出光美術館に「ここから、さきへⅣ 「物、ものを呼ぶ」」を見てきた。

出光美術館の軌跡 ここから、さきへⅣ 「物、ものを呼ぶ」を見てきた。出光美術館の越し方振り返り行く末を見る展覧会として堪能したので、以下に感想をつらつらと。


まず筆頭に登場するのは「25 古筆手鑑「見努世友」」だろう。大聖武から起こして、歴代の天皇、公卿、僧俗の名筆を連綿と貼り混ぜた、小浜酒井家に伝えられた名品である。創業者の出光佐三が生前唯一所蔵した国宝として珍重されてある。


さて酒井家といえば徳川譜代筆頭に近い名家である。雅楽頭酒井と左衛門尉酒井の二系列が大きなもので、「見努世友」の小浜酒井家は左衛門尉系列に当たる。ここの本家筋に当たる姫路の酒井家に生まれたのが画家・酒井抱一となる。
本展では江戸期の画家でも彼に焦点が当てられている。若冲の広範なコレクターであったジョー・プライスのコレクションが出光の収蔵になったことによって「6、7十二ヶ月花鳥図」が二種類手に入り、その画業を比較する絶好の材料となった。同作者による「4風神雷神図屏風」も展示されているが、これは写しで、その本歌は建仁寺に所蔵されている俵屋宗達のものである。


この宗達による「34  西行物語絵巻」は京に生まれ、東へと旅した平安末期の歌人・西行の旅の果てを伝えるものだが、これとは逆に西の豊後に生まれ、京への旅を繰り返した人物がいる。それが田能村竹田である。竹田は豊後竹田の武士に生まれ、隠居後に京都豊と後を行き来し、頼山陽や青木木米ら一流の文人墨客陶工たちと交流を結んだ。彼の「13 梅花書屋図」は梅の咲き誇る山水の一軒家に文人の理想の生活を活写した傑作である。

さて、田能村竹田の本名「孝憲」から1字から名前を取ったのが奈良の陶芸家・富本憲吉である。彼は戦前戦後における関西の陶芸家の代表的存在であった。では東の代表はといえば、板谷波山に尽きよう。彼は生前より出光佐三と交流深く、出光の波山コレクションは日本でも随一の内容である。本展タイトルとなった「物、ものを呼ぶ」という言葉も板谷波山が出光佐三に語った言葉であった。波山の作品の数々は出光の陶片コーナーで常設で見られるが新装オープンの後にも残して欲しいものである。

波山の出身地は茨城県の下館にある。ここは小貝川、勤行川の水運で栄えた商都であるが、そこから下流へ下り、江戸崎から小野川を伝えば、霞ヶ浦は浮島へ至る。この地こそ保元の乱で敗れた崇徳上皇の近臣・藤原教長が配流されたところであった。彼が京都への帰還後に直筆で詞書を記し、崇徳と自身の配流と状況と重ね合わせたのが、「28伴大納言絵巻」である。

伴大納言絵巻は旧世紀の貞観年間に起こった応天門の変の顛末を描いた絵巻である。内裏正門の応天門の失火を発端に政界疑獄事件へと展開する。この中で当時の政界の中心であった藤原良相・伴善男のタッグによる嵯峨源氏への圧迫は妨げられ、良相の兄良房の働きによって、彼の妻の兄弟である嵯峨源氏一族と、自身の氏である藤氏との併存が実現した。身内を切ってでも「政界の両党迭立」を成した藤原良房の手腕は、のちに源氏である妻の実家の引き立てで立身した藤原道長も大いに参考するところだったのではないか。

応天門の変で失脚し、伊豆に追い落とされて没した伴大納言・伴善男だが、彼は単なる悪役ではない。九世紀政界において自身の才学を頼みに成り上がった一代の英傑、生粋の良吏であった。仁明天皇の治世に、小野篁の後輩の蔵人頭としてその才を発揮していたが、彼が自身の後任の蔵人頭として推挙したのが「31佐竹本三十六歌仙絵「僧正遍照」の僧正遍昭その人である。

彼は古今和歌集に六歌仙として取り上げられた九世紀最大の歌人の一人だが、僧綱という僧侶の政界でも頂点に立つ当時の宗教界の最高権力者でもあった。さらに元官人という異色の経歴で、俗名は良岑宗貞といった。父の安世は当時一流の漢詩人で空海の友人でもあることから、親子で和漢の詩壇を独占した傑物といえ、息子で三十六歌仙の素性法師も入れると三代の歌人一家となる。その彼が、自身の仕えた仁明天皇の死に絶望して蔵人頭に在籍したまま出家を遂げ、逆に天台宗で栄達することこそ運命の不思議なれ。

さて遍照は比叡山の裾野である山階にあった父安世の私宅を御願寺とした。名は元慶寺で、ここで出家したのが花山天皇、有名な「花山院の出家」である。その花山院の筆跡をも載せているのが「25古筆手鑑「見努世友」」ということで、これで展示もぐるり一周、因果は巡ってどっとらはい。

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