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21日間の21の間——「インディゴの気分」視覚テキスト分析(あとがきと番外)

作者 Maomono
翻訳 sekiisekii

あとがき



2021年1月「インディゴの気分」にハマってから、評論を捧げたいと思っていたが、このような形でできたのは思わなかった。このシリーズの文が公開されるたびに、多くの質の高いコメントが出てきたのはなによりだ。この情報洪水の時代に、読者のみんなと共に活発で影響を受け合うテキストの議論空間を作ったようだ。これは今の豆弁映画討論区(注:中国の2CHみたいなサイトだ)さえ持っていない盛況で、私の予想を完全に上回った。ここに心から感謝を申し上げます。
「間シリーズ」を書くことは、私にとっては視覚テキストを精読することでもあり、また、解析動画(注:中国語版しかない)を作るために、過去に何度も見た「インディゴの気分」にもう一度目を通してみた。そこで、過去には見えなかった細部を発見したり、新たな観察のヒントを洗い出したりして、ドラマの豊かな細部に驚いた。「間シリーズ」を書くことで、次の3つのことを新たに知ることができた。1、気分/感情2、言葉、3、HE/BE。

気分/感情

vikiで「インディゴの気分」の評論を見る時気づくことだが、欧米の観衆はたびたび「インディゴの気分」を「emotional journey」(感情的な旅)及び「mesmerizing」(集中させる、魅惑する)で形容する。それは、長回しと間の正しい把握と深い関係がある。最近『管理される心』(アーリー・ラッセル・ホックシールド著)を読んだ。その本のサブタイトルは「感情が商品になるとき」で、作者は「感情労働」という概念を提案した。効率性が求められる現代ビジネス社会では、人々は常に自分の感情や気分をその場その場に合わせて整えることが求められるが、強いて変えられたり、抑圧されたり、無視されたりする感情や気分が重荷となり、疲労感を増して、人間のさらなる異化をもたらす。感情の切り替えは時間がかかる過程で、ボタンを押して一瞬に切り替えることはできないが、忙しい人々はいつも素早く切り替えなければならない状況に置かれ、また、感情を持ち込まないこそが「プロ」と称えられる。疲れきった人々は映像でストレスを発散しようとするが、多くの作品はストーリーに基づき、起承転結で注目を集める。「インディゴの気分」は逆手にとって、感情に基づく。長回しをうまく使って、役者の全体の感情の変化の過程、感情の表現の過程を完全に見せる。愛する人を見つめる次第に湧いてくる情欲、デリケートな感情で涙が落ちる無力感、嫌悪からかわいがり、怒りから憂え悲しみまで……初めて鑑賞する時、筋がそれほど複雑でないため、ぼーと見過ごしたが、再び鑑賞して、感情の変化の多くの細部に注意すると、「インディゴの気分」の魅力が現れる。俳優の繊細な表情を見ていると、日々にしびれていく視聴者の心に何か蘇ってくる。人を愛することはこんなにも美しいことか。ときめき、切望、不安、嫉妬、怒り、哀しみ、苦しみ、未練、そういう感情が面倒くさいと思われるのは、どんどん速くなっていく社会に受け入れられないからだ。人々は感情のことを弱みとみなし、効率的に生きることの妨げと考えるが、しかし、日々エスカレートする高効率の社会には、人間はロボットとしてしか生きられない。この場合、うつの人が多いことが不思議でもない。「インディゴの気分」は感情の繊細な描写に対して、現実の時間をたっぷり使って感情の変化を表現する。それを見る過程はまるで1回の「告解」(注:キリスト教の儀礼で、洗礼後に犯した自罪を聖職者への告白を通して、その罪における神からの赦しと和解を得る信仰儀礼)のようだ。見る者は城戸か木島の代わりとしてドラマにある感情遍歴を体験し、それによって、長い間に抑圧、無視される感情(またはネガティブな感情)が解放され、これこそ、人間であることを確認する時である。

