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21日間の21の間——「インディゴの気分」視覚テキスト分析(第八の間と第九の間)

作者 Maomono
翻訳 sekiisekii

第八の間 胸が騒ぐ瞬間

「第八の間」は「第七の間」に続いて第二話にある最高の部分を分析する。「第八の間」のキーワードを挙げるとすれば、それは「胸が騒ぐ」で、心の中で何かが生じたと感じる瞬間である。この間では、風景の空ショットと効果音という2つの新しい観察要素を導入し、それらで、監督がいかに日常の美を再現するかを見ていこう。

「第八の間」はペアになる二つのシーンを分析する。トイレでよっぱらって吐いた木島を慰めるシーンと翌朝の朝食のシーンだ。前者は城戸の胸が騒ぐ瞬間で、後者は木島の胸が騒ぐ瞬間である。10分35秒から14分00秒まで、あわせて3分25秒も続くが、セリフは大変少ない。

父の一年忌に出なかった罪悪感から一日中酒を飲んでいた木島は、父とのもつれを吐き出した後、城戸にゲロを浴びせる。第八の間の冒頭、カメラは斜めに洗面台に向かって、城戸の背中だけが映る。水を流す音で嘔吐の音がほとんど消されている。このような細かい配慮は「インディゴの気分」の随所に見られる。吐いた後、木島は本能的に城戸に慰めを求め、その腕に身を預ける。前の間で分析したように、木島はすでに城戸に心を開いた。城戸への信用と依存は、もはや元同級生やルームメイト、仕事上のパートナーにとどまらず、より個人的な友人の域にまで達している。アルコールのせいで木島がひどく嘔吐をするが、同時に彼の仮面を奪い去った。その際、木島は自らの軟弱さを城戸に保留なく見せてあげる。父親が木島の弱みであることに気づいた城戸は、木島の「ごめんなさい」というつぶやきを聞き、左の目から落ちる涙を見て、木島の肩をぎゅっと抱きしめる。

制作グループは30秒をかけてゆっくりとカメラをプッシュ·インして狭い空間の中で城戸が木島を見つめ、彼に腕を回し、シンクに背を預けるまでの一部始終を細かく表現し、この瞬間の二人の親密さを視聴者と共有する。腕の中にいるのは、かつて城戸が羨み、憎んでいた人であり、また、その類まれな才能によって、凡人には想像もつかないような偉業への道をスムーズに切り開くことができたようだが、今はとても脆弱で無防備な人である。面白いことに、人々は往々にして、自分が愛されるに値する人間であることを証明するために、人前で強さや卓越性を示すにもかかわらず、実際、無力さ、脆弱さ、無防備さこそが、真の愛をもたらす。優しい城戸にとって、木島への同情はこの狂気の執着の始まりであり、同窓会の初日にこの男を壊してやろうという当初の意図もさっぱり忘れる。

翌朝のシーンをつなぐのは、2つの風景ショットである。青空と稼働する洗濯機。背景の効果音は小鳥のさえずりと、洗濯物を振り出す洗濯機の規則的な轟音だ。洗濯機の中にあるのは、木島が昨日のおうとで汚れた服だと推測できる。城戸は木島の寝室のカーテンを開け、起きろうと言い、また台所へ戻り、味噌汁を盛り付ける。それはごく普通でありながら、普通ではない週末の朝だ。多くの人にとっては日常であるがゆえにごく普通であるが、木島の小さなアパートで起こるから普通ではないのである。「第七の間」で私は、時間感覚の再構築は日常生活をコントロールするための第一歩で、同居人の城戸によって新しい時間感覚がもたらされたと指摘した。木島を起こし、朝食の準備をすることこそ、城戸の彼の人生に関わるさらなる一歩である。規則正しい生活を通して、城戸は木戸の無力感を取り除き、創造力の回復に助けようとしている。編集者は原稿さえもらえれば、作家のプライバシーを気にする必要はないが、城戸は木島の創作だけでなく、彼の生活も気にかけている。

