貝の記憶

 彼は私を責めなかった。ただ大きな眼で私を見つめて、呟くように訊いた。本当に帰るの、どうしても帰るの、帰らなきゃいけないの、俺と結婚してここで暮らすって選択肢は全くないの、どうして?
 私はただ泣くことしかできなかった。泣いて、泣いて、嗚咽の間で謝ることしかできなかった。ごめん。ごめんね。ごめんなさい。
 何をどう言えばわかって貰えただろう。普通の人に理解できると思えない。ただ、信じてほしい。私があなたを大好きだということ。あなた以上に好きになれる人間は、今までもいなかったしこれからも現れないということ。
 人間? 大好き? 彼が穏やかに聞き咎める。愛する人、じゃないんだね。人間は愛する対象じゃない、君が愛せるのは、故郷の海だけ。そういうこと?
 そうじゃない、そういうことじゃない。「愛」って言葉を使いたいならそう訳してくれていい。だけど私は海の一部だから。

 島に戻るとすぐ、私は後継者を選んだ。先代だった母が死に、そのまた先代の洲本のばあちゃんが白くなってしまった今、「海の娘」は私しかいないのだ。母には実の娘であり素質もある私がいたけれど、私には血の繋がった娘も妹もいないし、いたところで素質があるとは限らない。母を選んだ洲本のばあちゃんは独身だった。海の娘は血が繋ぐのではない、波が運ぶのだと、彼女はいつも言っていた。正確には、ばあちゃんが選んだわけでも私が選んだわけでもない。海の娘を選ぶのは、海だ。
 私の次に海が選んだのは藻波(モナミ)だった。そばかすだらけの赤い肌に小麦色の髪、空色の目をした少女だ。同じような見た目の若い父親が、まだ白とピンクの赤ん坊だったモナミを抱いてこの島に来た日のことを、覚えている。元来「外」の人間に好意的なこの島に、外も外、日本でさえない外から来た親子に、島中が夢中になった。私もそうだった。その時にはまだ、彼女を選ぶことになるとは思っていなかったけれど。

 三歳の時、私は「貝廊の日」を予見した。二年か三年に一度、鳳(おおとり)島と鳥嘴(とりはし)島の間の浅い海に数えきれないほどの貝が集まって道となり、二つの島を繋ぐ日だ。その日は住民全員が道見岩に集まって見る。私が海の娘を継ぐことはその時にわかった。
 大潮の頃になると母はいつも「夜明けの海貝」を集めておいでと言った。儀式に使うからねと。言われた次の朝は、決まって貝のお味噌汁だった。だから「儀式」というのは朝ご飯のことだと、小さい頃は思っていた。
 日の出前の浜、泥と砂の混ざる辺り。薄蒼い貝の表には海と空の模様が描かれている。晴れた空、雲に覆われた空、嵐の空、空を映す海。
 同じ模様の貝はないと母は言った。夜明けの数だけ貝があるのよ。この海が生まれてから今日までの、全部の夜明け。覚えておくことはもちろん数えることもできない程の夜明け一つ一つを、貝に閉じ込めてとってあるの。
 でも、貝は壊れてしまうのに。何かに食べられたり、死んで、日と潮とに晒されて白くなって、波と岩に弄ばれて砕けて粉々になって行くのに。夜明けの模様は消えてしまうのに。
 それでもよと、母は微笑んだ。
 母が私に言ったように、私もモナミに言う。夜明けの海貝を集めておいで。そして集めた貝を袋に入れ、樹々の間を縫って山に昇る。鳳島の東半分を形作っている山の中腹、真東に鳥嘴島を臨む道見岩(みちみいわ)。その裏側にある祠の戸を開けると、中は暗い井戸だ。山から湧く水を、湧いたが早いか呑み込んで消えている井戸。携えて来た袋を水に落とし、浜に降りる。岩場の潮だまりの中からさっき投げ入れた貝を見つけて持ち帰り、食べる。そうして海の夜明けを身の裡に取り込むのだ。一年に合計三百六十五粒の、夜明けの海貝。これが年毎の儀式。そして後継者が二十歳になったら、最後の仕上げをする。
 
