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ふたりのディスタンス

ジオフロント内の農業プラントは、一年中夏になってしまった地上より涼しく、気温調整され様々な作物を育てている。帰国してから俺は、この一角をもらってスイカを育てている。プランターで育てたことはあるが、地植えは初めてだった。広い敷地内の水の管理や肥料、受粉などの作業を一通りすると、首にかけたタオルで顔にまとわりつく汗を拭いた。

作業着に着替えればいい、と同僚から言われたが、着替える時間も惜しく、結局いつもの仕事着で作業してしまう。

ここは、慌ただしく、殺伐とした仕事場から唯一ホッと出来る場所だった。

スイカには、忘れられない想い出がある。

そう、セカンドインパクト前、父親も母親もいたあの頃、スイカを、ニコニコと満面の笑顔で、美味しそうに頬張る俺の弟の姿は今でも忘れられない。アイツは本当にスイカが大好物だった。

もう一つの想い出は大学生の頃。近所のおばちゃんから分けてもらったスイカ苗は、プランター栽培だったが小玉ながらも甘い実を沢山つけた。一緒に住んでいた葛城もアイツのように、ニコニコしながら食べていた。

ここでスイカを育て始めたのは、こんな理由からかもしれない。
即ち、大切な存在を幸せにしたスイカに、特別思い入れがある俺は、気がつけば育てることが趣味になって、こんな大きな畑まで作ってしまった。

きっと、自分のこれからしようとする計画の原点は、ここなのかなと漠然と思う。

この様子なら、あと一、二週間で収穫出来るだろう。
彼女に差し入れしたら、どんな顔をするだろうか。

彼女は本当になんでも食べた。

俺が作った料理でも、ジャンクフードでも、居酒屋の激安メニューでも、ちょっと奮発したレストランの食事でも、なんでも出されたものはよく食べる。
彼女は、俺が美味しいと思うものは美味しいらしいが、俺は彼女『オリジナル』の美味しいもの、は、よく分からない…というか不味い。

そして、放っておくと何も食べない。

一緒に暮らすことになった、彼女の家の冷蔵庫を開けると、本当に空っぽだった。部屋は雑然としているのに、当時は今のように大量のビールをストック出来る余裕もなかったから、本当に何もなかった。お腹が空かないのか、と聞くと、冷凍庫に氷があるでしょ、と言われた。
コンビニ弁当やアイス、金が入った時は酒を買っていたらしいが、酒…ビールは冷蔵庫に入る前に、彼女と一体になるから、冷蔵庫の出番はない。
あまりに何もなく、家では氷をなめて生きてるのか、と呆れた。

出会った頃は、大学の近くの女子寮に暮らしていた彼女。
大学の寮は少なくとも、朝晩食事は出るので、ある程度カロリーは摂取できていたとは思うが、アパートに移ってからはろくな食事をしてなかったに違いない。

というのも、彼女は料理の類がまるでダメだった。
水を入れたばかりの雪平鍋に袋ラーメンを入れたり、パックご飯を温めもせず食べようとしたり…
手軽に作れるインスタント食品がそんな感じなので、包丁なんて以ての外だった。
玉ねぎくらい切れるだろうと、頼むと、まな板が血の海になり、慌てて応急処置した後に、病院に連れて行ったくらいだ。
別の日には、ピーラーでじゃがいもを剥いてもらうことにしたのだが、俺の握りこぶしはあったジャガイモは、巨峰の実の大きさ位に可食部が切り刻まれてしまっていた。

その度に落ち込む彼女。でも仕方なかった。一緒に暮らし始めて分かったことは、出来るのは、お湯を沸かして、カップラーメンにお湯を注ぐこと、レトルトのパックを温めることくらいだったから。それに、それさえも余程お腹が空いた時限定で、だからあんなに細いんじゃないかと心配する位だった。

結局、料理は全面的に引き受けた。いや、掃除洗濯…その辺も全部だけれど、その話はまた今度。

何を食べたいか聞いても、リクエストはほとんどなかった。出されたものは本当に美味しそうに食べてくれるが、多分食に興味がなかったのだろう。
だからというわけではないが、結構料理は頑張った。
彼女に食べる楽しみを知って欲しかったから。

どうしたらいいか考えた結果、子どもの頃、父親が家の庭の一角に植えていた野菜を思い出し、農学部の女子に声をかけて苗を分けてもらった。
小学生の頃、グラウンドの隅にあった畑で育てた、キュウリやトマト、ナスやピーマンなどの野菜を収穫し、給食室に持っていくと、調理員のおばさんが「ありがとう」と受け取ってくれたこと、それらの野菜が美味しい給食になって自分達に提供されたこと、そんな遠い思い出もきっかけになり、気がつけばアパートの小さなベランダに小さな俺の庭が出来ていた。

