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21日間の21の間——「インディゴの気分」視覚テキスト分析(第18の間)

作者 Maomono
翻訳 sekiisekii

第18の間 和解

第18の間のすべての細部が胸に迫る。分析のために、私は一コマずつ見ていた。「インディゴの気分」の12分間の公式インタビューで俳優の吉田は、「「インディゴの気分」と「ポルノグラファー」はBLという作品に収まれないだと思うので、敬遠する方々はもちろんいると思うんですけど、でもそう言った方々が見ていただいても、納得してもらえる人間ドラマである、すごく盛り込まれていると思うので、多分体験できているものので、ぜひいろんな方々に観ていただいたいですね」と語っている。私は10年以上のBL作品を読んできたにもかかわらず、もはや類型化された作品を見ない。ジャンルではなく、作品を品質でしか判断しない。葬式で始まり葬式で終わる「インディゴの気分」はBLというジャンルの作品の中で異色を放つ。今度は、更に死亡に触れ、それによって、「インディゴの気分」は同ジャンルの平均水準を超える深みが与えられ、日本文学が愛欲と死欲の伝統を表現することに執着することを思い出す。ただ、この伝統は高度な理性の現代社会で、だんだん衰えている。

蒲生田が昏睡状態に入ることを知った城戸は翌日病院に駆けつけ、看病で疲れ果てた木島に交代を求める。連日のストレスで一瞬に爆発した木島は城戸の首を引っ張って苦悶を発散する。彼は寝ている間に蒲生田が死んでしまうかと心配しているのだ。城戸がその際起こすと落ち着かせ、木島は傍らのベッドで仮眠を取ることができる。「第18の間」は木島が仮眠から目を覚ますところから始まる。このシーンのキーワードを選ぶなら「和解」だと思うが、第18の間を三つ部分に分けて分析する。1、城戸と木島の間の和解、2、親子の和解、3、創作者と一般人の間の和解。

城戸と木島の間の和解

城戸と看護婦の会話を聞いた木島は、うとうとした様子で仮眠から覚める。長い間の介護のストレスで、安らかに眠ることができず、心身ともに疲労困憊していたに違いない。城戸は木島のストレス発散の様子に驚かず、木島が休息を必要とするだけだと正確に判断する。そして城戸が来てから、木島は少し気が楽になって眠った。それは彼自身でも意外だ。木島は身体を起こし、いつのまにかけられてきた城戸のコートを脇に置いた。それまで木島は猫のように、コートに染みついた懐かしい匂いに安心していたのかもしれない。木島は立ち上がって城戸の隣に座った。相変わらず疲れているが、少なくとも焦りは和らぐ。二人は蒲生田のベッドの傍に無言に坐っている。

三木監督は、城戸と木島の二人が肩を並べる背中の構図を何度も使っている。審美面の考慮(吉田と竹財は身長がほぼ同じで、背中がともにきれいだ)もあるが、三木は「表情が見えないことはいろいろな想像をさせる」と説明する。最初のバーのシーンを貫いていた背中の構図を思い出そう。役者の顔が見えない状態では、観客はセリフだけでその場の雰囲気を味わうことになるが、セリフ間の沈黙は際立つ。病院のシーンでは、城戸の眠れたかにうんと木島が答えてから、20秒間の沈黙があり、傍らの医療機器の音だけが聞こえる。このとき視聴者は、前の言い合いのきり話をする機会がない二人がその間の葛藤にどう向き合うのかを当てずにはいられない。先に口を開くのは誰か。それはもう一度の言い合いになるか。それとも、二人はこのまま何も言わずに別れるか。この空白を埋めるのは、画面上の二人の感情の流れだけではなく、観客自身の感情の投影である。木島はこれまで何度も城戸を避けてきたが、例の言い合いの再現を恐れるよりも、城戸の最終決定を聞くのを避ける可能性も高い。城戸が病院に駆けつけた時点で、木島はすでに城戸を許し、さらに、蒲生田の死を止めることができないのと同じように、城戸が立ち去る決意をすれば、それから逃げることはできないと悟る。一方、城戸は転職を諦めた後、必然的に彼女と別れ、そこからショックを受けたと推測できる。しかし木島につけた傷に比べれば、そんなことは何でもない。謝りたがるが、許されないのが怖い。城戸が勇気を出して丁寧に謝罪するまで、二人は黙っている。木島は大人しく城戸の方を見て、謝らなくてもいいと言い、自らの間違った期待を抱くことのせいにする。それが城戸の選んだ人生なら、心の負担を抱えなくていいと言う。それに対して、城戸が転職を断念したことを言えなかった。なぜなら、木島を頼む蒲生田の病床の前に、転職しない理由を伝えるのが木島にストレスをかかることと、自己弁明のようみ見せたくないから。これらの代償を城戸は甘受する。

