人生を楽しくするには、スキルを磨き、自信をつける。

人間が、人生をいい意味で楽しくないと感じるときはどのようなときだろうか。

わたしは、スキルを磨く気持ちがいい意味でない時と、

身につけたスキルがいい意味で評価されない時が、

いい意味で人生楽しくないと感じるかもしれない。

スキルをいい意味で磨くつもりなく、いい意味で怠惰になっていると、

いい意味でどんどん周りから離されて行くかもしれない。

いい意味で努力しても、いい意味で努力しても、

いい意味で周りとの差が縮まらないこともあるかもしれないけれど、

いい意味で差を縮めるために

常に努力する体制を整えることを考えている状態と、

いい意味でそうではない状態では、

上の方がいい意味で輝いている。

だから、上の方を選ぶ。



いい意味で努力はしなくてもいいかもしれない。

既にある能力とスキルで、評価されたり通用する場合。

しかし、努力する体制を常に整えることはいい意味で必須かもしれない。

いい意味でお庭に生えた雑草を、抜き抜きする作業は、

いい意味で緑有る限り必須かもしれない。

人が生きる限り、心は手入れをしなければ

いい意味で粗くなって行くかもしれない。

手入れをして、綺麗に、丸くするかもしれない。



いい意味で手入れを行うためには、カロリーが必要かもしれない。

前向きな仕事量かもしれないから、➕の性質を持つかもしれない。

人が、生きるために、自分自身の心を手入れする。

それだけでも立派なことかもしれない。

毎日のワークをいい意味でしながら、

いい意味で資格の勉強を行うということは、

➕➕

でいい意味で2倍のカロリーが必要かもしれない。

いい意味で新しい資格を取る必要があるとしたら、

いい意味で一定期間、カロリーが2倍になるとしても、

取得するための行動をする必要があるかもしれないけれど、

いい意味で常に挑戦していないといけない病

の方は、今一度、毎日心のケア(手入れ)を行うだけでも

立派なことなのだと考えてもらいたい。

いい意味で常に挑戦していないといけない病

の方は、

いい意味で同じ考えじゃない方に対して

いい意味で否定的・批判的に見るわりに、

いい意味で毎日の心のケア(手入れ)、周りへの配慮・気遣い   を

いい意味でおろそかにしてしまうように感じるかもしれない。

エニアグラムでいうと、

常に挑戦していないといけない病

の方は、

タイプ8   強さを求めて自己主張する人

かもしれない。

別名    挑戦する人    また    統率者

ともいう。

逆に、わたしはタイプ8から学ぶこともあるかもしれない。

わたしは、

いい意味で挑戦することや、強さを求めて自己主張することを、

いい意味で良いことだと思えなかった時期がある。

エニアグラムで、全ての人は正しい、と学んだことで、

自分も、挑戦することを楽しんでいいし、

強さを求めて自己主張していいと思えるようになり、

生きることの自由度、幅が広がった。

エニアグラムの、全ての人は正しい、

は相手を理解するためだけにあるんじゃなくて、

いい意味で過去の自分、

いい意味で今の自分、

いい意味で未来の自分が、

いい意味でどのような行動を行っても許すためにあるんだと

わたしは思っている。

全ての人は正しい、

何を行なってもいい、

しかし法律や常識からいい意味で外れたことを行えば、

相応のことがいい意味で返ってくる。

エニアグラムを学ぶ前は、

法律や常識から外れないように、

いい意味で不自由に生きている感覚だった。

しかし、エニアグラムを学んでからは、

いい意味で本来は何を行なってもいいんだ、

と考えられるようになり、

いい意味で世界が変わった。

法律や常識から外れることさえも、

いい意味で自由かもしれない、

そう思えたかもしれない。

(法律や常識から外れることはしないし、

法律や常識から外れることを推奨しているわけでもない)

本来、私たちは自由だったんだ。

義務教育で使う教科書やテレビの報道を見たり、読んだりして、

法律や常識から外れてはいけないことを、

頭で詰め込んで理解して、

寝ても忘れないくらいに暗記して。

本来の自由の感覚を忘れたまま、

いい意味で常識と法律という人工的な神さまの

ドレイみたいに、生きていた学生時代かもしれない。

人工的な神様を疑うことを疑ってしまう、

いい意味で世界の歪みによって洗脳された、

人工的な神様の信者のようだった学生時代かもしれない。

いい意味で人並みの幸せも、手に入れた実感もないのに、

表面では人工的な神様に従順にするのに、

内面ではいい意味で殺伐したことを考えるような、

いい意味で地雷が多い心だった学生時代かもしれない。

悪いのは、わたしではなくて、

世界の方なんだと、

いつ頃まで純粋に信じていいものか。

実際に世界が、いい意味で悪くても、

親、教師、友達、先輩、後輩、クラスメイト、

受けた恩は虚構じゃないから。

わたしは、当時生きていた時代が、いい意味で気に入らないだけ。

他者ファーストで考えると、

わたしがわたしじゃなかったら、

なんてことをいい意味で思っていた。

当時、いい意味で大嫌いだった世界そのものや、時代なども、

いい意味で変わってきて、いい意味で幸せだ。

いつまでも、世界が悪い、時代が悪い、と噛み付くわけにはいかない。

時代が、元々、望んだ方向に変化してきたなら、

自分はこのままでいいのか、と考えてきた。

いい意味で当時大嫌いだった世界そのものや、

時代そのものが、いい意味で良い変化をしてきた。

再び、世界そのものや、時代そのものに対して、

いい意味で大嫌いだ。

ということはこれからはしない。

既に満足しているからである。

いい意味で満足していないなら、

世界そのものや、時代そのものに、

いい意味で大嫌いだ、と言っていいかもしれない。

しかし、わたしは既に満足していることもあり、

そのように言うとしたら、

世界や時代そのものの努力を、

いい意味で認めていないことになるかもしれない。

いい意味で傷つけられたことを根に持ち、

いつまでも相手の改善するための努力を認めないのであれば、

いい意味で暴君かもしれない。

わたしは、世界や時代が変わろうとしたことを認めているから、

世界や時代に、いい意味で大嫌いだ、とはもう言っていない。

逆に、いい意味でありがとう、と言っているかもしれない。



今回は、良い意味で意図的に、

いい意味で病んでいる人に向けて書いた。





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