木島は食卓に座り、味噌汁の香りをそっと嗅いでありがとうと感謝する。このシーンは木島が城戸に惚れ込んだきっかけだったか、そして、それはありえるか。それは「インディゴの気分」の中国ファンの間によく議論される話だ。私見では、それはただの一杯の味噌汁ではない。前日の夜、深い孤独感でようやく吐露した「ごめんなさい」とは対照的に、今度の「ありがとう」は木島がもう一度他人に大事にされる証である。我々は誰にも管理されないのが自由と思うが、その自由が長く続くと、ついに誰にも相手されない孤独になる。他人とのつながりを失うと、人はニヒリズムに陥る。なぜなら、人は自らの存在の価値を他人に証明し、その他人を必要とする。愛は他人と深く結びづける感じという本質を持つ。木島は注意深く、昨日自分は何かをしたかと聞く。城戸の答えで、またやらかしてしまったと思う。反省の時間を与えた城戸はこの機会に木島に酒をやめるように頼み、木島は素直に承諾する。城戸は親のように、木島に「ちゃんと食って、ちゃんと寝て書け」と言い聞かせる。立ち直る力は、自分を心配してくれる人の心に応えたいと思うことから生まれることが多い。

朝食のシークエンスは冷たいブルーライトのフィルターで撮影され、早朝の小鳥のさえずりや熱い味噌汁から漂う熱気と軽快なBGMと木島が食卓に座って味噌汁の香りをそっとかぐ様子、これらの全部がある種の日常的な美を成している。日本の優れたドラマや映画は日常性や生活のディテールを詳しい描写する。「湯気があがっている場所は、人が笑っている場所だ」という、大好きな東京ガスのCMがある。起きて、用意された朝食をとることは、孤独が蔓延するこの時代には贅沢なことともいえよう。これからの新常識は不安をもたらすかもしれないが、日常生活の秩序を確立することで、前に進む勇気を得ることができる。

では、次の間で。


第九の間 蒲生田宅を訪ねて

第九の間も第二話から選ぶ。第二話の後半から、ストーリーの展開は急になる。まるで穏やかで広い河原を抜けた後の川が岩だらけの細い水路へと流れ込むみたいに、主人公の感情が乱高下している。「インディゴの気分」を何度も見ているにもかかわらず、城戸が木島を蒲生田宅まで連れていって訪問するシーンを見る度に、いまだに言い知れぬ緊張感が生じる。蒲生田はいわば、この狭い水路での最大の巨石となり、同居する二人の穏な日常を満載したボートを勝手に転倒させ、粉々に砕く。

その前に、桃水社の社長は蒲生田の遺作を出版権と引き換えに、城戸に転職の斡旋を持ちかけた。それが出世の最大のチャンスだと悟った城戸は、その場の勢いで木島に蒲生田の弟子入り推薦をし、蒲生田の最終決定を遅らせることに成功した。

蒲生田は城戸のいわゆる「りお」、漢字で理生と書かれる弟子候補がまさか男だとは思ってもみなかった。そのせいで、城戸がわざと自分を騙していると怒り、城戸の尻を蹴って追い払う。城戸は木島の表情を見る勇気もない。木島に一緒に来てくれと頼んだのに、こんな結果になるのは面目ない。長年の社畜経験から、城戸ははっきりわかっている。怒ったら、斡旋する余地がないので、負けを飲み込んで恥を忍んで去るしかない。このような怒りは過去にも前例があり、今後も珍しいことではないだろう。それに対して、そばにいる木島は、城戸の行こうという声を聞いたが、上目遣いで蒲生田を見ている。ピントは木島に合わせられる。木島が人に頼んだことはないが、前の夜、城戸が「俺の手で出したい本なんだ」と手を握られたことはまだ記憶に新しい。城戸にとって、蒲生田の遺作の出版は、どちらかというとに仕事レベルの挑戦にすぎないので、失敗してもしようがないが、木島はそれを城戸の編集者のプライドや理想と結び付ける。誰にも人生で追求したいことがあり、自分自身もかつて理想に挫折したことがある。木島は挫折した城戸を見て同情する。そう簡単に諦めてはいけなく、もうすこし頑張ろうと思い、木島はそろそろ自分の番だとして、部屋に入った。

