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3.就職そしてアメリカへ(25~26歳)

・社会人1年生 (株)永殖へ就職

2月になり、ようやく卒業できるめどがついた私。しかし就職の事は、全く考えておらず前の年から始めた引っ越し業「あけぼの運送」の仕事が大忙しで、自分で受付をし、他人の引っ越し荷物を次から次へ運ぶ毎日だった。その頃、月に2~3日アパートの大家さんであるAさんの所へ仕事の手伝いにも行っていた。
Aさんの工場は自宅の一角にあった。工場といっても10坪程の土間に、大きな釜が2つあり、一つですったリンゴを煮て、カラメルや唐辛子等をまぜ、もう一つの釜でビンを蒸汽消毒し、できたソースを手作業でビンに詰めるというものだった。

Aさんはは淡々とソース造りをしており、蒸し暑い風通しの悪い土間でKさんと二人で汗びっしょりになりながらやる作業は、私にとって苦しいながらも楽しい仕事だった。その日に作ったソースの一升瓶に王冠をし、ラベルを貼って10本一箱の木箱に詰めた後、ごちそうになる、自家製のそばだれで食べるそばのうまさは格別だった。

そんなAさんから、「就職は決まったのか? 良かったらうちで会社を作るから働いてみないか?と誘われたのだ。社長はAさん、社員は私一人、仕事は何か考えてやって行こうというものでした。私は他に計画もなかったので「お世話になります」と承諾し、あっさり就職が決まったのだった。

就職は決まっても、やる仕事がないのはつらいものだった。Aさんの所へお客様が来るとほっとした。お茶を入れる仕事があるからだ。たまにソースの配達もあった。夕方5時になるとAさんの息子さんが私を誘いに来る。2人で行くコースは決まっていた。

まず、2時間位パチンコをし、次にサウナへ行ってマッサージをし、そしてクラブを2~3軒回る。私は全くアルコールがだめなので、いつも運転手だった。左ハンドルのヴィックという大きな外車で、コーラを飲みながらも一緒に楽しくいられたのは、それまでに私の知らなかった世界をみれたからだと思いう。こんな調子で社会生活1年目が過ぎていったのだった。


・社会人2年目:アメリカへ来てみないか

(株)永殖へ就職して1年、私は誰かの下で働くと力が出ないのか、2つ程の商品を扱ってみたがパッとしないで1年が過ぎてしまった。

高校時代の親友で、アメリカへ留学していた藤田忠平君から手紙がきたのは丁度この頃。手紙には、アメリカの素晴らしさと「自分は2年程いたアメリカから数カ月先には日本へ戻ってしまうので、その前に遊びに来てみないか」と書かれていた。

好奇心旺盛な私は、行きたくていてもたってもいられず、社長のAさんにお願いした。「アメリカへ行きたいので2ヶ月間休ませてもらえませんか?」

私は短期間ではなくゆっくりアメリカを見てきたかったのだが、「それは長過ぎるからだめだ」と断られてしまった。

そこで私は、大変お世話になったAさんの会社を辞める決心をした。

「すみませんが、辞めさせて下さい。」

Aさんは了解してくれました。こうして、その後の生活の事も何も考えないまま、藤田君の待つサンフランシスコに行く事になったのだった。
今でこそ外国へ行くのは簡単だが、銀行の残高証明を取ったり、東京のアメリカ大使館へ行きビザを取ったり、と結構大変だったのを覚えている。大変な思いをしてでも、アメリカへ行きたいのには、目的がもう一つあった。

「ハングライダーをやりたい」という事だった。

 たまたま目にした雑誌に、サンフランシスコの隣町にハングライダーのスクールがあり、そこへ行けば教えてもらえる、と書いてあったのだ。もっと以前に見つけた雑誌の裏表紙には竹で作ったハングライダーの写真があり、それを切り取って大事に持っていた。「いつかチャンスがあったらなんとか空を飛んでみたい」という夢があったのだ。こうして夢の実現へ向けて、サンフランシスコへ行く準備は着々と進むのだった。

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