朝から液肥を足して水やりをして、小さいベランダに所狭しと並べたプランターの世話をする。
最初は枯らしてしまうこともあったが、段々と育て方が分かってきて、もうトマトやキュウリは小玉スイカの何倍も、食べきれない程に収穫していた。

そうしているうちに、彼女が好むメニューが分かり、俺も料理のレパートリーが増えていった。始めはレシピサイトに頼っていた調理の手順も、気がつけばある程度のものは、自己流で作れるくらいになっていった。

お腹がすいてる時はいつだって、子犬みたいに俺の作る飯を待っていた彼女が愛おしかった。

ただ、自分で作ることをしないから、俺がゼミの合宿でアパートを不在にした時は、心配になってリっちゃんに様子を見てくれって頼んだ位だ。

結局、別れる前の日の夕飯も、俺が作った。
その日の夜は、葛城に誘われるままに、殆ど眠ることなくお互いを求めあった。
遠くない日に、彼女との別れが来るのを予感しながらも、久しぶりに肉欲に溺れて、自分でも呆れるくらいに濃密な夜を過ごした次の日、突然彼女から別れを告げられた。

あれが彼女に飯を作る最後の日だとは思わなかった。
何を作ったかしっかり覚えているのは、未練なのかなんなのか…焼き魚、味噌汁、キャベツの千切りにポテトサラダ…本当に普通のメニューだったよな。

それに今思えば、あれが葛城に触れた最後の夜だった。

別れた直後に、葛城は大学に籍を残したまま戦自へ行ってしまい、会うどころか顔を見ることも叶わなかった。しかし、就職先が同じこともあって、配属先は別でもEUROで彼女を見かけたり、同じ会議に出たこともあった。
その僅かな機会に、俺がなんとか画策して二人きりになれるようにしても、彼女は頑なに俺を拒否し続けた。会話どころか、目を合わせてくれることも出来ないなんて嫌われたもんだよな。二年間どんな時だって一緒にいたっていうのに。

あの頃に戻りたい、それは違う…これは、強がりではなく。

もちろん、彼女の肌に未練がなかった訳じゃない。今だって熱い想いを交わせたら、彼女の胸の中で眠れたら、と思うことがある。
でも、彼女もそうだったように、俺は温かい家庭から遠ざかっていたせいか、葛城は、俺にとって唯一の女だが、家族でもあったんだ。今、心の底から彼女が欲しいと思う気持ちは、情欲のそれとは違った。

ただ、一緒に飯が食べたかった。

俺がつくった飯を…いや、居酒屋でも定食屋でも、小洒落たレストランでもどこでもいい、食べる彼女の顔が見たかったんだ。

しかし、お互い随分遠くへ来てしまった…と思う。

八年間という年数は、俺の立ち位置を変えるには充分過ぎる程の時間だった。
が、葛城のことに関しては…そう、想い出にするには、早すぎた。今でも、未だに、…他の誰よりも近くにいた甘く苦い記憶は、ふとした瞬間、鮮やかに蘇る。

お腹が空くと、俺を見ながら「加持くんのご飯食べたい〜」と甘える彼女。
俺が料理を始めると、幸せそうな顔で、食卓テーブルでテキストを開きながら待っている彼女。
バイトで遅くなった俺を、何も食べずに勉強しながらいつの間にか寝ていた彼女。

葛城と別れた後、特定の相手と付き合うことはなかったし、誰かに飯を作るなんてこともなかった。でもあの頃、二年間もほぼ毎日料理を続けたせいか、NERV支部をあちこち転々としても、しっかり自炊はした。

そういえば、この前リっちゃんに葛城がカップラーメンにレトルトカレー入れてたと聞いて、彼女らしいな、と思った。
きっと戦自に行って訓練を受けていたから、そういったことを覚えたのだろうな、とは思う。サバイバル術には長けているはずだ。料理は出来なくても、そういったカロリーだけを摂取して、体力を回復させるような野戦食は扱いに慣れているのだろう。

ずっと、誰かを好きになることに対して、臆病だった。
大切なものは必ず失う。それを三回も経験してしまっては、もう自分から踏み出すことに躊躇するのは仕方ないじゃないか。

ただ、葛城は違った。
失った…と言っても別れただけで、この世から消えた訳じゃない。

夜の世界に首を突っ込んでいた時代の経験から、数えきれない人間と関わってきたせいもあって、他人と意思疎通を上手くに図る能力に関しては自信があった。が、彼女の前では別だ。

いい歳をして、好きな女を目の前にすると、どうしていいか分からなくなることがある。葛城と出会って、女性経験数が、恋愛経験と比例しないことを知った。彼女と別れた後、様々な女性と関わってきたが、やはりこんなに戸惑い、混乱するのは結局彼女だけだった。