社会性の高い城戸と違い、社会に丸め込まれていない木島は態度を和らげても尊厳を失わない。口を開いてすぐただ者ではないことがわかる。まず、誤解を招いたことを丁寧に詫びる(態度を和らげ、間違いを正直に認める)。そして、相手の要求を満たさなくても自分なり長所があるとアピールする(長所を伸ばし、短所を避ける)。それから、本気に学ぶ気があることを表明し(出版権の目当てでないことをアピールし、相手の警戒心を解く)、頼み(ついでに、自分が力になることを再び強調し)、最後にお辞儀をして覚悟を見せる(何の代償でも払う)。就職する時、どうすれば第一印象が悪かった面接官にもう一度検討してもらうか。木島理生は、まさにその模範だ。そのような木島を傲慢で、社会のルールにまったく無頓着で、雲の上で生きているような男だと思えば大間違いである。彼はまともな人である。

作家は人間性を深く理解しており、この時点で蒲生田は木島の性格を大体把握しているのだろう。このような人物を最後の弟子として受け入れるのは絶対に損をしない。ただし、さっきまで性別の問題で激怒していたのに、すぐに態度を変えては威厳を失ってしまう。病気になる前の蒲生田は、いたずら好きで有名だったが、病気になってからはなかなかそのようなチャンスがない。彼にはすぐある考えが浮かんだ。それは自分の悪趣味を満たすためでもあり、また試練でもある。俺はこんな人だぞ。乗り越えられないなら、帰ってください、と。また、彼が出した要求はパワハラと見なしていいが、木島は拒否することもできる。その結果は城戸と同様に断れるだけで、さらなる損がない。

木島はもちろん、「何でも」にそんな無礼な要求が出されるとは思っていなかったので、城戸と同様、最初は驚いた。しかし、蒲生田ができないのかと挑発し、木島の顔を触りながら男の弟子なんてとる気がさらさらないことを再び強調すると、木島は負けたくない気持ちが大きくなる。そのわけについて、これまでの議論では、木島が城戸に惚れ込み、城戸に身を捧げようと決心したと解釈されるのが多い。確かに、それは木島の本心であることは間違いないが、私からみれば、蒲生田の挑発的な態度も木島を決意に駆り立てる。一見弱そうに見える木島は芯が非常に強く、それは第五話での城戸の言いだせない評価と一致する。普通の人なら、あれを承諾することは男の尊厳を損なうと考えるかもしれないが、木島は普通の男ではない。彼は蒲生田の要求を、自分の創作の道を開拓すると同時に、城戸の編集者としての理想を実現するための試練、難関と捉えている。ここで蒲生田の要求を断ったら、彼は取り戻したばかりの人生の目標の挫折に直面しなければならないし、再び折れてしまう。それこそが木島の尊厳を真に損なうことになるのだ。そうして7秒ほど考えた後、木島は歯を食いしばって、やるよと言う。目標と理想を達成するために、この試練を乗り越えなければならない。目標と理想からして、それは大したことではない。しかし、木島は知らない。この試練を乗り越えたら、確かに創作の理想に近づくが、人生の別の重大な試練に直面しなければならない。そして、その試練は彼をあやうく壊滅させる。

初めてこのシーンを見て、さすが漫画からの改編で、二人は友情の壁を越えるには非常に劇的な場面が必要だ、と私は思った。ただ、今になって、蒲生田のとんでもない要求には内在的な論理があると思うようになった。結果からみて、蒲生田の要求は確かに城戸と木島の関係を急速に変えるが、それだけではない。このシーンは城戸と木島の異なる選択で二人のまったく異なる性格を示す。そして、それらの選択は最終的に彼らをそれぞれの運命へと導くことになる。セラヴィ。

では、また次の間で。

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