 大学二年の夏、母が交通事故で亡くなったと連絡を受けた時、言葉の意味がすぐにはわからなかった。こうつうじこ。って、何。
 島には、舗装された道路さえろくにない。ナンバープレートのついた車の一台もない。どうやって交通事故に遭うの。
「もしもしちぃちゃん、聞こよぉる?」
 島の世話役、塩飽のおばちゃんの声が頭を揺さぶって響く。母は独りで潜っていて、浮上したところを暴走族に――と、おばちゃんは言った――撥ねられたのだという。ウチらの島の周りは水上バイクやこぅ入って来ちゃあいけんのにと、しゃくりあげながら言う声が遠くで響いていた。
 白装束の母の遺体は、流されないよう網にくるんで潮に浸した。海の娘は死んだら海に還すのだけど。昔は本当に、沖まで漕いで行って沈めたのだけれど、今それをやったら犯罪だから。
「ちぃちゃんあんた、帰ってくりょうな? 海の娘を、継いでくりょうな?」
 真っ赤に泣き腫らした顔で、塩飽のおばちゃんが私の顔を覗き込む。この人はどこの出身だったろう。もうここに住んで何十年にもなる筈なのに、私が生まれるよりずっと前からここに暮らしている筈なのに、いまだに言葉が聞き取りにくい。けど意味は分かる。私がちゃんと島に戻って海の娘を継ぐ気があるかと訊いているのだ。こんな時にそんな質問をされなきゃいけないのかと思いながら、私は頷いた。
 未完だった私の儀式は、先代、洲本のばあちゃんが仕上げてくれた。体を傷つけないように海藻でぐるぐる巻きにした私を、道見岩の祠に投げ込んだのだ。真っ暗な水道を通る間に失神した私を、岩場で待っていた彼女が拭き上げて新しい布でくるみ、これであんたも海の娘だと言った。
 子供の頃は思っていた。三つの時にしたように「貝廊の日」を皆に伝えるのが海の娘の役目だと。
 勿論、そんなはずがない。そんな、あってもなくてもいいことの為に、後継者を選んだり、それを井戸に放り込んだり。海の娘は神職なのだ。古くは貝楼諸島中から尊ばれていた巫女だ。
 海の娘は海の報せを聞く。最初に聞いた日からずっと。鰯の群。鯨の来訪。嵐の予兆。津波の高さ。漂泊者や溺死者、漂着物。けれど、それが全てでもない。存在の、本当の意味は別なところにある。
 いつの頃からか感じてはいた。けれど、はっきり理解したのは結局、戻ってほしいと連絡を受けた時だ。
「ちぃちゃんあんた今すぐ帰れる? 洲本のばあちゃんがなぁ、白ぅなってしもぅて。もう、海の娘はあんたしかおらんのんよ。いつまたそがんことがあろぅもしれんし。帰ってくりょう? なあ?」
 ああやっぱり、と思った。それが、海の娘の本当の役割なのだ。あの日、ばあちゃんは仕事を終えたのだ。
 彼女はもう、何も覚えていない。ただ毎日、夜明け前から浜に出て、ひとりで砂の上を歩いている。外の、何も知らない人がみれば、徘徊する老人だ。けれど、島の人間は知っている。あれは海の娘だと。記憶を還して真っ白になった、それでも海の娘なのだ。日がな一日、飽きる様子もなく浜を歩き回り、海を見つめ、小声で歌を歌う。あの日からずっと。
 台風に煽られた二隻のタンカーが東の海で接触した日。貝楼諸島の八割以上の海を、黒い油が覆った日。死んでいく生き物たちの悲鳴が、死んでいく海の嘆きが、ずっとずっと聞こえ続けていた日。それが嘘のように拭い去られた日。洲本のばあちゃんが、夜明けの海貝から引き継いだ太古の記憶を海に還し、海が力を取り戻した日。一つの事故が、その引き起こした悲惨が、人々の記憶からも、新聞の見出しからも消え去った日。島に戻ることを、彼に告げた日。全部が同じ日のはずがない。でも、同じ日なのだった。
 洲本のばあちゃんが壊れたのは、記憶を海に還したからだけじゃない。海が僅かに戻した時の波間。呑まれていった人達。
 母はそういう逝き方ではなかった。それが幸せな終わり方かどうか、私にはわからない。でも、あれもまた、海の為に必要なことだったのだ、きっと。
 モナミは既に海の娘の何たるかを理解していた。起こった事と起こらなかった事を知り、洲本のばあちゃんが白くなるのを目の当たりにしたのだ。
怖くないと、彼女は言った。海が死ねば、ヒトだって長くはない。私だって、同じことをする。そうだよねと、私も言った。私だってそうする。死んだ方がマシなのだ。あるいは、白くなる方が。海の為に何もできないよりは。海が死んでいくのを黙って観ているしかないよりは。どのみち心は壊れるなら、海の為になれる方がいい。私たちは、そう、海の娘だから。だけどどこに行ったんだろう。その船も、乗っていた人達も。怖くはない。けど――