もう日課のようにしている彼女の執務室に入ると、やっぱり今日も怒られた。顔を真っ赤にして、暇人だの仕事も邪魔とかグチグチと言っている。
でも、おかしくないか?パスコード変えればいいはずなのに、俺が何度も不法侵入を繰り返しているというのに、一向に変える気配がない。リっちゃんが、チャンスがあると俺に言うのも分かる気がする。

毎日のように差し入れしている、彼女が好きなブラックの缶コーヒーを、デスクの上に置き、いつものように、この部屋に設置されているベンチソファーに座る。

「いや、飯、誘おうかと思って」
「リっちゃんも誘って、行かないか?」

リっちゃんの名前をつい出してしまうのは、もちろん三人でも出かけたい気持ちはあったが、葛城を連れ出す成功率を上げる為でもある。その為にリっちゃんを利用するのも、あの秘密主義の美人には申し訳ないのだが、俺達を一番理解してくれる大切な友人だから、きっと許してくれるだろう。

本当に、余裕ないな俺…と思うと笑ってしまう。
いい大人が、何をやってるのか。

「ご飯なんていいわよ…食べるものあるし」

葛城の視線の先には、コーヒーと乾パンの缶があった。
相変わらず、食に興味がないのか、ただ面倒なのか…俺が意図せずとも、ため息が出てくる。

「お前さあ、ちゃんと野菜とか食べてんのか?」

彼女はキーボードを打つ手を止めて、上を向く。
何か考えているようだった。恐らく初号機パイロットが作るメニューを、思い浮かべていたに違いない。
かつての自分の場所に、十四歳の少年がいることは、俺にとっては心穏やかではなかった。中学生とはいえ、男だし、離れてからも葛城のことを、なんとなくリサーチしていた俺は、その状況から彼女と一緒に住んだことがあるのは俺だけだ、という優越感がずっと心の何処かにあった。しかし、彼…碇シンジは、彼女の心の壁をあっさり突破して、同居人として一緒に暮らすことに成功していた。

「まあ、シンちゃんが割とちゃんと三食バランス良く入れてくれてるから、なんとか」

そうなんだよな、葛城が毎日持ってくる弁当を見てみると、大人顔負けの中身で、主食、主菜、副菜がしっかり入っている。
葛城がその弁当を食べている姿を見て、複雑な気持ちになったのは間違いない。かつて自分の役割をシンジくんに乗っ取られてしまった気分だった。

「そっか、酒ばっかじゃ体壊すし、安心した」

そんな自分の気持ちを悟られないように、形ばかりの笑顔を保つ。
きっと、俺の想いなんてなど気がついていないだろう、固かった彼女の表情は少しだけ崩れ、しかし、口を尖らせた。

「一応ね、お酒の量はセーブしてるのよ、子ども二人も預かってるし」
「子どもの前で酔っぱらえないじゃない」

おそらく冷めたコーヒーカップを手に取り、両手でくるくる回しながら、彼女は言う。
酒は強くても、顔はすぐ赤くなる彼女の顔を帰国してから見ることは出来てない。日本酒を止めたところで、ビールは飲んでるんだろうし、この家の同居人と一匹はそんな顔を、初中後見てるんだろうが。

「シンジくんは、そんなこと言ってなかったぞ、空き缶の袋すぐいっぱいになるって呆れてた」

彼は、その始末もしているのだろう。そうだ、料理の他に掃除洗濯…家事をそつなくこなす能力もある。俺が全てしていたことを、全部引き受けているのだ。

「え〜も〜シンちゃんったら…だって日本酒はやめたのよ〜」
「それってビールは量変わらないってことじゃないのか」
「…うう」

葛城が酒を初めて飲んだのは、大学主催の新歓コンパだと聞いている。あの時は、遠目で見ていただけだった。彼女がセカンドインパクトの生き残りだと、どこから漏れたのか、すぐに噂になり彼女の周りは好奇心で近づいた人間でいっぱいだった。
しかし、彼女に初めて講義室で声をかけた時には、すっかり酒の味を覚えていた。たった一ヶ月でかなりの酒を飲めるようになっていたから、体質的にもその頃から酒豪の片鱗を見せていたのだと思う。

「手料理か…」

「…加持くん?」

「いや、俺も食事は結構こだわって作ってたんだけどなぁ…」

ついボヤいてしまうのは、碇シンジに対する羨望なのか。

「いや、ちゃんと食べてるなら、いいんだ」
「ただ、シンジくんに任せっぱなしはどうかと思うぞ」
「分かってるわよ…だけど、加持くんわたしご飯作れないの知ってるでしょ」
「まあな」

