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別れの言葉

6月
母の兄弟最後のひとりである叔父がこの世を去った。
92歳。祖母と同じ歳。
とても健康に生きてきたのはかなり年下のパートナー(叔母)の支えがあってこそだと思う。

ベッドに横たわる叔父はまるで眠っているかのようで、私は両手一杯に抱えた紫陽花の花束をそっと枕元に置いた。

お花を買う時、いろいろと検討していたのだけど
「こっち」という声が聞こえた気がして振り返ると、奥にたくさんの紫陽花があった。後で聞いたら叔父の大好きなお花だったらしい。
私の母が耳元で囁いたのかもしれない。

福岡大空襲(1945年6月19〜20日)を逃れ、幼い妹(私の母)と母親を探すために必死で横たわる死体を確認して回ったそうだ。
荒地となった天神の市街地に家具屋を始めた祖父。
のちにその一角で喫茶店を始めたのが叔父だった。
母も一応看板娘だったらしい。

私が短大の頃だったかな、妻である叔母が他界した。
その時のことを話していた叔父は「必死で店を増やしたとよ。それに没頭することで辛さから立ちなりたかったっちゃんね」と。

叔父は最後に会った時までずっとカッコよかった!
ボルサリーノに片手を上げて笑顔で笑う。
腰が曲がっていてもカッコよかった。

洋館風なおしゃれなお家に、ストライプシャツを着て美味しそうにお酒を飲む博多弁の粋な叔父。

ちょっと若い女性と再婚して、最後まで大切にされていた。
叔母の一番良い時を独り占めして楽しく、時には我儘に人生を楽しんだと思う。
辛いことも笑顔の下に隠して片手を上げて「元気しとうね!」と語りかける。

叔父が旅立ってから、1週間の間私は毎日考えていた。

 血筋ってなんだろう?
 家族ってなんだろう?
 死とは?
 生きるって?

私にとって〝死〟というのは身近なワードであり
私にとって〝救い〟でもあり
私にとって〝自由〟であったから

何度も向かい合ってやっと乗り越えたことだったけど
今回、「今の私」で深く向かい合うことができたかもしれない。

きっと今頃はあの世で家族揃って話してるんだろうな。
「あんた、どげんしとったね」とか言いながら。

最後、叔父は私の顔を見ては泣くことが続いてた。
どちらかというと私は母方の顔かなと思うのだけど
叔父は「猪之祐さんにそっくりやね」と泣く。
父は本当に愛された人だったんだなと思うのと同時に、辛いことを思い出させたくなくて。。。会いずらかった。

今週末、納骨となる。
子供達が海外に住んでいるので、滞在しているうちにという配慮からちょっと早い。

火葬から戻ってきた叔父は小さくなった。
納骨の日時を聞いて「本当はもっと一緒に居たかったろうに。代わりにありがとうね。」と叔母に伝えると
「今一緒に入れるだけで私は幸せよ」と言ってた。
最後は叔父は入院していたので一緒に入れなかったからだね。
コロナのせいで面会もままならず。叔父も寂しかっただろうに。

叔母の言葉に、二人が心を寄せて暮らしていたことが伺える。
叔父は叔母を頼り、叔母は全身全霊で尽くしてた。

もちろん私が知らないこともあるだろうけど、それでもこの言葉に全てが凝縮されていると思う。

「お父さんと一緒だから楽しかったのよね」
今までお世話で行けなかっただろうから少し旅行でも行ってきたら?と言ったときの叔母の言葉だ。

「私の心が張りつめていたのが解けないようにするためには、人に何を言われたって気にもならない。」
いろいろあったからね。

私の両親もだけど、叔父たち夫妻も
深く繋がっていたんだねって思う。
それは愛という言葉すらも軽く感じてしまうくらい。

1年後、数年後、
この投稿を私が再び見たとしたら
その時、どう感じるのかな?

未来の私は、どんなふうに6月を迎えているだろう?

最後に、過去の私と
叔父に向けて
ばいばい!ありがとうね。


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