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雑記。

・友情を論理で追求するとどの道、薄っぺらくなりそう。
友人間でも、報連相は案外、大事だと思う。
友人間でも、あまりにも報連相を疎かにすると
関係が腐ると思う。
いい関係であるには、謝るときは謝り、感謝するときは感謝し、
庇うときは庇う。まあ、色々言えると思うけれど、
そういうものが欠けないようにすることだよな。
基本的な性格が真面目で明るいから、
例えばパリピの価値観は全く想像できない。
パリピにもパリピの信念があるとは思うけれど、
普段、私が生きるときは、
パリピが一人もこの世に存在していない と考えて
安定させている。
例えだけれど、パリピやヤンキーとは価値観が違いすぎる。
自分が明るく真面目に生きることに、誇りを持ちたい。
パリピやヤンキーも、明るく真面目に取り組むこともあるかもしれないけれど、
型にはまらない彼らが現す、「明るく真面目に取り組む」と
型を尊重する私が現したい「明るく真面目に取り組む」は
当然、違うだろう、と考えている。
彼らが彼らでいる限り、私の持つ言葉の意味と一致しない、
と思う。
私は認められない。
彼らがどう変わろうが、私の持つ言葉の意味と一致しない、
と直感で思っている。
環境というのは、入ってみないとわからないけれど、
本当に大事だ。
環境が持つ言葉の意味と、自分の持つ言葉の意味、
とで
違いが少ないほど、活動しやすい場所だと言える。
noteも、noteが持つ言葉の意味と、
私の持つ言葉の意味とで、共鳴を感じたから、
数あるプラットフォームの中でも、noteに愛と心と力と時間を
入れて、取り組むに至った(そうしてそれらの活動は全部楽しかった)。
今の職場も、職場全体が持つ言葉の意味と、
私が持つ言葉の意味とで
違いが(最高なことに!!)少ないから
とても活動しやすい環境だ。
私にとってはヘブンだ。
私は運も良かったし、努力もした。
幸せであるにふさわしいほどの努力をした。
だから、運が良かった、と言われるようなことが仮にあったとしても
嫌な気持ちはしない。
そのようなことを言う相手がいたとしたら
安い嫉妬に支配されている相手だと思うため
そのような安い挑発には乗らず、
自分のこれまでの努力があったから、
幸せでいるにふさわしい と顕示することもなく
「そうなんですよ。運が良かったんです」
と言っておけばいい。
本当は実力で取ったことを知っているから。
相手の成功を運で片付けようとする人間は
一生その次元の人間なので
あまり関わりを持たない方がいい。
→本気で反論しなくていい そういうタイプの人間には
自分の貴重な時間をくれてやる必要もない と思うようにしているので
最小手数で 争いを回避し あえて業(カルマ)を残しておく。
私が本気で反論して ケリが着いたなら、そこでそのカルマは
終了するはずなんだが、
不思議なことに、人は結論が出ても、
あれこれ と後から思うこともあるものだ。
本当の結論を出さずに 相手にいい気持ちのまま 会話を終えてもらう。
基本は、そういう考え方をするね。
相手に対して敵意が浮かんだ場合もその考え方から始めるし
単純に 相手にいい気持ちのまま 会話を終えてもらいたい場合も
そういう考え方から始めるね。
案外、神作・良作って
相手にいい気持ちのまま 視聴を終えてもらう ってところは
多いと思う。
私が思うに、エモい、ってそういう意味なんじゃないか とずっと思っている。
この記事の最初でも言ったように
友情を論理で追求するとどの道 薄っぺらくなる
というように
本当の結論を出さずに 相手にいい気持ちのまま 会話を終えてもらう。
いい友人関係 ってそういうところも絡んでくると思う。
相手の容姿をイジり倒してばかりの人間って
気分悪いよね。
私だったらそういう人、友達にしたくない。
例えば、容姿が整っていない人と会話し始めたとしても、
それを直ぐに会話に出す人はいないでしょ?
本当の結論を出すことばかりが 相手を幸せにするとは限らない。
相手の容姿をイジり倒してばかりの人間って
何様?って感じだよね。
そういう人間は息をするように信頼を失くすからwww
極力関わらないことだと決めている。
まあ、私も、少し器用になってきて、
前よりも、こいつとは関わらない方がいいだろうな、
という判別を
より細かく 正確に できるようになってきた。
(通勤時や 退勤時、色んな人とすれ違うが
なんか こいつとは関わらない方がいいだろうな
と思えるような人と遭遇することもある。
勝手にこちらがそう思うのは自由)
私とは相性が悪そうに思えるだけで、
その人にはその人と相性がいい人がいる、
と 慈愛に満ちた気持ちを持って 考えてはいる。

昔は、もっと、大雑把に、関わる人を決めていたので、
後から関わったことに後悔することも多かった。
まあ、関わりをより細微に選べるようになったのは
本当に最近で、具体的には1〜2年くらい前からだと思っていい。

関わりを大雑把に選んでいたときは、
若干嫌だなー と思う人 相手でも 笑顔で いようとするところはあった。
(しかし 怒りを隠せないから 表面が笑顔で 言っていることがナイフ)
逆にそういうキャラクターだから、ある程度、色んな人と会話できるのかもしれないけれど。

逆に、笑顔で会話する以外の選択肢が浮かばない と思っていた。
暗いよりも 明るい方がいいだろぉ
(で、マウントをとりたがるイキリ君だった中学一年生)→反省
→とにかく 刃物みたいな言葉🔪をどれだけ 話したことか。→反省

まあ、基本、前向きな方だから、
そういう方向で拡げていったんだけれど、
ある時を境に、自己の内面に対する興味が再発したんだよね。
そうなった時の私は、ナイーブに考えすぎるようになって
拡げてきた関わり を疑うようになったり
考えずに拡げてきた 自分を責めるようなこともあった。

このように、内面的方向に拡げていった極地は「病み」であった。

(自分的に)陽の極地まで行った後、陰の考えが生まれ、
陰の極地まで 行ってしまったこともある。
当時の自分からすれば、二つの極地を見たことと、
後から見た極地が 陰の方だったから
陰の方が優れている(陽は劣っている)という
あからさまに不完全なバイアスを持っていた。
ある時期の私が、陽キャのような行動を選べなかった理由はそこに。

しかし、いろいろ、学んでたどり着いたのが。
元々、私は陽キャだったのだから、
陽キャに戻る権利は普通にあるということ。
陽キャに戻りづらい と感じた時期があったのは
その辺りの時期では 陽キャが取らないような行動 発言をしていたからだ。

自然に陽キャに戻るには、やっぱり 普段の考え・発言を
陽キャのようにする必要があった。
私は、陽キャに戻る努力をした。
だから陽キャでいるにふさわしい。
ただそれだけ。

今、陽キャでいられるのは嬉しい(最高!!)
しかし、ナイーブに心の痛みに向き合った時期もあったから、
精神年齢が高い振る舞いを毎日続ける意義がよく理解できた。
ナイーブに心の痛みに向き合う時期が全くなかったら
今も、ナイフのような言葉を話して、
マウントを取りたがる 相手を傷つけるような人だっただろう。
(そのような状態でもモテる自信はあるけれどね。にっしっし/一言余計)
ただ、社会貢献を考えたなら、
精神年齢が高いけれどポップな人間でいる方がいいと思える。
だからどのような状態の私でもモテるだろうけれど、
精神年齢が高い上にポップな人柄でいるようにしている。

楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