 七年間、私は祠の井戸に身を投げ続けた。最初はただ、知りたかった。洲本のばあちゃんがあの日何を感じていたか。どんな想いで、島のお腹を通ったのか。意識を保ったまま水道を通り抜けることができたなら、わかるのではないか――。けれど、何年続けてもやっぱり、岩場で目を醒ますことしかできなかった。そして今となっては、何のために自分が暗い水に飛び込み続けているのか、もうわからない。
 溺れ死なないことは知っている。だからって、怖くないわけじゃない。苦しくないわけでもない。目を醒ます度、もうやめようと思った。こんなことを続けて、何がわかるわけでも、何が変わるわけでも、ない。なのに、次の日になるとやっぱり、道見岩の祠に登らずにはいられないのだった。ここまでくれば立派な依存症だ。こんなことで、海の娘が務まるのか。それももう、考えるのをやめた。許されないならとっくに死んでいるだろう。私を生かしているのは、海だ。
 夜明けの海。真昼の海。黄昏の海。夜更けの海。透き通り翻る海。重く光る銀色の海。泡立つ漆黒の海。攫っていく海。押し寄せる海。私を選び、育て、受け止め続ける海。
 死ぬことは怖くない。白くなることも。自分が海の娘であることを恨めしく思ったことは一度もない。それでも、後悔がないわけじゃない。

 四年前進学の為に島を出てこの春大学を卒業し「ごめん。まだ帰れない」と言うモナミに、私は微笑んで頷いた。いいから。私のことは気にしなくていいから。どうしても必要になる時まではゆっくりして、それで誰かと一緒に帰って来れるならその方がいい。
「お姉ちゃん」と、彼女は私を呼ぶ。
「彼氏、いたんでしょ? なんで連れて来なかったの?」
 いたよと、私は答える。でも連れて来れなかった。一緒に来るとは、彼は言ってくれなかった。
 違う。
 違う。
 違う。
 彼が言わなかったんじゃない。
 私は頼まなかった。一緒に来てくれと。海の娘である私と一緒に生きてほしいと。私は海の娘だけど人間で、あなたに隣にいてほしいのだと。一生傍にいてほしいのだと。
 頼めばよかった。説明すればよかった。懇願すればよかった。断られるかもしれない。それでも、わかって貰う努力をするべきだった。
 もう遅い。
 モナミを送り出して、私は祠の井戸に身を躍らせる。どうせまた岩場で目覚めるのだ。いつしか、周囲が真っ暗になるが早いか気絶する術さえ身に着けてしまった。それでも、海は私を許している。だから、いつか海が私を必要とする日まで、繰り返すだけ。

……さ。ぃさ。ちさ。千砂。千砂。千砂! 
連呼されて、滅茶苦茶に揺さぶられて目を醒ました。目の前、ぶつかりそうな至近距離に、彼の顔があった。潮を被ってずぶ濡れの、人間の顔。自分の脳が彼を思い浮かべているのではなく本当に彼がそこにいるのだと理解するのに、暫くかかった。
 やがてやっとはっきりした意識で、驚いて目を合わせると、彼は爆発的な息を吐いて、私を抱きしめた。震えが伝わって来た。
――泣いてる?
 どうしたのと訊くのは憚られた。こんなところにいるのだ。それなりの理由がある。満ちて来る波が声もなく嗚咽している彼ごと私を洗うにまかせて、黙って待った。
「……かった」
 擦れた声で彼が言った。
「死んだかと思った」
「まさか」
 思わず言って、笑おうとしたけれど笑えなかった。
「やっと、来たのに。やっと、自分がどうしたいかわかったのに。間に合わなかったかと思った」
 息を整えながら、彼は少しずつ喋った。四年前に金髪の女の子が訪ねて来たこと。一晩かけて彼女の話を聴き、それでも決心はつかなかったこと。

「洲本のばあちゃんに会った?」
 仕事を辞めて来たのだという彼に、私は言った。
「あの人?」と、彼が砂浜の端を視る。山が波打ち際まで迫っている手前の岩場に、小さな人影があった。目で頷く。彼もまた小さく頷く。

 私もああなるんだよ。私は彼に言った。彼女ほど齢とってからとは限らない。日に日に、世界は汚れ易くなってる。
 彼は何も答えなかった。ただ黙って私を抱きしめていた。

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