葛城が、極たまに料理しようとした後の、散々な状況を思い出すと、吹き出しそうになる。あんなに聡明で、アイディアも豊富な彼女が、料理だって出来そうなものなのに、手先だけはどうも不器用だった。

「加持くんのご飯、大好きだったよ、美味しかったもん」

珍しく、しおらしい微笑みをこちらに向ける葛城に、俺は驚く。
だから、自然に口が開いた。

「じゃ作ってやるよ」
「いいわよ、そんなの…」

「お前の好きなハンバーグとか、どうだ?」

そうだ、葛城は俺がハンバーグを作る為に、安売りの時を狙って買ってくるひき肉を見ると、いつも大喜びだった。あまり食べることに関心のない彼女が、滅多になかったことだが、テンションが上がるとっておきのメニューの中でも、反応が一番いいものだった。

帰国してから今までも、多方面からアプローチをしてきたが、素っ気無い態度をとる葛城。それでも、少しずつ彼女の心を溶かす為ならなんでもする。
だからいきなり切り札を使った。

「えっ、ハンバーグ…」

彼女が目を輝かせた顔は、昔と変わらない。
その顔を見るまで正直自信がなかったが、ホッとする。

「ホントに?」

そんな思惑も知らず、葛城の声のトーンが急に跳ね上がる。
予想通り、こちらも嬉しくなる。

「でも、シンジくんも作ってくれるんだろ」
「うん、作ってくれたことあるけれど、玉ねぎゴロゴロじゃないのだった」

シンちゃんのも美味しかったのよ…と慌てて付け加えた彼女は、ぼそっと呟く。

「かじくんの…食べたい」

久しぶりに聞く、葛城の甘えた声。
頰が少し赤い。そしてはにかんだような笑みを浮かべながら、本人は気づいてないのだろうけれど、ちらっと上目遣いで俺を見る。

『じゃあ俺の家に来るか』、という言葉を咄嗟に飲み込む。
まだそれはダメだ。やっと彼女の心を溶かすキーワードを見つけたのに、ここは慎重にならなければ。不意打ちのキスは、最近は少しは受け入れてくれるような気もしているが、基本的に彼女を怒らせるばかりだった。
なにせ、このお姫様は本当にちょっとしたことで、機嫌を損ねたり、何もかも拒絶し、受け付けなくなる。それを忘れてはいけない。

「お前んちで作ってやろうか?」
「シンジくんやアスカにも食べさせてやりたいし」

「デミグラスソースじゃなくて、トマトソースがいい」

子どもの様にはしゃぐ葛城。
ホクホクと期待に満ちた笑顔があまりにも可愛い。思わず抱きしめたくなるのをぐっと堪えた。

「本当に、本当に作ってくれるの?」

「もちろん、君の為ならなんでもするよ」

「…ば〜か」

と言いながらも、彼女の声はさっきまでのぶっきらぼうな口調は何処へやら、すっかり表情も柔らかくなり、且つ声に甘い色がついたようで、心底ホッとした。

「じゃ、予定合わせて君の家に行くよ」

「うん」

多分、おそらく。
残り少ない、俺達が過ごせる時間。
その貴重なひとときを手に入れられそうなことで、しばし俺は、緩やかに俺を包む幸福感に身を委ねた。



約束の日、葛城の仕事がまだ終わらないので、以前受け取ったまま返していない彼女の家の合鍵で、先に家に上がり込んだ。
スーパーで買い込んだ食材をキッチンの食卓テーブルに置くと、空気の入れ替えの為にベランダの窓を開ける為に、リビングに足を進める。

葛城の家はいつ来ても、きちんと整頓されている。
リビングやダイニングには塵一つ落ちてなかった。
バスルームはタイマーがセットされており、炊飯器にしても然り。

唯一、別空間のはずの彼女の部屋を覗くと、仕事机の上は雑然として、今時珍しい紙媒体の書類が散乱していた。
それでも、万年床の周りは綺麗だった。しかも毛布はちゃんと整えられている。敷きっぱなしになっているのは、きっと彼女がすぐ寝転がれるように、机の上は仕事関係だから触らないようにする、シンジくんの細やかな配慮なのか。毛布もよく見るとふっくらして、手入れされていることが分かる。
キッチンに戻り、食材を入れる為に冷蔵庫を開けると、ビールがある一角を占めていたが、作り置きのおかずが入ったフードパックも入っていた。

以前ここに来た時の葛城の部屋が、燦々たる状況だっただけに、ここまで整頓されていることに驚いた。そして、彼女の領域にどんどん踏み込んでいく存在が、こんなことまでしている、この家の同居人だということを考えると、心穏やかでいられない。

何を焦っているのか…と思う。
もう、彼女を守ってやることは出来ない。それは分かっている。
そして、彼女を守れるのが、彼女の家族のような存在になっている彼だけだということも…

