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4.夢へのチャレンジ(26歳)

・日本での初フライト


個人の気持ちを大事にして生き生きと暮らしているアメリカを数カ月経験して日本へ戻って来た。帰って来ても仕事が決まっているわけではなかった。覚えたてのハングライダーに夢中になり毎日のように出かけた。
 
水石山(みずいしやま)の頂上や磯原町重内のボタ山等、ある程度の傾斜のある所を見るとすぐ飛んでみたくなるのだった。フライトは必ずしも気持ちよく飛び終えられるものではなく失敗も多かった。アメリカから帰って間もない頃、近所の人が集まって「飛ぶのが見たい」という話しで盛り上がった。

飛ぶ場所は、「あそこが良い」とか「ここがよい」とかいろいろな意見が出る中、遠くへ行くのは見る人が大変なので、車で5分程の山土の採取場所へ出かけた。
そこの高さは5~6m上で助走がつけにくい感じがした、ハングライダーでうまく飛ぶには助走が決め手で、風に向かっておもいっきり走り、浮力を生む必要がある。

向い風が強ければ助走は少なくてよいが、その日は風もほとんど無かった。バラバラになった機体を組み立て始める、周りの皆もこれからおもしろいものが見れるという興味で、一生懸命手伝ってくれる。どんなに条件が悪くても、途中でやめるわけにはいかなくなってくるもので、内心不安を感じ始めた。どうも条件が悪すぎる、向い風もほとんど無く上はほとんど平らで助走もしにくい。

この条件ではほとんど飛び立つ事は不可能だ。組み上がってもしばらく考えていると周りの人の気持ちが「早く飛べ、飛んで見せてくれ」と言っているのが感じられる。
仕方ないと覚悟を決めた。「やるだけやってみよう。」機体にハーネスを取り付けてハングライダーを持ち上げる。重いこれはダメダ!!向い風がある程度吹いてくれるとセールが膨らみそれにより浮力がついて軽く感じられるのだが・・・・。
 
風がまったくない。崖の先端より5~6m下がり、助走の準備へ。ひとつ大きく深呼吸して「行くよ」とかけ声をかけ、ドタドタ走る。30㎏あるハングライダーを持ち上げてスピードのないまま崖から飛び出す。
次の瞬間、できそこないの紙飛行機が地面に落ちるのと同じだった。

苦しくて息がつけなかった。「あーあ、やめときゃよかった。」

皆が大丈夫かと崖を降りて来る。「な~んだやっぱり空を飛ぶなんて出来ないんじゃないか」と思われているような気がしてくやしかった。
これが日本での初フライトだった。この初フライトは崖の下が柔らかい土だったのと、高さもなかったので機体をこわす事もなく、ケガもしないですんだ。

この経験は、その後の私の「空飛び人生」に非常におおきな教訓となった。人の思わくに左右された決断は痛い目につくし、場合によっては命にかかわるのだという事を身を持って学んだのだった。

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・磐梯山の頂上からハングライダーで飛ぶ
 

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気が向くとハングライダーを車の屋根に積んで飛びに出かける生活をしていた。2~3ヶ月後、県内のテレビ局より電話がきた、「秋の磐梯山から飛んでみませんか? それを取材したい」との話しだった。

一緒に飛ぶ人が私以外に3名いた。磐梯山の中腹まで車で行き、そこからハングライダーをかついで山を登った。長さが4m以上もあり重さが30kg以上ある物を担いで登るのは大変だった。参加したメンバーは皆始めて見る顔ぶれだった、相馬から1人、郡山から2人の合計4人、磐梯山の秋は、紅葉がきれいで時々休憩しながら山頂を目指した。3時間近くかかり山頂に着く。

山頂は小さな石がごろごろしていた。しかし、決して飛び立つ条件としては悪く無かった。最初に相馬の人から飛ぶ事になった。彼の機体は新しく、彼は買ったばかりだとの話である。着陸目標は山のふもとの牧草地だ。
助走してうまく飛び上がった、見ててホットしたのも束の間、機体が安定せず操縦不能のような状態でどんどん目標より離れて行く・・・。数分してはるか下の方に見える沼の近くで、機体が見えなくなった。

次は私の番、ドキドキした。こんなに高い所から飛んだ事がない。空中に浮いてしまえば高いのも、低いのも同じだと自分に言い聞かせ助走開始、あっと言う間に離陸した。

空中に浮いてしまうと爽快で回りを見る余裕も出て来る。気分は最高!鳥になったようである、体は機体に釣り下げられており、その体を三角形のコントロールバーの右側に寄せると右へ旋回する。コントロールバーを手前に引くとスピードが増す。これで機体を操縦する。

風の音に注意を払う。バタバタという音がなくなると危ない。スピードがなくなると失速して機体は浮力を失い、ただの布とアルミパイプになってしまうのだ。離陸して数分後、無事目標地点へ着陸。山を登る為に3時間近くかけた労力も完全に報われる気がした。

機体をたたみ次の人の離陸を確認する。無事着陸! 2人で離れた場所へ降りた相馬の人を捜しに行く、沼のわきで発見、ケガもなく無事。全員で最後のひとりの離陸を待つ。
この人が4人の中では一番経験も豊富で、ベテランだった。しばらく待つが飛び立たない、トランシーバーで確認すると風が強くなって来たのでフライトを中止して、山を降りるとの返事だった。

私は感心した、あの機体をかついで、また山を降りるのは大変だ。私なら少々無理をしても飛んでしまうかも知れない。無理をしないのはすごい、自分の気持ちをコントロール出来る事に感心した。こうして全員無事磐梯山のフライトを終えたのだった。

その数カ月後、相馬の人の自宅へ電話した。
「・・・君いますか、」
「いません」
「どちらかへ出かけてるのですか?」
「1ヶ月程前になくなりました」

私より何才か若かった彼が死んだ。聞くと秋田でエンジン付きのハングライダーで落ちて死んだという。「ああ無理したかなー」と一瞬思った。磐梯山のフライトの時も、全く新しい機体で、テストなしで飛んでたよなと思い出したのである。

それから数年後、磐梯山フライトの時、風が強くなってきたのでフライトを中止した人の死亡がニュースで流れた。パラセールというやはり空を飛ぶもので飛行中、突風に遭いパラセールがたたまってしまい落下して死んだというニュースだった。あんなに用心深かった人がなんでと思うような出来事で私にとって大きなショックだった。

その後も、ウルトラライトプレーンやスカイダイビング等、私の「空飛び人生」は続いているが、アメリカで初めて空中に浮いたその日から、10年の間に直接会った事のある空を飛んでる人が10人以上死んだ。
小林さん、大矢さん、全日空の教官、アベンジャーの開発者ジャック、猪苗代で行き会ったジャイロコプターの人、相馬の人、高いリスクがあっても自分の夢に人生をかけた人達にエールを送りたい・・・。

「空飛び人生バンザーイ!」

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