言葉

「インディゴの気分」 第六話の目となる木島の「言葉ってすごいね」というセリフに対する理解は時間とともに変わっている。

最初はこの言葉は久住と城戸の違いを指すと思った。城戸が告白すればHEになるとか。しばらくして、城戸と木島のバッドエンドは両者の性格が異なるせいで、言葉はそれほど重要ではなく、この言葉はドラマのリズム感を保ってくれるだけと思うようになった。「第21の間」でお別れを分析するときに、城戸と木島の間の交流パターンとして理解していると思いついた。そのわけを説明しよう。
城戸と木島の間の素直ではないやりとりをよくキャッチボールと呼んでいる。他人から見ると難解そうに見えても、二人はこのゲームをうまくやっていき、付き合いにつれて、どんどん上手になっていく。

「第二の間」では、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という名言を引用した。言葉遊びという言葉は、言葉が現実世界を鏡のように映しているという意味論を提唱したことをウィトゲンシュタインが後ほどそれを否定してから出した新しい概念で、簡単に言えば「意味の使用説」である。言葉には状況によって様々な使い方があり、その意味は使用者と使用状況によって異なる。「またね」という言葉は、木島が一度言うと、たんなる別れる時の挨拶だが、「ま、た、ね」とゆっくり話すと、「また会いましょう」という意味が生じる。そこで改めて「言葉ってすごいね」をみると、言葉が生み出す豊かな意味に対する木島の感嘆ととして読めると思われる。

HE/BE

三木監督は「東京ラブストーリ2020」の終了日に「すべての愛は結ぶためにあるわけではありません」とツイートした。「第16の間」でも書いたが、「愛する人はきっと結ばれる」への執着は、人々は愛の挫折に耐える能力を弱める。私は「インディゴの気分」のファンと同様に、城戸と木島のBEを安易に受け入れられなく、遺憾があるからこそ忘れがたいのだとわかっていても、抜け出せない。その悔いは、わけのわからない別れで恨みになり、ついには自らを慰めるために同人小説を書くことにした。童話では、お姫さまは王子さまと幸せに暮らしていくなどと書かれている。それはあくまでも童話で、ついに読者を現実に戻らせるための言葉だが、逆に現実と同じように悔いのあるような物語を読んだら、読者は物語を安心に手放せなく、いろいろな解決策を求める。それは、それぞれの人生に解決策を求めるのと同じだ。城戸と木島の物語が現実であれば、読者は一時の結末にこだわる必要がなくなる。生活の中で、別れてまた恋が再燃するカップルが少なくない。長い目でみると、城戸と木島は一緒にいる可能性はないではない。切ってもきれない腐れ縁だからこそ、恋よりも、婚姻よりも長く続く可能性があろう。これこそ、字面通りの「死がふたりを分かつまで」の実践だ。それも愛する人はきっと結ばれるという観念ではないかという反論もあるが、それは、私の願う気持ちである。ある程度、遺憾のある感情と現実の不完全さを受け入れながらも、私自身の人生が良いものになることを願うと同様に、城戸と木島が彼らの世界で再会できる日が来ることを願っている。


番外

道の端に茅ヶ崎一里塚という碑が見えたので、今歩いているのが東海道だとわかった。ということはひとまずこの道をまっすぐ行けば品川とか日本橋に着くわけだ。何時間かかるのかは考えたくもないが。仕方がないので覚悟を決めて歩き出した。まぁ夜が明けて朝になろうと昼になろうと別に待っている何かがあるわけでもない。仕事もないし見たいTVもないし友人や恋人に会う約束もない。気楽なものだ。幸い夏が終わったばかりの気候は暑くも寒くもなくて、見上げると夜空に星がいつもよりくっきりと浮かんでいた。新宿まで歩けなくもないような気がしてくる。しかしこんなことになるなら通夜振舞いに箸をつけておくんだったな、と私は思った。水や食べ物を買うくらいの小銭はなんとか持ち合わせていたが、一食分浮かすことができたのに。そんなみみっちい考えが頭をよぎって軽く気持ちが落ち込んだ。認めたくはなかったがここまでくるともう自分の惨めさを受け入れざるを得ない。

