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月に梯子を

 悲しみの匂いがした。
 目を開けると、窓のむこうに夜明けの星が見えた。寝床の中で涙を流しながら、ルロは「誰の悲しみだろう」と思った。
 誰のものであっても不思議はなかった。町は今、悲しみを湛えた心に不自由していない。
 今日は年に一度の月祭りだ。我こそはと思う魔術師と相方の職人が、三千世界からこの小さな町に集まってくる。何日も前から町に入っている組も多い。そのうちの何組かはルロが運んだ。
「月掛け」では想いの強さがそのまま結果に結びつくのだし、強い想いは往々にして喜びよりも悲しみのことが多いから、魔術師が選ぶのは消えることのない悲しみを抱く人が多い。毛布の端で涙を拭って、ルロは起き上がった。仕事に出なければ。
 紙魚使いにとって一年中で一番忙しい季節の、今日明日がフィナーレだ。ここ半月、ルロは手持ちを全部繰り出して幾多の世界を繋げ、行き来していた。世界間通信局が探し出した二つの世界に共通の本から、まずは幼い紙魚を使って「理(ことわり)」の文字を削る。その後、相方のシバンムシが両世界間の壁を齧る。そうしてできた小さな穴を拡大魔法と固定術で門に仕立て、今度は成熟した紙魚を人数に合わせて選び、客を迎えに行く。三十人を超える観戦者グループのこともあれば、魔術師と職人の二人だけのこともある。三十人を乗せられるような大きいものを飼っているのは、この町ではルロだけだ。門はせいぜい半月もてばいいので大した魔力は必要ないが、紙魚は一朝一夕には育たない。ルロは自分の仕事にそれなりの自負を持っていた。
 通りには既にたくさんの屋台や観戦用テントが立ち並び、多くの人で賑わっていた。町役場の入り口には、審査を行う魔女達の昔ながらの装束が並べてある。十二人分の黒いローブと箒の前を通り過ぎて裏口を出ると、町の喧騒が遠ざかり、運河の岸を叩く波の音が届いてくる。ルロは石の階段を下りて行った。船着場には顔見知りの船頭が彼を待っていた。対岸の、門の林立する空き地へと向かう。今から迎えに行くのは、観戦者ではなく競技者だ。少し気が重くなる。
 集まったほとんどの人にとっては楽しい祭り。けれど勝つのはたいてい悲しみの人だ。
 三年前、優勝者はどこかの世界の祖母で、梯子の素材は早逝した孫の好物、「レモンメレンゲパイのメレンゲ」だった。その次の年はパン職人、戦で亡くした親友を想って焼いたプレッツェル。二人とも、別な魔術師からの依頼を受けて二年連続で参加したが、成績は芳しくなかった。二度目はどうしたって、想いの純粋さが薄れるからだ。彼らに参加を持ちかけた魔術師の名誉欲は勿論、職人本人にだって欲が出る。優勝者への賞金はそれぞれに母世界の通貨で支払われるのだ。でもそれも悪いことではないと、ルロは思う。欲は自然なものだし、想いというのが悲しみであるなら、薄れた方がいい。
 言い伝えによれば、この祭りの起源は、最愛の少女を失って悲しみのあまり飛ぶ力を無くしたペガサスだ。「星々よりは近いところであなたを待っているわ」と言った少女の言葉を頼りに梯子を作り、魔力を撚り合わせて月に向けて、登って行った。一段登るごとに足元の段が消え、梯子は上に伸びたという。彼がどうなったかは語られていない。
 今に残る「月掛け」は、二つの観点で競われる。どれだけ長い梯子を作り、高く上げられるか。それがどれほど美しく見えるか。
 箒に乗った魔女たちが梯子の高さを計測する傍ら、観客席には投票用紙が配られる。どの梯子が、月に一番近く、美しく見えたか。
 以前は、何らかの魔法素材を職人に渡す魔術師もいた。少しでも魔力が増すことを期待して、ユニコーンの角の粉だとかニワトコの枝だとかを。今も、それは禁じられてはいない。しかしもう誰も、そんなことはしない。雑念が増すばかりで良い結果を生まないことが知れ渡ったからだ。
 門の向こう側でルロを待っていた魔術師は、その瞳に悲しみではなく喜びを湛えた若い女性を伴っていた。抱えている荷物は大きくはなく、既に出来上がった梯子を持っているようには見えない。今から月の出までにどんな方法で梯子を作るのか、ルロには不思議に思ったが、尋ねはしなかった。客が悲しんでいないことが嬉しかった。
 手続きを済ませて町役場を出ると、一匹の犬が近寄ってきた。真っ黒で毛足の長い、かなり大きめの犬だ。驚いて立ちすくむ二人の客に大丈夫ですよと声をかけて、ルロは犬を撫でてやった。この町の人間はみんな、この犬に慣れていた。草原のはずれに去年まで住んでいた少年の、可愛がっていた犬だ。体が弱く、めったに家から出ることもなかった少年が、この日だけは犬と一緒に外に出るのを楽しみにしていた。そうして去年、祭りの翌日に、少年は亡くなった。
 日が暮れて月が登り、草原にいくつもの梯子が立ち上り始めるまでに、ルロは何度も犬の姿を見た。あちこちの屋台を覗き込み、人々の足の間を歩き回ってはその顔を見上げる犬。
 細い細い金色の糸で編まれた梯子が、空の高みで月光を浴びる。結婚を間近に控えた若い娘は、レース編みで有名な島の出だった。内戦で価値を無くした紙幣の梯子も純朴な大工が作った細く美しい木の梯子も、善戦はしたがレースの梯子に敵わなかった。
 優勝者以外の梯子が片付けられた時、草地のはずれで犬が長く吠えた。満ちていた魔法を吸って、それは人の言葉のように響いた。
 いない。いない。どこにもいない。どのテントにも、どの屋台にも、どこにもいない。どこにもいない。どこにもいない……
 そこここで、色も形もない魔法の影が、今まで覆っていた梯子を離れて立ち昇った。
 崩れ落ちかけた金色のレース編みが再び月に向かって伸び、嘆きながら登って行った黒い犬の姿が、梯子と共に月の中に消えた。
 長く尾を引いていた遠吠えも、やがて聞こえなくなった。

                                 了

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