なんか障害について、改めて向き合いたくなったからダーッて書くようの記事。

障害について十分向き合って、もうある程度以上考えたくない。
障害は個性だと考えて、いい意味で忘れている方がいい(楽)⭐️⭐️

という人もいると思うし、
私自身も、いい意味で障害だということを忘れて、
個性として昇華して、認められているような時間が
いい、というのもわかる。

普段、障害について
ある程度以上向き合わなくていい、
としているんだけれど、
今日は急に気まぐれで、
改めて向き合いたくなった。

昨日の自分と同じような気持ちの人は、
わざわざ、障害について改めて向き合おう(向き合わせよう)とする
文章に、ストレスを受けるだろう。

じゃあ、書かんのか❓
そもそも、それを言ったら、書くことそのものが、
どんな内容でも、誰かにとっては気まずい気持ちになる可能性があるじゃないか。

障害について、改めて考えようとする文章が、
否定されるようなことなのか❓
まあ、肯定もされづらいかもしれないが。
普段から、障害をテーマに書いているわけじゃないからな。

急に気まぐれで、改めて障害について向き合いたくなった。

見た目は健常者に見えるから、
どういうところで、障害(生きづらさ)を感じているのか
説明できるようにならないといけない、
と就労移行で教えられた記憶も残っている。

問題なく、今、生きられているんだったら、
改めて向き合う必要もない、て考える人もいるだろう。
しかし、そう教えられているから、
いい意味で執着がある。

就職するために必要だから、
職員は教えただろうし。
それはその時期の私に対しては正しいし。
けれど、いつまでも執着する必要もないか。

あと、天才型のASDに憧れるところもあり、
普段、私は障害をコントロールして生きているけれど。
もしも、もっと凸凹を活かした生活にしようとしたら、
今より物質的に豊かだったんだろうか、
とついつい馳せてしまうところがあった。
今回、改めて障害に向き合おうなんて考えたのも
そんな理由があった。


就労移行で教わったことのいい意味で逆になっちゃうけれど、
ナビゲーションブックなどで
障害を正確に説明することよりも、
(ナビゲーションブックを手を抜いていいわけじゃないけど)
実際に行動で示して、信頼してもらうことも大事だと思った。

百聞は一見にしかず、の応用で、
どれだけ立派なことを言っても行動が伴わないと
よくない、と言えて、

既に社会や周りために頑張っている人は、
説明が完全じゃなくても、完璧じゃなくても、
信頼してもらえる、のも事実だと思う。
(正確な説明が大事なのは変わらないけれど。
私は偶然、報連相のタイミングが少ない仕事だから、
というのもある)

到達したいのは、そういう境地。


今回は、
就労移行で教わったことに対する執着と、
天才型ASDに憧れる気持ちを
手放すために必要な心境変化だったかもしれない。

それでいて、
説明が完全じゃなくても。完璧じゃなくても。
既に社会や周りのために頑張っていれば、
信頼を得ることは可能、という境地を思い出す、
ためにも必要な心境変化だったかもしれない。

普段、こういうテーマで書かないから、
おそらく、Twitterに投稿した「障害」に関するツイートは
いいね👍が集まらないかもしれない。
そもそも、障害をテーマにした発信に、そこまで需要がない、
ようにも思えるけれど。
まあ、単純に健常者の方が割合が多いから、
健常者のニーズを中心に回っているため当然だが⭐️⭐️🗼🔮🌈

楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