暇にあかして毎日図書館に置いてあるすベての新聞を隅から隅まで目を通していたら、おくやみ欄に学生時代の恩師の名前を見つけた。つい感傷的な気分になり、財布の中身も確認せず茅ヶ崎くんだりまで来てしまったが、本当に馬鹿なことをしたものだと思う。いい年して安っぽいロマンチシズムに振り回された自分が恥ずかしかったが、ただ退屈しのぎという意味では正解、だったかもしれない。卒業以来会っていなかった大学の同期の顔を見るのは案外面白かった。心から懐かしんでいる顔、なんとなく気まずそうな顔、好奇心丸出しの顔。そういえば一人妙な垂れ目の男に絡まれたが、あれは一体なんだったのか。

「木島!」

急に名前を呼ばれたのでびっくりして振り向いた。

「君は…」

シルバーのハイブリッド車から顔を出したのは、さっき斎場で絡んできた男だった。同じゼミだったらしいが、本当に記憶にない。

「駅は随分向こうだぞ。迷ったのか?」

「いや……」

本当のことを言うか一瞬迷ったが、別に取り繕うほどの相手でもないと思ったので正直に答えた。

「帰りの電車賃がなくて」

「なんだって?」

「インディゴの気分」

「21の間」シリーズの番外編へようこそ。去年、Weiboでの連載が終わった後、皆さんに手落ちを感じたところはないかと聞いたら、みなさんが第一話の「歩けば着くかなって」(08分57秒から13分07秒まで)というくだりにふれた。この部分も大事だと思うが、「21の間」を書く際、一話一話の配分を均等にするため、取捨選択をしてしまった。同年10月、中国のファンの間に行われた「インディゴのシーン10選」でも僅差で10位圏外で、入選しなった。

福のある残りものとして、このシーンをぜひちゃんと分析したい気持ちが日々つよくなり、ようやく、番外の形でぜひ「21の間」シリーズに納入させたい。

私と同様に、「インディゴの気分」の文学性に魅了された方が多いと思う。「インディゴの気分」の語り方、起承転結、繊細な心理描写、洗練されたセリフなどはまでる小説のようだ。木島理生の純文学デビュー作と同じ題名になっているためでもあるが、小説とドラマにある小説に間テクスト関係をなし、ドラマ「インディゴの気分」の文学性を増す。この構造をわかりやすく理解してもらうために、原作者の丸木戸先生は、漫画の表紙の裏に木島の独り言としてさっきの話を書いてくださった。今回はこの話をめぐって展開する。

本番に入る前に、まず読者のみなさんに二つの質問をする。その二つの質問を考えながら、私と一緒にこの部屋に入ってください。質問その1、第六話の葬式で、木島が城戸にそういえば、その日はあなたが私を拾った日ですといった。木島が城戸に泊まってもらったのが事実だが、なぜ木島は城戸に拾われたと言うのだろうか。。質問その2、私は「第21の間」に触れたことがあるが、木島が第一話で振り返って城戸を自宅に招き入れなければ、何も起こらない。では、木島が振り返って城戸を招いたきっかけとは何だろうか。

この二つを読み解くポイントは、城戸の人柄である。木島を見送って席に戻った城戸は、同級生たちと昔話をするシーンをみよう。斎藤が久しぶりに木島を見たことを話すと、本を出したとか、投資詐欺にあったとか、あの風雲児はどうしたんだ、という噂がどんどん出てくる。他人の失敗を喜ぶのが人間の本性かもしれないが、同窓たちの話し方からすれば、木島の評判と名望に嫉妬や恨みを抱き、今日の木島の失敗を喜ぶ人が多いらしい。城戸は笑いながら聞き流したが、目の前で食べるものや飲みものに、急に興味がなくなるようだ。遠い大学時代、初めて木島のデビュー作を読んでショックを受け、小説を書くのをやめた頃のことを思い出した。城戸にとって木島は特別で、自分が書きたくても書けない世界を書きだした人だ。憧れの人がうまくいかないだけでなく、こんな風に冷やかされているのを聞くと、道理で気分が悪い。しかし、人付き合いのいい彼は、そういうときの不快感は飲み込むしかないともちろん知っている。欠席する人の噂話は常に人間関係のつなぎとめる接着剤だ。