「来てくれてありがとう」。木島が恋人関係で城戸に余計な期待を抱えなくなり、平気に感謝する。恋人関係がなかった以上、今度の到来は城戸の優しさによるもので、ありがたいことだ。大切な人の死に直面することは、人生の中で最も脆弱な瞬間の一つであり、このような時に得た付き添いや支えは忘れがたい。木島は正直、一人で耐えられそうになかったと告げる。終末期を迎えた人の付き添いをすると、お別れの時がついに来るとわかっていても、それがいつになるかわからなく、それによって心身ともに巨大な苦痛に苛まれる。城戸は木島の気持ちを理解し、黙って彼を引き寄せる。どんな言葉も無力であるこの時、城戸は身振りで自分はここにいる、そばにいる、とアピールする。木島は城戸の横顔を見ながら、彼の慰めを受け入れるべきかどうか迷っている。なぜなら、それは恋人同士でしかできそうにない距離だから。それでも、ちょっと力を借りてと自分に言わんばかりに彼は城戸に慎重に近づく。城戸の優しさが大変必要なのだ。第二話で木島が酔っていた時のように、肩に置いた城戸の手の温かさと力強さが伝わってくる(よく見れば、城戸は力を入れて木島の肩を握るため、親指と人差し指が木島のカーディガンを挟むことがわかる)。そういう辛い時に、寄り添う二人は、言葉を交わすまでもなく、すべてを知っている。このとき、城戸と木島の和解ができた。

親子の和解

城戸は木島にとってなんらかの魅力をもっている。第二話以降、木島は城戸に自分の弱さを遠慮なく見せるようになる。城戸の懐に寄りかかった木島は、蒲生田への未練を語り始める。城戸が静かに聞いてくれることを信じ、城戸も木島にとって父親のような蒲生田の存在の意義を知っている。木島はゆっくりと、蒲生田が彼と同じように文学を愛し、作家としてのこだわりを知っている理想の父親であることを城戸に話す。蒲生田の弟子入りによって、木島は父親との間にある無念を晴らすことができた。第四話で蒲生田に、俺にここまで付き合わなくたっていいんだぜと言われると、木島は「僕のエゴなんです、僕は父を病気で亡くしてますが、勘当された意地で死に際に一切関わりませんでした」と答えた。蒲生田は木島に父親から得られなかった理解と承認を与えただけでなく、木島に罪滅ぼしのチャンスを与え、欠落していた倫理の授業を補習してくれた。ただ、蒲生田は、木島が自分を理想の父親とみなすのを聞いて、「俺みたいなやつが親父だったら、絶対作家にはなってないだろう」とゲラゲラ笑った。主語を省くという日本語の癖で、視聴者の間で曖昧さが生じる。それは、父親になったら蒲生田は作家にならないか、それとも木島は蒲生田のような父親を持ったら、作家にならないか。いくつかの文法書を調べてみましたが、蒲生田のような父親がいたら木島は作家にはならないと読んで妥当であろう。それでも、この対話にはさまざまな解釈がある。上はあくまでも私なりの解釈だ。第六話では、蒲生田がかつて結婚していたことがわかる。だが、元妻は葬式に現れていない。第三話で木島に病気について話すとき、「今までやりたい放題やってきたんだ」と言ったことがある。まわりに誰もいなくなる。家庭生活は決して彼を縛るものではないが、蒲生田もそれなりの責任を負いたくても相手がいない。言い換えれば、蒲生田は作家としては成功していても、夫や父親としたら、それなりの責任感がないので、よい夫やよい父親になるとは思えない。すると、彼の子供としては、父親を嫌悪し、さらに文学界全体へ反発を抱く可能性がある。実際、多くの芸術関係者の子どもは、創作の世界にあまり好感を持たない。また、創作は性質上、他の職業のように安定していないので、子供に経済的な支援を提供することができない可能性が高く、子供は成人後により安定した生活を求める傾向がある。活力溢れた創作者という身分は家庭生活においてのいい親やパートナーという身分は往々にして矛盾する。多くの創作者は作品を自分の子どもとみなし、創作に全力を注ぐ。

