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そして、曲者であることをやめた。

私は本当は曲者だ、と自分自身では思っているかもしれない。

それを理由に、子供を授かることを、

いい意味で成し遂げたいことにはせずに、

いい意味でそれを考えるなら考えるだろうことから、

いい意味で逃避して生きているかもしれない

(毎日、働いているから、この生活が続いても問題はないけれど)

どのように曲者かというと、

例えば娘が生まれたら、娘の裸体を見て興奮する、

いい意味でいけないお父さんになるのではないか、

とか気になるかもしれない。

あと、いい意味で曲者じゃない(まっすぐで素直)自分でいた方が、

女の子は喜んでくれるかもしれない、

と思えた機会が多いかもしれない。

いい意味で曲者である私を、喜んでくれるかも女の子がいたとしたら、

その子もいい意味で曲者なんじゃないか、

という気持ちがして、

いい意味で素直でまっすぐな私を、

いい、と思ってくれる女の子が多いといいな、

と思っているから、いい意味で引き寄せているかもしれない。

曲者かもしれなくても、

女の子と性交したり、子供を授かったり、子供を育てることは

できるかもしれないと思う。

しかし、曲者でいるために、

自分の心はいい意味で汚いな、と思いながらも、

バランスを保ち生きていくイメージがあるかもしれない。

ずっと綺麗な心のままでいたい、と今も思っているから、

女の子と性交することや、子供を授かることや、

子供を育てることから、いい意味で逃避して生きているかもしれない。

心が綺麗だったら、それらはいい意味でできないんじゃないか、

と思っているかもしれない。

そういうところがあるから、

いい意味で一人でする方も、

それは人が生きるために、効果的だから行うのだ、

と納得するまでに、いい意味で時間がかかったかもしれない。

今では、そっちは、いい意味で習慣的に、

週何回か行うかもしれないけれど。

いい意味で曲者になる覚悟があれば、

女の子と、性交も、子供を授かるために計画を立てることも、

子供を育てるために計画を立てることも、

できるかもしれないけれど。

その道をいい意味で選ぶとしたら、

いい意味で、自分の心の汚さに、

いい意味で罪悪感を感じながら、

幸せを感じていくのかもしれない。

その道を選んだからって、

360度、完全に幸せってわけではないかもしれないなー、と思う。

自分の心がいい意味で汚いな、と思いながら、

数段階前の私が「いいな、それいいな」と目を輝かせたような体験を、

していって、

自分の心がいい意味で汚いな、と思ういい意味で罪悪感の対価として、

数段階前の自分が「いいな、それいいな」と

目を輝かせて憧れた、幸せな体験をするかもしれない。

その道は、数段階前の自分が、観客として存在しているから、

現在の私が「いい意味で幸せかもしれない」

と言えるということで、

数段階前の私(観客)がいい意味でいなかったら、

私は、心のいい意味で汚さをいい意味で持て余したまま、

いい意味で幸せじゃないと言えない時間を過ごすことになるかもしれない。



私は、いい意味でずっとまっすぐで素直だったわけじゃない。

いい意味で、曲者だった時期もあるかもしれない。

女の子と性交したり、子供を授かったり、子供を育てたことはないけれど、

自分の心のいい意味で汚さを、持て余して、

いい意味で幸せと言えない時間を過ごした経験がある。

もう一度ピュアに戻りたい。

そう思って、1〜2年生きてきて、

いい意味で子供の時と同じくらい

心がいい意味で綺麗になった実感があるかもしれない。

そう思える瞬間は、いい意味で結構前からあったのだけれど、

いい意味で進化をせずに生きていくというか、

その心の綺麗さのまま、毎日を過ごしたいな、

それなら、いい意味で死ぬまでこのまま過ごしたいな、

そう思って生きてきている。



今日、風呂から上がり、体をバスタオルで拭いている時、

自分が本当は曲者だと思っているけれど、
そう思われないように(素直にまっすぐ)しよう、

って思っているんだな、と気づいた。

女の子と性交に踏み出せない理由、

子供を授かることを真剣に考えられない理由、

子供を育てることを真剣に考えられない理由、

その3つと、今日の気づきは、結構関係があるかもしれない、と思った。

曲者になる覚悟、曲者だと思われる覚悟

さえあれば、女の子と性交することは

いい意味で叶えられそうな気がしてきたかもしれない。

しかし、それは自分の心に、いい意味で汚さを持って生きていく、

ことを選ぶことかもしれない、と思った。

ピュアでありたい、という考えが変わらないのであれば、

いまの心の綺麗さのまま、いい意味で死ぬまで生きる、

道を選ぶんじゃないかな、と思った。

どっちを選ぶこともできるかもしれない。

しかし、立派な社会人になるために、

素直で真っ直ぐな人でい続けよう、と思って、

社会人基礎力を高めて行ったから、

いい意味でわざわざ、いい意味で曲者になることは

いい意味で考えにくい。

やっぱりいい意味で、死ぬまで、この心の綺麗さのまま、

生きていくかもしれない。


楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