みんなが食べたり飲んだりして、通夜振る舞いに行く。城戸は笑いながら同級生と別れ、酔っ払った斎藤が引き止めようとすると、城戸は仕事があることと、車で来たので酒は飲めないことで断る。斎藤は視線の先を車に向け、「送ってもらうと思ったのに」と甘える。城戸は「また今度、なあ」と言って、とうとう同窓を払う。車に入って、成功ビジネスマンのお面を外した城戸は、ようやく一息ついて、社交の疲れがどっと湧いてくる。それから携帯を取り出すと、期待していた彼女からのメールはない。城戸士郎は、実質上のホームレスだ。

ここで、斎藤さんが乗れなかった車について触れておきたいと思う。木島とのやりとりから、この車が社用車とのことがわかる。昨年@刹那さんが城戸が車を借りて葬式に出ることにわけがあると指摘した。斎藤さんの話から、城戸の同世代の多くは車を持っていないことがわかった。この葬式は非公式の同窓会でもある。同窓会というのは、昔の友情を懐かしむ場で、ひそかに張り合う場でもあることがわかる。特に五年、十年一度の集まいは、お互いの様子を見比べる場である。城戸は卒業して就職うまくいかず、アルバイトをしていた桃水社に入った。給料は悪くないが、大手ではないから負けそうだ。約束していた結婚も仕事のせいでパーして、彼女に追い出されて住むところもない……そう、城戸は人生の沈滞期にいる。何かを聞かれるとプライドが傷つきやすい。社用車を借りることで、こいつはうまくやっているという印象を与え、一方では、お酒を飲まない言い訳を作り出し、素早く逃げ込むことができる。酒を飲んで言い過ぎると、同窓に自分の窮状がバレたら、今度の噂の話題は自分になりかねない。それを構えて、城戸が大変疲れている。それは複雑な大人の世界で生きる悩みでもある。

車内の交通放送が、東京の市街地に戻る道が渋滞していることを告げる。帰りが長くなるのを心配していた城戸が道を曲がると、横断歩道をぽつんと渡っている人を見かける。ここで、「インディゴの気分」の唯一のスローモーションが映し出される。アイドルが出演する恋愛ドラマでは、イケメンや美人が登場するシーンをスローモーションで演出することがよくある。その人が主人公の視線の中に現れると、世界がスローダウンしたような気がするという驚きの心理を描写するためのものだ。この手法があまりにも多く使われるから、嫌になり、ドラマの下劣さが目立つ場合もある。

しかし、悪いのはスローモーションそのものではないと「インディゴの気分」は教えてくれる。的確に使ったら、純粋な美しさをもたらすのだ。城戸から木島を見つけて「うん?」と疑問に思ってから、「えっ?」と確認するまでの16秒間のスローモーションは、城戸が木島を見るまでの心理の過程をしっかりと伝える。BGMの「み空色」は3秒の静寂の後ようやく流れてきて、城戸が見たからわかったまでの心理的反応を十分描ける。

「第三の間」で城戸が木島の遠ざかっていく後ろ姿を見つめることについて分析するとき、英語では誰かとの恋に落ちそうな段階を「seeing someone」(誰かを見ている)と言い、見ることの大切さをよく示した。城戸が何年前から木島の小説を読んで、彼に憧れ、更にお通夜の席で木島が外で一人タバコを吸っているのを見て、外に出て話しかけると一連のくだりは今回の出会いの下地になる。よくある冗談だが、城戸がそのまま通れば、物語は始まらない。しかし、木島は特別だからこそ、横断歩道を渡っている木島を無視するわけがない。城戸は木島を見ているので、車を止めて注意するのは当然のことだ。

この絶妙なスローモーションといえば、撮影時のエピソードを触れなければならない。葬式の時期が秋の11月という設定だが、撮影は真冬の2月だった。DVDの「メイキング」によると、それは俳優の竹財が季節のダウンジャケットを着て撮影現場に入って撮った最初のシーンだ。衣装スタリストは時期に応じてコートを用意したが、撮影現場に来た清水プロデューサーはコートを着ない方が格好いいと主張した。ごもっともだ。画面上の枯れた木の枝やがらんとした道路が寂しい雰囲気を作り、さらに音色が澄んで雪が降るようなBGMは、肌を刺すような冬の季節感を視聴者に直観的に伝える。その広い都市空間を、喪服のスーツを着る木島はさまよっており、いっそう身寄りがない孤独感がある。彼の姿は、このスローモーションで城戸にも、城戸の目を通して見ている視聴者にも伝えてくる。マンガの扉にある文字を読んでいなくても、レンズ越しで木島の孤独を察することができる。