そうなることを、分かっていて、今の立場を選んだ。
なのに、彼女を諦めきれない自分がいる。
もう、彼女は遥か彼方の存在になってしまった、とシンジくんには嘯いたが、そう自分を納得させても、心は付いていけない。

なんともやりきれない想いを抱えながら、キッチンに戻ると、換気扇をつけて、手をしっかり洗い、棚から必要な調理器具を出した。

料理はひと手間というが、工夫することで集中出来る。
今の俺には、この時間が救いに思えた。

最初にボウルにパン粉を入れて牛乳でひたひたにする。
それから玉ねぎを切り始めた。
この玉ねぎは、ジオフロントで大切に育てた。その中でも実が詰まった、立派に育ったものを用意した。
その玉ねぎをかなりの粗めのみじん切りにする。ここがポイントで、大きすぎても小さすぎても、葛城の好きなゴロゴロ感を再現することは出来ない。

クミンにセージにナツメグに塩、ブラックペッパーと、隠し味の生姜も磨る。もう一つの隠し味の大葉を刻んで、パン粉と生姜と一緒にボウルに入った挽肉に放り込むと、ひたすら捏ねる。

ソースはトマトソース。これは葛城の好きなソースだ。トマト缶を使うが、鍋に刻んだ玉ねぎとウースターソース、そしてハインツのトマトケチャップを混ぜ、温めると、彼女好みのソースが完成する。

玉ねぎは捏ねて形にする直前に混ぜ込む。先に炒めないで、そのまま焼くのが独特の食感を保つコツなんだ。

そう、葛城が好きな『玉ねぎゴロゴロ』のハンバーグ。
そのレシピは、葛城と大学の帰り、たまたま入った定食屋で知った。

古びた店だったが、きちんと掃除が行き届いており、壁に貼られたメニューは安く、大学生が多く住むこの町らしい、良心的な店だった。この店はのちに葛城と二人で、また俺一人でも、通うことになる。

カウンター席についてメニューを開く前に、オススメボードのハンバーグ定食という文字を見た葛城は、これ食べたい、と俺に言ってきた。付き合い始めてから初めてのことに、俺は驚いた。何でも即断即決の彼女だが、いつも外食すると何を食べるか悩んで、結局俺が頼んだものと同じものを食べていた彼女が、自分から選ぶのは初めてだったから。

それから出てきた定食は、サラダとじゃがいもの味噌汁付きだった。手作りと思われるハンバーグはゴツゴツした形で、見たことがないタイプのものだったが、後から聞くと大きめに刻まれた玉ねぎがたくさん入っていたらしい。その肉の塊の一角を箸で崩し、一口食べると、彼女の表情がぱ〜っと明るくなった。

『加持くん!これすごく美味しい!!!』

目をキラキラさせて、俺に言うと、後はニコニコしながら、副菜も含めてあっという間に平らげてしまった。そんな彼女を見て俺は驚き、でも、幸せそうに食事をする彼女を見ることが出来て、嬉しかった。

またこの顔が見たい。

そう思った俺は、このハンバーグを家でも作ろうと決意したのだった。しかし、見よう見まねでは中々再現できなかった。だから、何度もあの店に通って、見て食べて工夫するうちに、お店のおばちゃんと仲良くなって、作るコツを聞くことに成功した。
それからは、月に一回の肉屋の特売の日に大量に挽肉を買って、このメニューを作るのが当たり前になっていったな、家族ごっこしてたあの頃。

それにしても今日は昔を思い出してばかりだな、と、憂愁に閉ざされてしまいそうな気分を吹き飛ばしたのは、愛しい女の声だった。

「ごめ〜ん、今日は早上がりだったのに遅くなっちゃって」

頰を上気させて、駐車場から走って帰ってきたのか、ほんのり額にも汗を掻いている彼女は部屋を見回す。

「…ってあれ?シンちゃん達は?」

「まだ帰ってきてないけど、葛城何も聞いていないのか?」

葛城と帰ってくるのかと思ってたよ、と言うと、彼女は怪訝な顔をした。

「シンクロテストに本部に来てたけれど、わたしの方が遅くなりそうだったから、先に帰らせたわよ」
「貴方が料理しに来るって言ったら、楽しみにしていたもの」
「それは…諜報部が付いているとはいえ、心配だな」

