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21日間の21の間——「インディゴの気分」視覚テキスト分析(第12の間と第13の間)

作者 Maomono
翻訳 sekiisekii

第12の間 啓蒙時代

今度は第12回で、執筆予定の半ばが過ぎる。「間シリーズ」に対する皆様の支持に感謝を申し上げます。毎度、素晴らしい評論したり、違う見解を発表したりしていただき、大変嬉しいです。「インディゴの気分」のファンは数少ないが、みんなとても熱心だ。

第12の間は蒲生田宅での木島が夕日を見返すシーンを分析する。個人的な話だが、私はこのシーンを友達の勧めで見て「インディゴの気分」を鑑賞することにしたのだ。このシーンは実に美しくて上品で、おかげで、すっかり「インディゴの気分」のファンになった。

このシーンの最初、蒲生田は官能小説を書くコツは「自分の欲望」にあり、自分の欲望を正直に書くことでしか、読者の心に響かないということを木島に教える。この会話は「インディゴの気分」の眼目である。木島を官能小説家へと成功に変身させただけでなく、エロスと創作意欲の関係を新たな次元へと引き上げ、さらに、木島がなぜ「ポルノグラファー」で長いスランプに陥ったのかをはっきり説明する。

この間、私は上野千鶴子の『女ぎらい』を読んだ。上野は「性欲、性行為、性的関係」という3つの概念を峻別して、次のように主張する。「性欲(セクシュアリティ)は足の間ではなく、耳の間、つまり脳の中にある。……性欲を刺激する装置は、人によって、または文化によって違う。……たとえ性的欲望を伴う幻想が恋愛関係の想像であったとしても、欲望そのものは個人の中で完結するので、愛しているが、あなたと関係ないという言い方は成り立つ。個々人の範囲で、欲望は想像力と同様に自由なもので、私たちは自分の欲望に甘えることができる……欲望を禁止し抑圧することは、本人以外の誰にもできないのである」(中国語訳からの重訳、P65)。

蒲生田は木島に、官能小説は虚構の最高境地で、大切なのは想像力だと教える。しかし、上に引用したように、欲望が恋愛関係に対する想像である以上、そこには投影する恋愛の対象がいなければならない。蒲生田が木島を犬かとあざ笑ったのは、木島が実際に誰かが好きになったことがなく、セックスを生理的な現象とする理解にとどまり、愛のないセックスはただ機械的なものにすぎないからである。

蒲生田の言葉を聞いた木島は、わかったような、わからないような顔をして、ボーとして僕にはわかりませんと答えるが、その目つきは彼を裏切る。過ぎたばかりあの夜、木島は今までにない情熱をはっきり感じたのに。明日またあるのかと聞く時、木島には城戸と恋愛関係を結びたいという願いが現れる。より正確にいえば、木島が城戸と恋愛関係を結びたいと願ったとき、城戸は彼の欲望の投影対象となり、その後も長く木島の創作を支えていく存在になるであろう。

それからは木島の執筆実践のシーン。カメラは木島のいる部屋を庭から撮影する。このシーンの演出は日本独特のわびさびを十分に表現している。高床の古民家、近景の枯葉、石段とその上のスリッパ、戸のかまち、草を束ねたほうき、木島の部屋にあるコタツ、彼の着ている黒いタートルネックのセーター、古びた座卓、それにその背景にかすれたカラスの声、枯葉をそよがせる風の音。これらのすべては夕日に照らされて、わりと寂しい。そんな中、木島は頑張って自らの限界を越えようとし、自分の欲望の書くことを試みる。この時点で木島は四本か五本のタバコを吸っている。執筆はそれほど順調ではないようだ。このとき、庭のシーンがゆっくりとした長回しに切り替わり、カメラは外から部屋の中に押し込んでいく。城戸のナレーションによって、この部屋には夕方になると、西日が強く差し込むということがわかる。視聴者の視線はその西日とともに部屋の中に入り、カメラに振り向いた木島の顔に当たる。彼が振り返った瞬間、西日/視聴者の視線に直面し、視聴者は彼の顔にある影が少しずつ消えていくのに立ち会う。西日があまりにも眩しく、彼は顔をしかめ、目を細めた。

これがまさに、啓蒙時間である。英語で、啓蒙はenlightenという言葉で、字面の意味が照らされるということだ。前のシーンでの蒲生田の教えを聞いた木島はこの時、西日に照らされ、欲望に目覚めて、字面通りに啓蒙されたのである。ただ、西日がまもなくまた暗闇に沈み、その啓蒙はついあいまいなものになってしまう。そう、欲望は夜に属して、太陽神アポロンに抑圧されている原始的な力だ。

すると木島は目を伏せ、机の上にある原稿用紙をみつめ、さらに左下に目をやり、軽くため息をつく。心の準備をしたように、体に潜むあの野獣を目覚まそうとする。彼は左手を下げ、ゆっくりと引き出しを開ける。

引き出しを開けるという動作は明らかに、意図的なものだ。フロイトの精神分析理論によると、引き出しは人間の情欲や潜在意識を表すものとしてよく使われている。ここで、木島が初めて自分の内に秘められた欲望に直面し、そのエネルギーを解放させると同時に、新たな創作の源泉を見出し、官能小説家への完全な転身を遂げたことを示唆する。

では、また次の間で。


第13の間 岐路に立つ二人

今回取り上げるシーンは「間シリーズ」の中で、一番心を痛めたものだ。城戸が社長に転職を依頼する出版社でのシーンと、木島が自己啓発をするシーンという両方をモンタージュの技法で表現される。この二人の運命的なすり違いを視聴者に、生々しく痛く美しく見せる。「インディゴの気分」は長回しを多用しているが、ベストの場面を選ぶなら、私はこの典型的な事例ともいえるモンタージュに全ての賛美を捧げたい。