16秒の注視の後、視聴者にも城戸が車を止めてなぜ寒い風の中を一人で歩いているかと聞いてくれるという期待がある。この時、城戸は視聴者の共感を呼ぶ。木島を見て、僕は車を止めなければならない。

木島は明らかに自分の世界に没入している。城戸のエンジンが鳴り、二度ほど叫んで、木島はようやく誰かが話かけていることに気づき、振り向いてその声を確認する。城戸はさっきの自分のことを覚えてくれないのに気にせず、駅に行くには方角を間違えてるよ、と木島に注意する。城戸は道でも迷ったかと思う。なぜなら、こんなふうにあてもなく街をうろついているのは迷子だけだろう。なんといっても、大人には計画があり、方向性があるものだ。が、木島は淡々と、帰りの電車賃がありませんと答えた。

そこからの城戸の反応はコメディタッチだ。木島の答えをそうかと納得しそうで受けいれ、それからえっ?と驚いた目を見せる。違うだろう!どういう状況か!木島は彼の驚きを無視して、歩き出そうとした。好奇心と良心に駆られた城戸は、「歩いて帰る気かよ、都内だろ、ここ茅ヶ崎だぞ」と追いかけて聞く。

木島は再び淡々と答える。「歩けば着くかなって。」城戸は、こういう間違いなさそうで非常識な答えに驚く。どこに住んでいるかとさらに聞くと、木島は正直に答える。城戸は脱力して、「乗れよ」と言う。いいですか、と木島が訊いたと、城戸は振り返ってボンネットを叩き、喜劇の最後のネタを振る。「じゃあね、バイバイって訳にもいかねえだろう」。最終的には、お笑い芸人・木島理生が「ありがとう」と突っ込んで、この喜劇を完成させる。城戸は手をポケットにさしこんだまま、木島がひらひらと歩いてくるのを見て、世間的にはどんなに非常識な人だろうと思う。ただ、今度乗ってきたこの乗客は、これから、自分の人生の車から一生降りることのない乗客になるとは思わない。

地図を見ると、茅ヶ崎から東名高速を経由して新宿まで60キロ近くあることがわかる。渋滞がなくても車は50分から1時間15分かかる。徒歩では約11時間で、公共交通機関では1160円ほどかかる。丸木戸先生の文から、木島が財布の中身を確認せずに葬式に駆けつけたことと、暇つぶしのために歩いて帰ろうとすることがわかる。しかし、実際には、詳しく述べるまでもなく、先ほどの同窓が噂話で触れた木島のスランプの様子や、ここで木島が一人で歩いている場面から、この少若くして志を遂げた青年作家が人生を彷徨っていることが推測できる。

そして、ヘッドライトの近づきに合わせて、おなじみのBGM「青藍」が遠くから聞こえてくる。左側の高架橋にある車が絶えずに走っていくのと違って、ショット画面のメインを占める道路はがらんとして静かで、主人公を乗せた白い車は暗い都市の暖かいオレンジ色の光の中を走っていて、静かな美しさを醸し出している。アスファルトの道を走る車のホワイトノイズの中、二人の話し声が聞こえる。この手法は、車が移動している特殊なプライベートな空間であることを強く意識させる。車内の出来事を知るには少し手間がかかる。すると、視聴者の好奇心が誘われる。1時間以上の移動の間、あまり知らない二人がどんな話をするか。