確かにチルドレンには監視が付いている。が、葛城より遅いのは変だなと思った。

「うん…ちょっち連絡取ってみる」

すぐに携帯電話を取り出した彼女は、状況を説明していたが、次第に表情が柔らかくなる。

「え?…あ、そうだったの、いいえ、それならいいの、ありがと」

携帯電話を畳んで胸ポケットにしまった彼女は、安堵した表情で俺の顔を見る。

「二人ともまだ本部にいるって」
「シンクロテストに不備があったらしいの」
「もうすぐ終わるらしいから、あ〜ホッとした」

「でも…なんでわたしには声かかんなかったのかなぁ」

葛城は電話の内容を話しながらも、不思議そうな顔をしていた。

「…上長の君が聞いてなかった?」
「うん」

俺も、そんなことがあるのか、と思う。
だが、ある人物がすぐ頭に浮かんだ。

「…あ」

「…リツコね」
「リっちゃん、か」

ほぼ同時にあの金髪の美人の名前が出て、葛城と目を合わせて笑った。

「加持くん、今日のこと、リっちゃんに話してた?」

「話したというか、リっちゃんも誘ったんだよ」
「来れるかもとは言っていたが…まさか、な」

あのリっちゃんが、こんなことまでするだろうか、即ち、俺と葛城を二人きりにするお膳立てをのようなことを。今までも確かに、彼女のことで愚痴を聞いてくれることはあった。でも仕事に関わることまで使って…
そんな勘ぐる俺とは違って、葛城はあっさり答えを出したようだった。

「もう、リツコったら変な気回さなくていいのにね」
「別れて何年経ったと思ってんのよ」

そうだった、確かに、リっちゃんは意外と彼女には甘い。甘やかして、彼女の思い通りの反応をする葛城を見て楽しんでいる。
逆に俺には厳しいと思うが…一番の理解者でもある。だからかな。

「もしそうだったら、俺はリっちゃんに感謝するけれど」
「…余計なお世話よ」

なんだか雲行きが怪しくなってきた。頭をフル回転して話の矛先を変える。

「まだまだ時間かかるから、汗流してこいよ、風呂タイマーになってるんだろ」

「うん」
「待って、変なこと考えてないわよね」

そんなこと言われたら、余計に考えてしまうってことを、彼女は分かってない。
二人きりで、しかもまだ同居人が帰ってくるのに、一時間はあった。

「変なことって?」
「俺は料理するだけさ、君の為に」

「…ほんと、そゆことさらっと言えるの信じらんない」

彼女は小さく呟くとバスルームに消えていった。

その間に、煮干で味噌汁の出汁をとり、具材の用意をする。
今日はじゃがいもと玉ねぎの味噌汁だ。あの店の定食と同じにしたかったから。玉ねぎづくしではあるが、彼女が好きなメニューだから問題ない。

しばらくすると、Tシャツに短パン姿、髪をアップにし、化粧気がない顔でキッチンに戻ってきた。

ホント無防備だな。
少し前、俺のことを疑ったクセに。
俺の気が変わったらどうするんだ、そんな格好をして。

そのままビールでも飲むのかと思ったら、俺の作業を少し見た後、彼女は口を開いた。

「わたしも何か手伝いたい」

まな板でじゃがいもを切る俺の顔を覗き込んでくる。
その顔が、なんとも可愛い…勘弁してくれ。
集中できないじゃないか、と思いつつ、なんとか平静を保ちながら言葉を返した。

「じゃあ、焼いてみる?」

「え〜絶対失敗する!」
「一緒にやれば大丈夫だよ」

「ほんと?」
「俺が責任持つよ」
「…じゃあ、やってみる」

「準備するから先にサラダ作ろう、レタスちぎってくれるか?」
「うん、やるやる」

レタスを水洗いして、これくらいの大きさな、と見本を見せると、葛城はザルの中にちぎったレタスを入れ始めた。それからトマトを半分に切ってもらい、大丈夫そうだったので、もう一回半分な、と四等分に、キュウリを輪切りにしてもらう。真剣な顔でゆっくりと。今までの結果に懲りたのか、ここまでは順調だ。野菜をサラダボウルに盛り付けながら、雑ではあるがまぁまぁの出来に彼女も楽しい、と笑顔を見せた。

ハンバーグのタネはもう殆ど出来ていたが、作る楽しみも味わって欲しくて、捏ねてみるか?と聞くと、もちろん!と、少し前まで大きな組織の作戦課長だった顔はどこへいったのか…汗を流して化粧を落としたせいもあり、少女のように幼気な顔で、嬉しそうに答えた。
形を整える前に、玉ねぎを混ぜる。それから好きな形に整えることにした。これが、ゴロゴロハンバーグのポイントねっ!と、なぜか顔にタネが付きながらも、一生懸命に形を作る葛城を見ていると、可愛いなと思う。
その最近の刺々しい彼女とはとは違う、無邪気な顔を見ているうちに、彼女に触れたいという抑えられない想いが突き上がり、衝動的に後ろから抱きしめてしまった。

