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シドやニルヴァーナの荒々しい叫びを無視して、調和のとれた生活を心がける私。

小学生の時、

Jポップを全然知らなかったから、

音楽の授業で歌を発表する時、

みんなはJポップを結構歌っていたが、

私は、音楽の授業で習った、

こきりこぶしを歌った。

なんかみんなが羨ましかった。

私だけ興味がいい意味で

偏っているような気持ちに

なったかもしれない。

当時はパワポケ中毒者だったかもしれない。

ポケモン中毒者でもあったかもしれない。

ボボボーボ・ボーボボ中毒者でもあったかもしれない。

とにかく、ゲーム音楽以外の音楽には、

いい意味で全く関心がない小学生だったかもしれない。

逆に言えば、いい意味で昭和の歌や日本民謡、ソーラン節、

いい意味で温故知新という考えで、

いい意味でイマドキじゃないから

という理由でいい意味で蓋をせず、

好んで行こうという覚悟が、

その歌を発表する授業の時にあった。

好きな子にプロポーズするときと同じくらい、

いい意味で絶大な覚悟だったかもしれない(小並感)。

自分の世間が、

いい意味で狭い自覚に刺されて、

悔しいと思った。

悔しさをバネにして、

洋楽、昭和の曲、ボカロ、Jポップ、演歌、

色んなジャンルを聞いた。

いい意味で口下手だから、

どれだけ聴いても、

マウントをとるための会話は

できなかったけれど。

いい意味で口下手なため、

会話でアウトプットすることなく、

YouTubeで洋楽も演歌も聞いた。

シドもニルヴァーナも聴いた。

いい意味で広く浅く聴くスタンスのため、

曲名までは覚えていないが、

彼らの魂の叫びは私の心に刻み込んだ。

シドとかニルヴァーナとかを聴きながら、

こういい意味でのほほんと暮らしていられる

自分はいい意味ですごいと思う。

彼らの叫びは、何千年後にも届く

ものかもしれないが、

彼らの叫びに耳を傾けることをやめた。

ロックを聴くのは強制じゃない。

自由選択。

世界には、いい意味で

荒々しいミュージシャンもいた。

それを知った上で、

私は調和した生活を目指す。

シドもニルヴァーナも、

「俺の本能の叫びを無視するのか❓」

と言うかもしれない。

けれど、私は彼らの本能の叫びを無視して、

調和のとれた生活を行う。

それは私が強いから出来ることだ。 

本当に好きで聴いたり、聴き続けるならともかく、

彼らは早急に、リスナーの性格を変える。

自分色に染めるというか。

いうならば、リスナーの個性をいい意味で奪っているかもしれない。

いい意味で個性を奪われたリスナーは、

いい意味で凡庸な存在になるかもしれない。

なんども繰り返すが、本当に好きで聴いているなら

それでいいけれど、

それに気づかず、彼らを称賛し続けることは、

まるで熱烈なファン、

いい意味で別の言い方を行えば信者に見えるかもしれない。

私は、熱烈なファンにも、いい意味で信者にもなれない。

インフルエンサーに、いい意味で個性を奪われることは嫌だから。

いい意味で奪われる前の自分を思い出して、

取り返して生きてきた人生かもしれない。

熱烈なファンがいるから、

いい意味でいろんな業界が儲かる。

私は、何者かの熱烈なファンになることがいい意味で危険だ、

と思うから、

他者を、自分も熱烈なファンにしよう、という気持ちは

いい意味で最小限で行なっている。

熱烈なファンを増やせば、儲かるかもしれないが、

それをいい意味で申し訳なく思うかもしれない。

いい意味で雰囲気だけでも味わえればいいと思っている。

何者かが、自分が作った記事に、いい意味で少額でもお金を払ってくれれば、

熱烈なファンがいる、という事実を楽しめるかもしれない。

優しすぎる私。

他者が、インフルエンサーにいい意味で奪われた個性を、

思い出したり、取り返したりする活動と、その手助けには興味がある。

いい意味で奪われた個性を全部取り返せば、

人はみんな、いい意味で全能感を取り戻せるかもしれないね。

スピリチュアルでは、人はみんな神だと言われている。

人はみんな全能かもしれない。

他者にいい意味で個性を奪われないように、

生きることが非常に大切かもしれない。

今日も、自分と他者の相互理解を進めるために、

執筆いたした。

私は、読み手さんが、読み手さんの個性を取り戻すことを、

願うものかもしれない。





楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