式場で城戸が声をかけるときのやや高慢な態度を改めて、木島は申し訳なさそうに城戸という名前を確認すると、城戸は鷹揚に笑った。木島は完全に常識を失っているわけではないようだ。他人の車に乗って、運転手と世間話をして気まずさを紛らわす必要がある。それで、木島は城戸に聞く。今、何をしているか。これはごくありふれた話題だが、城戸は意外にも、自分のやっている仕事がそれほど立派なものではないことや、自分が志願した業界ではなく、他の仕事が見つからない困った境地にいることまで木島に話す。城戸は次々と自己をけなすが、木島は、それでも、そこそこ稼いでいるんじゃないか、と無意識に車を褒める。

城戸は思い切って木島に自分のことを聞かせるようだ。メンツを立てるために車を借りてきたのに、なぜか木島にはついに事情をすべて自白する。車が借りてきたこと、同棲していた彼女に三日前に追い出されたこと、住む場所がないことを、余すところなく告白する。昔の同級生には絶対に話さないようなことを、木島に全部話してしまう。木島は横目で彼を見ているが、思わずため息を漏らす。

カメラは二人の横顔を捉え、ピントにあたられる城戸が漠然と遠くを見て、実現しなかった人生計画を木島に語る。ピント外れでボケる木島は依然として城戸を横目で見ている。慰めも無駄で、できるのは感情を共有するだけだ。「それは…残念だったねぇ」。この時、ボケるか否かの対比によって城戸が際立たれる。彼は自白を通して、自分の人生をはっきりと木島とスクリーンの前の視聴者に白状する。うまくいっていない人は、木島だけではないのだ。

木島のマンションに着くと、ダッシュボードに城戸のタバコのアメリカンスピリットが置かれることが見える。未公開にも見れないシーンだが、FODは木島が城戸の車でタバコを吸っている写真を公開している。「第3の間」で触れたように、木島は自分のHOPEを消す時点でタバコを吸い切れている。城戸の話で木島が憂鬱になって城戸からタバコをもらっただろう。または、気分転換に、城戸からタバコを勧めたかも。

木島は第六話の「遺影の前の告白」で、周りの人に優しいことが好きだと言う。実際、第一話から城戸は優しさを見せている。一人で歩いている木島を無視することができず、家まで乗せる。木島のスランプについての皮肉を聞き、自分の窮状を余すところなくさらけ出す。さらに、(可能性として)タイミングよく自分のタバコを出す……1時間以上の旅の間、二人は時には沈黙し、時には言葉を交わすかもしれない。城戸は車というパーソナルスペースを木島と共有し、木島がリラックスできる仮の場所を作る。編集者城戸は、いわば半セラピストのような存在だ。彼の優しさは、木島の心の動きを敏感に察知させる。城戸の本能に近い優しさこそが、一人きりの木島に忘れかける人間の温かさをもたらす。その行動が、木島が振り返って城戸を誘う決定的な理由になる。

冒頭の小説らしい文に戻ろう。木島は城戸のことを見せかける手間のいらない人だと思い、帰りの電車賃がないと素直に言う。しかし、見せかける手間がいらない人ということをよく考えると、これ以上関わることはないという意味でもあろう。ただ、直感で木島は最初から城戸に対して無防備にしているこそ、城戸の率直さを取り交わす。木島の直感はただしい。二人は周波数があい、相手に偽る必要のない人間だ。城戸が木島の文学に惹きつけられたのも、同じ精神世界を共有していたからかもしれない。

多くの背景情報を紹介する第一話の中で、今回が取り上げるところは比較的気持ちの穏やかなつなぎに位置されるが、他の部分に比べて情報が決して少なくない。木島と城戸のそれぞれの人生の様子をスケッチし、そして二人の運命が交わる原因と過程を示す。見た目で、木島は城戸に住むところを提供するが、心理的から言えば、城戸によって、木島は一人で彷徨う状態が終え、そこで第六話での木島の拾われましたことがある。のちほどの出来事を知る視聴者は、もし彼らがそれぞれの人生の沈滞時期に出会わなければ、もし彼らがお互いにこのように素直に対応しなかったらと色々仮説を出したいが…

この世界の多くの偶然性の中で、必然性がある。城戸は優しい性質で、車を止める必然性がある。木島には城戸の憧れの世界を描き出す文学の才能がある。このような二人が出会って運命の歯車が回っていく。


おわり


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