「ちょ…加持くん、やめてよ」
「ホントにっ…」

腕から抜け出そうとする彼女を、しっかりホールドする。
今は自分の心のままにしていたい。

「うん、わかってるよ」
「嫌だったら、突き飛ばせばいい」

そう告げ、彼女を抱いたまま動かずにいると、何もしないと理解したのか葛城は力を抜き、抵抗をやめた。

「…どうしたの」

「少しでいいから、このままで…」

「いいけど…シンちゃん達帰って来ちゃうよ」
「そうだな…早く料理仕上げないとな」

そう言いながらも、俺は彼女を離さなかった。
相変わらず体を鍛えているのか、筋肉質な細い体に柔らかい胸を俺の腕が包んでいく。耳朶に唇を寄せると、ふわっといい香りがすることに気がついた。

「いい匂いだな」
「シャンプーの匂いでしょ、きっと」
「葛城の匂いだ」

唇を頰に移動して、軽くキスをすると、彼女の体がぶるっと震えた。
抵抗はなかったが、一度緩めた腕に少しだけ力を込めて抱きしめる。

「加持くんは、いつものタバコの匂いがする…」
「うん」

「…ずっとこのタバコなんだね」
「うん」

「なんだか懐かしいよ」
「うん」

静かに俺の腕の中にすっぽりと収まり、彼女はぽつぽつと静かに言葉を紡いだ。彼女の吐息がかかる腕のあたりから、熱が広がり、少し体温が上がった気がした。

その言葉が途切れる。

葛城も、気がつけば俺に身を委ねていた。
それだけでよかった。



遅れて帰ってきた子ども達と、さらに遅れてやってきたリっちゃんは、ワイワイと葛城と俺が作った夕飯を食べてくれた。
『葛城が料理をした』という事実が、物珍しかったのか、最初は揶揄い半分、興味半分だったようだったが、まぁ俺が殆ど作ったこともあり、味だけは保証できたのだが…

アスカは、ドイツ時代の葛城の武勇伝を語り、葛城を慌てさせたが、最大限の賛辞をしていた。

「まぁ、ミサトにしては及第点よ、ドイツでボヤ起こしかけたの、アタシ知ってるもん」

始末書、書かされて落ち込んでたよね〜とアスカは舌を出した。
そして、ダメ出しされた。

「今度は加持さんの手伝いなしで、作りなさいよ」

シンジくんは、おそらく料理に自信を持っている。
出された皿のそれぞれの食材を少しずつ口に運び、味を確かめるようにして食べていた。

「凄いや…美味しいです」

「でも、僕びっくりしました」
「ミサトさん、料理できたんですね」

レトルトばっかりだったじゃないですか〜と、葛城に突っ込む初号機パイロットに俺は、リっちゃん達には聞こえない声で、釘を刺した。

「俺が側にいたからな」

サラダや味噌汁はともかく、こんがりふっくら焼けたハンバーグと、少し焦げ気味のハンバーグ。
どっちが焼いたか一目瞭然だった。

「リョウちゃんが焼いたのは、流石ね…お店に出せるわ」

リっちゃんは、テーブルに並んだ皿を見つめながら感心していた。

「ミサトも頑張った方よ」
「それにしても、リョウちゃん…ほんとマメね」
「あの子の為に、ここまでするなんて」

リっちゃんがまさか来てくれるとは思わなかったが、以前この家で葛城の昇進についての細やかな祝いをした時よりは、リラックスしているように見える。
葛城は『料理が成功したこと』が相当嬉しかったらしく、この美人の横で、自分で焼いたハンバーグをパクパク食べ、嬉しそうな顔で話に花を咲かせ、上機嫌だった。

出された料理が殆どなくなり、皆で皿洗いをしてお開きになった。
葛城は片付けが終わるとベランダに出て、ビールを飲んでいた。

窓から入る風が心地いい。
子ども達は少しの間、とりとめもない話はしたが、察しがいいのか二人共明日も早いから、と既に部屋に戻っていた。
飲みだすと果てがない彼女ではあるが、今日はペースが遅めで、夜風に当たり、頰を薄っすらと赤くして、気持ち良さそうな顔をしている。
俺は、そこまで悪酔いしない様子に、子どもがいると違うのかな、と思いながらその姿を見つつ、食後のコーヒーをリっちゃんに出した。

「で、少しは進展したの?」

ありがと、と俺に言いコーヒーに口をつけたリっちゃんは、少し声のトーンを落とした。

「どうかな…」
「でも、一緒に料理は出来たから」

すると、リっちゃんはからかうように笑う。

「リョウちゃん、最初と違って随分ミサトに近づくペース落としたのね」

「なぁ、リっちゃん、俺さ」
「帰国する前に、どうすればいいかそれなりに考えてたんだ、アイツのこと」
「でも、アイツの顔見ちゃったら、抑えられなかったんだよ、正直な所」

