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ここに書いたことはキャラだけれど、嘘じゃないかもしれない🗼🔯🌈

いい意味で長い記事になってしまったかもしれない


パンクは、いい意味で怒りで頭をいっぱいにする音楽かもしれない。


掘り下げれば、

いい意味で怒らなくて済むことに対して怒っているのかもしれない。

私は、

いい意味で他の人が怒りを覚えないことにも、

怒りを覚えたりするかもしれない。

色んな音楽を聴いたけれど、

パンクにシンパシーを覚える気持ちもあるかもしれない。

ある程度の成果が出ていないと、

怒らなくてもいいことに怒っている、

いい意味で自己満足な人になってしまうかもしれない。

いい意味で、少し曲がったことでも、

受け止めてくれる人がいることで、

いい意味で意味が生まれる。

パンクは好きだけれど、

怒りで頭がいっぱいにならないように気を付けている。

自他ともに、怒りで頭がいっぱいになる表現は、

いい意味で健康的じゃないかもしれない。


自分でレッテルをつけないように。

周りにレッテルをつけられないように。

いつでも気合い入れていく。

私は、全てを許して、認めることはできないかもしれない。

何かをいい意味で認められない、

っていう気持ちを持つ人達の、

肩身を広くするために、

出来ること全部使って、

周りを沸かせる結果を出したい気持ちかもしれない。



それが、気づいたら持っていた、パンク観。

パンクをいい意味で愛しているから(嫌えないから)、

こういうパンク観を持っているかもしれない。

とはいっても、

熱狂的なパンクリスナーでもないけれど。


母は、スピリチュアルが好きだから、

全ての人は神様で、

全ての人は、実はもともと1人の神様、

という話を信じていて、(私も信じているけれど)

私が誰かを、いい意味で憎んだり、

嫌ったりする、ってことは、

自分をいい意味で憎んだり、

嫌ったりすることなのだ、と

昨夜、言われた。

実にその通りだと思う。

私は、自分をいい意味で憎んでいるし、嫌う気持ちもある。

母のいうことももっともだし、

私のいうことも間違ってはいないかもしれない。

なぜ、自分を憎み、嫌うのか❓

それはnoteとYouTubeで、

もっと大きな成果を出したいからだ。

自分を憎まず、嫌わず、

このままでいい、として

私は、noteとYouTubeで、今以上の結果が出せるのか❓


いい意味で追い込まれる前に、

幅広い感情を、先に持っておく。

いい意味で普通、

喜びを覚えた時に、喜ぶか、喜ばないかを決めるかもしれない。

いい意味で普通、怒りを覚えた時に、

怒るか、怒らないかを決めるかもしれない。

いい意味で普通、悲しみを覚えた時に、

悲しむか、悲しまないかを決めるかもしれない。

いい意味で普通、楽しさを覚えた時に、

楽しむか、楽しまないかを決めるかもしれない。

そういう恣意に任せるのではなく、

自己分析を進め、

何によってどのように反応するか(喜ぶ、怒る、哀しむ、楽しむ)

先に決めておいている。

ある程度、感情を、標準化しつつ、

恣意のように行動・反応する。


いい意味で作られた恣意とでも言えるのか。

思いつきで行動することは、いい意味で楽しいため、

本当の恣意ではないけれど、楽しいかもしれない。


余談かもしれない。

電気グルーヴも、平沢進も好きだけれど、

(perfume→テクノ→YMO、電気グルーヴ、平沢進、という経由で知る)

それらを好きという事で、

いい意味で変なレッテルを張られないか、という心配がある。

それに、なにも、レッテルを張るのは他者だけじゃない。

防衛的に感情を動かしていないと、

自分自身でレッテルを張ってしまうこともある。

自分自身でレッテルを張らないようにするには、

いい意味で巧みさが必要かもしれない。




いい意味で、幅広い音楽に触れたけれど、

いい意味で素朴さは守っている。

音楽の理解度を高めたからといって、

プライドの塊にはなりたくないかもしれない。

そういって、この抒情的文章は、

いい意味である程度のプライドを持つことを、

他者に認めさせようとするマジックかもしれないけれど。

私がこれを残すのは、

いい意味で自分のためでも、他者のためでもないかもしれない。

自分のため、他者のため、

という自我を、いい意味で離れた気持ちで、

抒情的な文章を書いたかもしれない。

この抒情的な文章の責任は、いい意味で私にあるけれど、

私のために書いたんじゃないかもしれない。

いい意味で自我から離れたこの抒情的文章は、

芸術表現でもあるかもしれない。

いい意味で、過去の私が書きそうなことを、

極める意識で、毎日文章を書いていると、

自分が、責任を持つオーナー(主人)、監督、で

文章で表現されている人物像は、

いい意味で私といい意味で異なる何か、

な感じがしてくるかもしれない。

その、いい意味で異なる何かは、

愛らしく、

知的で、

尊敬、尊重できる存在のように思えてくる。

今までは、自分自身が、

自分のオーナーになる覚悟で、

いい意味で過去の自分が書きそうなことを、

毎日、極める意識で書く、

という発想はいい意味でなかったかもしれない。

成長と共に、いい意味で大きくなった私の懐の中で、

いい意味で過去の私の人物像は、

管理、保護されながら生きているかもしれない。

いい意味で浅い人間は、

自分が一番、と思ってしまうかもしれない。

だから、いい意味で過去の自分を、懐に入れて、

生かしてあげよう、

いい意味で過去の自分ができることを、

いい意味で極めさせてあげよう、

という発想がないかもしれない。

私は、いい意味で恥ずかしいことに、

長い間、

自分が一番、という発想で、

いい意味で過去の自分を否定して、

尊敬・尊重せずに生きていることもあったかもしれない。

それを改めたのは、いい意味でつい最近かもしれない。

具体的な日数で言えば、

3ヶ月くらい前かもしれない。

気持ちを改めたときから、

明日の自分に尊敬されるような今日、でいたい、と思ったかもしれない。

そういう意識の積み重ねで、

幸せで豊かで余裕で最高でしかない今日がある。

自分が一番、の発想がやめられない時は、

いい意味で誰かの懐の中で、

管理・保護されるような気持ちかもしれない。

まあ、いい意味でなんやかんやあって、

今まで、自分が行ってこなかったことを行いたい、気持ちが芽生え、

過去の自分をいい意味で懐に入れる意識で、

毎日、懐を大きくする意識で、

いい意味で過去の自分が行いたそうにしていることを、

いい意味で極めさせてあげる意識で行わせて

(実際に行っているのは私かもしれないけれど)、

それによって、どのような未来に繋がるのか、

いい意味で関心があるかもしれない。

今日も、また、いい意味で研鑽中かもしれない。

私は、いい意味で全ての過去の私のオーナーかもしれない。

いい意味で、ようやく、なりたい自分になれている時間が

かなっているかもしれない。

自分を信じて努力してよかったかもしれない。

いい意味で努力で掴み取った幸せかもしれない。

いい意味で運で掴み取った幸せは、

いい意味で神様の気まぐれでスルリと手から抜けて行くかもしれないけれど、

いい意味で、努力・実力で掴み取った幸せは、

いい意味で手から離れない。

いい意味で、大抵の心配と煩悩は、

パワーが跳ね返してくれる。

いい意味で細かいことは気にしなくていいんだ🗼🔮🌈








楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