蒲生田のこの言葉で、木島は父と自分との関係を見直す。子供に理生(理性と生命、または理性を生命にする)と名づけてくれる父親は、どんな人だろうか。第二話で、父は知識に対する恐怖があると木島が述べるが、実は知識人の兄が不幸に遭い、その境遇から、木島が兄の悲劇を繰り返さないよう恐れているのではないかと推測される。たとえ木島の出身が山形の農家でも、木島の自由な習性は、必ず安定した家庭、経済環境によって支えられて育ってくるのに違いない。木島の父は木島に対して深い理解を示さなかったかもしれないが、必ずしも彼を愛していなく、責任を取らなかったわけではない。彼は木島が文学の理想を追求することができるよういろいろ苦労したであろう。第二話で木島は、父の葬式に行かなかったことに対して負い目を感じるが、それは彼が父に対して非常に復雑な感情を持っている証拠でもあり、決して単純な仲が悪いでまとめきれない。蒲生田のこの言葉は、父の立場から木島の心のもやもやを打ち消す。

人生は選択するたびになにかを犠牲しなければならない。人は何かを選択して実現させると同時に、何かを放棄している。木島の「どっちが良かったのかって言うと、分からないけどね」と彷徨うのも、そのためだ。城戸は編集者としていろいろな作家を見てきて、人を責めてはいけないのは知っている。創作は孤独な仕事だが、作家は人間として、他人の支持、さらに他人の犠牲を必要とする。ここで、木島は心の中で父との和解を果たした。

創作者と一般人の和解

蒲生田との親子らしい会話を語り終えると、木島は背筋を伸ばし、強引に気を取り直して、父親のような蒲生田が死んでいくという、最も困難な事実を語り始める。これは「第18の間」の最も暗い部分で、人間の究極の問題である死に触れる。すべての人は死に直面するが、作家も例外ではない。あれほど自由に、熱烈に、創造的に生きていた蒲生田だが、病魔はその体と創作する理知を蝕んでいる。

調査資料によると、肝臓病はまた肝性脳症、門脈大循環性脳症と呼ばれ、肝昏睡を引き起こす可能性がある。肝は正常な代謝を実現することがないせいで、体内の有毒物質の蓄積をもたらし、さらに意識障害、精神と神経の乱れや昏睡などの全体的な臨床症状を引き起こす。第二話で、城戸が最初に訪ねた時、蒲生田は三回目の手術に失敗し、体が悪くなっているが、彼は城戸に「あいにくここ(注:あたま)はしっかりしてるし」と告げる。第四話で吐血した後、木島が看病してあげるという罪滅ぼし的な言葉を聞き、何度も何度もお礼を言い、木島がそれを慈しむように見ていた。おそらくその頃から、蒲生田は肝昏睡を始めたのだろう。第五話で蒲生田が城戸に懸命に頼むシーンでも、執筆する気力がなくなる蒲生田が城戸の腕をぎっしりと握り、頼むと繰り返した。病状に関する描写が少ないが、蒲生田が発症後、理性を失いつつあることがわかる。

