分の内側を大嵐にしてまで守りたいものは、
「自分という人間を否定されるかもしれない」という恐れだと思う。

なによりも自分の思いを自分の意見を出して受け入れられないという経験をしたくない。

自分の感じたことを、思ったことを、考えを、価値観を一旦外に出した時に、私もが間違ってる、私がおかしいとなったら嫌だな。
そんな恐れ。

これは同時に、そのまんまの私という存在をマルッとそのまま受け止めてくれる世界だったらいいなという願いでもある。

最近は「私」をすっ飛ばして、「私とあなた」「私が作りたい社会」とか自分の外側ばかりみがちだったらしい。

まずは、「私」から。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?