だから、待ち伏せをした。無理やり唇を奪った。可能な限り彼女の周りにいた。
当初はそんなつもりはなかったと言うのに。

「あら、珍しい」
「リョウちゃんって、そういったこと、後悔しないと思ってたわ」

そんなことないさ、俺は結構必死なんだぜ、と言うとリっちゃんは艶かしく笑みを浮かべる。この美人には何でも話していたが、今日の俺は余裕がなかった。

「だから、今日は何もしないって決めてたんだよ…決めてたんだけれど」

「…何があったか知らないけれど、いいじゃない、ミサトあんなにご機嫌なんだもの」
「リョウちゃん、もう少し自信を持っていいと思うわよ」

「なんかさ、アイツを前にすると、そうしていいか分からなくなる時があるんだ」
「今日も、気がついたら…」

言いかける俺に、リっちゃんは言葉で制止した。

「詳細はいいわよ、どうせミサトが言ってくるもの」

「ね、リョウちゃん」
「あんなにしあわせそうな顔してるミサト、久しぶりに見たわ」

「それが答えなんじゃないかしら」

美味しかったわ、とリっちゃんは空になったコーヒーカップをローテーブルに置くと、葛城に帰ることを告げた。そして、まだいいじゃないと、寂しそうに引き止める彼女を諭し、また明日ね、と帰って行った。

一緒に帰ろうかと思ったが、リっちゃんに断られた。そもそもマンションの下まで降りると、NERVの公用車が迎えに来ていたから、これから本部に戻るのだろう。仕事漬けなのは知ってるが、少しオーバーワーク過ぎないか?
いや、これも気遣いなのだろうか。

それとも、彼の所に行ったのか…

リっちゃんを見送った後、一緒にいる葛城の方を見る。すると、彼女の視線はすでに俺に向けられていた。

「今日はありがと」
「お陰で、久しぶりに楽しかった」

そんな言葉をもらえるとは思わず、俺はマンションの入り口の横に設置されているベンチに腰掛け、鼻を掻いた。

「俺こそ、なんか誰かの為に料理したの、いつぶりかな」
「また、料理しに来たいな…」

「…考えとくわ」

「今度はなんだろうな、鯖の味噌煮とかかな」

えっ…と彼女の顔が一瞬輝いた、が、すぐ真顔に戻る。

「もう、食べ物でわたしを釣ろうとしてるでしょ」
「…そんなことしなくていいのに」

葛城もベンチに座ると、不意に俺の腕を絡めてきて、戸惑う。

「葛城?」

その葛城らしからぬ行為に、柔らかい胸の感触に、俺の鼓動は早鐘を打ち、その音が彼女に聞こえないかハラハラした。
そんなことも知らず、彼女はぴったりと体も寄せてくる。

「今日は一緒に料理出来て、良かった…」
「リツコも来てくれたし、シンちゃんもアスカも褒めてくれたし」
「何より、あのハンバーグ作れたの嬉しかったの…」
「懐かしかったし、美味しかった」

「ホント…ありがと、かじくん…」

酒のせいか、滑らかに彼女の口から言葉が溢れ出す。
その一つひとつが、俺の中に染み渡っていく。

君の為なら、なんでもするさ。

俺は葛城の腰に手を回し、そのまま二人で寄り添った、お互いの呼吸が聞こえてくる程に、静かな夜だった。

しばらくして、触れている所は熱い位なのに、彼女の露出した肩がひどく冷たいことが気になり、手の位置を変える。

「な、葛城…寒くないか?」
「…葛城?」

返事がない。

彼女は俺に体を預けたまま、穏やかな寝息を立てていた。

やられた…あんまり飲んでなかったから油断した。
もう少し、こんな素直な葛城と話したかったし、見ていたかったのに…

でも、充分だった。
幸せなんて感じることを放棄したはずなのに、再びそんな想いに駆られるのは、彼女がこうやって側にいるからだ。

今、ここにいる彼女は、きっと昔の彼女のまま、誰にも見せたことがない、飾らないそのままの君なんだろうと思う…いやそう思いたい。

懐かしい痛みとともに、誰よりも側にいた時を未練がましく思い出していた離れていた時を思えば、こんなに満たされた時間を過ごせる日がくるとは思わなかった。

なんでこんなに惚れちまったんだろうな。
無警戒であどけない顔で眠る彼女の額に口付ける。
君も同じ想いだったらいいのに。
そこだけは、どうしても自信がなかった。だから、いつも踏み込めない。

多分、今日も…分かってた。

だが、残された時間は、あまりない。
それでも、君といつか、想いを交わせたら…

そんな浅ましい想いに、苦笑いする。
そろそろ、彼女を部屋に連れて行かなくては、風邪を引いてしまうかもしれないと思いながらも、あと少し、夜の果てまで、思いのまま君を感じていたかった。

fin.

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