カメラがゆっくりとプッシュ·インして木島に集中し、哀しそうな顔をクローズアップする。俳優の竹財はここでも申し分のない演技を披露する。五日前、蒲生田の言葉は支離滅裂になり、明晰だった頭の中から言葉がどんどん失われていった(言葉が失われていく状態を表現した原作が好き!)他の人の目には、それは病状にしか見えないかもしれないが、同じく作家の木島は、抑えることのできない悲しみを感じる。言葉を操ることが作家としての最も重要な技能だ。文字を生業とする人間が、言葉を巧みに操り、無数の世界を作り上げていく。これはで作家の能力であり、作家を作家たらしめる原因だ。重病は、作家の誇りであった能力を破壊し、病と死の前には、どんな天才も、脆弱な肉体にすぎない。先生はもう元には戻れず、いくら奇跡を願っても、彼の生命力は少しずつなくなっていくと木島はわかる。
能力に恵まれる人がいるが、死から逃れる人はいない。それこそが、人間の究極の弱みである。死は平等に訪れる。これは変えられない事実で、人々に極限が越えられない自らの平凡さを知らす。だからこそ、人々は互いを必要とする。アリストテレスは、「孤立している者、政治的共同体の便益を分かち合えない者、または自足していて分かち合う必要がない者は、獣か神であるに違いない」という名言がある。人間である以上、他人と一緒に生活しなければならない。人間である以上、人といろいろな関係(縁、絆)で結ぶ。人間である以上、人の温もりに執着し、人からの愛を求める。一人で生きられる人はいない。独自で仕事する作家でも例外ではなく、他の作家と師弟関係を築いたり、編集者に仕事を任せたり、本を通して読者と関係を築く。ここで創作者は一般人との和解がなされる。蒲生田が亡くなる直前、木島に人との縁は大事にしろと最後の教訓を与える。それは命かかりの教訓だ。

今になると、蒲生田は言葉を要らないと木島が泣きながら告げる。ベッドの上の安らかに眠っている蒲生田を見つめながら、蒲生田が作家としての生涯、この人生をそろそろ閉じることを意識する。蒲生田は、先生として、擬似の父親として、木島に多くの愛を与え、わずか数ヶ月の間に、二人の作家の間に唯一無二の絆が生まれた。この意外の絆はもっと早く来てくれればよかったが、それを引き止めることもできない。人との絆ができると、いずれそれが切れると対面しなければならない。これは人間として愛されるため直面しなければならない課題だ。その瞬間、木島は強烈な孤独感に襲われ、城戸の前で失態を犯しそうになった自分に気づき、頬を伝う涙をあわてて拭き、立ち上がって背を向ける。気をそらすために、先生の原稿が完成しましたので、自分のところに預かって、用事が済んだら取りに来てもらうと城戸に冷静に言う。蒲生田が城戸に頼むシーンで、蒲生田がまだ原稿を完成させておらず、しかも執筆も許されない状態であることがわかる。城戸は蒲生田に、出版社との契約で未完成でも出版できると注意した。しかし、同じく作家としての木島は未完ということが作者にとってどれほど大きな遺憾なことかをよく知っている。また、第二話で城戸が蒲生田を訪れた際、蒲生田は「最後に悔いのない本を完成させたい」と語った。そこで木島は先生と相談して自分で代筆して完成させることにした。蒲生田の最後の官能小説は、二人の作家が創作の尊厳を守り、文学の世界が続く証だ。

そう言うと、木島は泣きそうになるのを我慢してさっさと病室を出る。弱さを見せて、離れていこうとする城戸に精神的な負担をかけなく、また、城戸の優しさにまた依存するようになるのを避けたいのだ。城戸に未練があると、ついに彼を失う時、また心が折れなければならない。

最後の力を使い果たし、自分を支える力もないかのように、木島は廊下に跪いて座る。城戸のナレーションによると、「明け方、眠ったまま静かに息を引き取った」と語る。夜明け前の木島理生は、生命の最も重要な2つの絆を失う。彼は心の中で二人に別れを告げる。恩師・蒲生田との死別、恋人・城戸との生き別れだ。彼はとうとうこらえきれなくなって泣きだし、号泣するようになる。

では、次の間で。

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