このシーンは1分近い長いドリー撮影で始める。カメラは会議室の外から中に向かって撮影し、ブラインドによって隠す(veiling)効果を実現する。映画撮影では、隠すことを実現させるため、様々な設置がある。例えば、ホラー映画では磨りガラスのドアがよく使われ、人の影が現れると、視聴者がゾッとする。

このシーンは部下の城戸が社長に蒲生田や木島の執筆計画について報告するごく普通のシーンなのに、何かが企まれているようなぼんやりとした不安感を視聴者に与える。それはブラインドによる隠しの効果だ。ちなみに、「ポルノグラファー」第五話の鍵の渡しのシーンでも同じ手法を使っているが、ここでは分析を省く。社長は城戸が蒲生田と木島両方の出版権をゲットしたことを知って大変喜んで、部下に自らのプランを打ち明ける。天狼賞最年少受賞者の名声を借りて、人々の猟奇心理に乗って、木島の官能小説を一気に売り出そうとする。商売は商売で、社長はその案が妥当ではないと思わないが、いつも言うことを聞く部下は少し不満がある。例のあの夜以降、城戸は木島に対する気持ちが変わり、無意識のうちに木島を庇おうとするが、社長の意見に反対する立場ではないことにすぐ気づき、口調をやわらげて、木島が書き終わってから営業のことを考えようと言い、卑怯な社畜の姿を見せる。社長は城戸の小さな反発に不快感を示さなかったが、社長が会議室を出ていったときに、その反発のリアクションが現れる。先ほどまでブラインドの後ろをゆっくりと進んでいたカメラが、社長の動きに合わせて、素早く会議室の入り口へと移動し、視聴者を漠然と不安させていたことがここで、明白になる。案の定、社長は城戸に、転職のことを考えないかと尋ねる。ここで視聴者がついに思考する。社長にしてみれば、社員の結婚問題を解決する義務はないし、優秀な社員の転勤はいやなはずだ。では、なぜ社長がそんなに積極的にすすめるか。また、最初から、転職のチャンスを交換条件として、蒲生田の著作権を城戸に取ってもらおうとする社長は著作権が取れた後、なぜわざわざ自分から転職の話を持ち出すのか。

考えられるのはこうだ。城戸が無意識のうちに木島をかばうことで、社長は自らの権威に挑戦されていると感じていたのだろう。転職の話をするのは、こっちにまだ頼みがあるよと自分が権力と資源を握っていることを示すためである。城戸が即答しなく、社長のいますぐ返事はいらないと言ったのも、職場の上下関係を明確にして、城戸が社長の考えを否定できる人間ではないことを思い知らせるための注意喚起にすぎない。

城戸は何も言えなくなる。モンタージュは木島の心理を示す二つの空ショットで始める。枯葉は枝の先でヒラヒラと揺れ、机の上のコーヒーポットの中、コーヒーが小刻みに揺れて波紋を広がり、そのうしろにある灰皿にある、吸いかけのタバコがうす煙をふくらませる。注意深い視聴者なら、ここで使われているBGMは、第二話の木島が味噌汁の匂いを嗅ぐ際のそれと同じ曲だと気づくはず。このBGMは第二話で木島の胸の騒ぎを表しているのなら、ここでは木島の湧いてきた愛情を表しているのである。

カメラが木島に向けると、この自主規制時代にして珍しく大胆なシーンが始まる。初めて「インディゴの気分」を見る人はこのシーンに圧倒されるに違いない。監督はあえてバックショットを使い、木島が背をガラス戸に当て、足を開いて自分開発をしようとしているところを表現する。後頭部がドアにぶつけてコンコンと大きな音を立てるところからすれば、その痛みが大きいことはわかる。

次に、ショットはまた会議室に戻る。城戸の沈黙に、社長は大股で出ていったが、城戸は数秒後に社長を追い、呼び止め、そして何かを言おうとするが、しばらく黙る。視聴者はここで再び緊張して、城戸は何を言うか分からないが、人生経験からして、城戸がいま直面しているのは、人生の難問だとわかる。このあたりで、他人の熱い感情と向き合うのか、より豊かな生活のために他人を裏切るのかが問われる。人生の二択一の難問だ。答えは人によって違う。より豊かな生活を入手すればその利点はすぐ見えるが、熱い感情と向き合えば何の目の見えるメリットがない。

城戸の答えが出る前、画面はもう一度カットバックされ、木島のところに組まれる。不利な天秤の一端に、ある理想的な愛情の重さが伝わってくる。カメラが右からドリーインする。自己開発は愛の処刑のようで、木島の苦しみが見える。机の上の注射器でも、その裂ける痛みを和らげることはできなかった。その人をどれだけ切望すれば、その苦しみに耐えられるのだろう。しかし、愛は苦痛に耐えることを正当化し、その限界を超えると欲望を解放し、快感に変わる。

画面が再び城戸のところに戻る。選択は先延ばすことができるが、到底は避けられない。城戸は思い切って社長に頼む。社長の目線が冷たく、まるで、やっぱり、人は上に行くんだねと言わんばかりだ。一方、木島のほうはいよいよ処刑のクライマックスに辿りつき、木島の苦痛と快感が混じる顔が容赦なくクローズアップされる。彼が荒い息をついて畳の上に転がると、視聴者の木島との同調による苦しみも終わる。横たわる木島は、生贄のような何ともいえない潔さを示し、黒いタートルネックと裸の下半身が、愛の純粋さと欲望の混沌さを同時に視聴者に投げかける。身を引こうとする城戸と、恋の深淵に落ちた木島はお互いの行動を一切知らない。心を痛めるのは視聴者だけだ。

では、また次の間で。

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