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ツイッターについて書くシリーズ 1 「パクツイすんな」


はじめに


そもそもの話をすると、こんな感じでツイッター、特にネタツイと呼ばれる投稿について外から語ることはなんかタブー視されているというか、少なくとも粋ではないみたいな空気が、以前からある気がする。
というのも、過去に「ツイッターで面白を作って、公開すること」についての記事をアップした際、「これ文章化するのってダサいんじゃないですか」みたいなリプライやDMを、実際にいくつかもらうことになったからだ。
まあ、それはまあね、確かにそう。確かになあ!

だって、ネタツイよりもよっぽど文化として成熟している漫才や大喜利についてでさえ、技術的な部分をしっかり文章にするとなるとちょっと無粋な感じになる。なぜ面白いのかとか、どこがフリになってて、ここに裏切りがあってとか、構造や枠組み、テクニックが開示された瞬間、受け手の中で感動が知識に変わるからである。
また、これはお笑いに限らずだけど、十分説明されていないものを受け取り、咀嚼してこそ、“それを面白いと感じることができた体験”に価値が生まれるわけで、それらを踏まえて、おい余計なことしてんなよ、という反発が出るのは当然のことと思う。
あと創作・発信する側がそれらの種明かしをするというのもどこかこう、鼻白んでしまうというか。ああこれ、あのとき言ってたあのテク使ってんだね、みたいに、技術の開示以降の創作物を眺める視線を屈折させてしまうのは決して望ましいことではない。

で、なぜ始めにそんなそもそもの話をしたかというと、今回「パクリ」「かぶり」について書くに当たって、ツイッターでの面白=ネタツイというものの背景というか、枠組みを無視することが難しいと思ったからである。ネタツイにおけるパクツイ、あるいはネタ被りについてはある程度外から見ないと双方の見分けが難しく、つまり、これから粋でないことを敢えてするけど許して欲しい、なるべく方法論というか、ウケの小手先みたいなところには触れないようにするからさ、ソーリー! というか、まあ、そんな感じである。

だってほら、漫才だったら2人以上の人間がセンターマイクを挟んで、小道具を使わず、しゃべりと動きだけで笑わせる話芸、みたいに分かり易いルールが決まっているじゃないですか。その括りがあるからあ、これ今漫才やってるんだねってパッと見で分かる。でもネタツイってそういうカチっとしたものがあんまりないから。だからある程度、こういう場合はこうなんですよっていうのがないと、話がブレてしまうのだ。

最後に言い添えておくけれど、以下は全て僕がツイッターをやってきた中での感覚がベースの話だ。インターネットの面白全般にいえるけれど、割と著作権についての認識がガバガバだったりするので、なるべくそうならないように注意はするけど普通に矛盾というか、自分のことは棚に上げて… みたいな表現があるかもしれない。それについては申し訳ない。でもまあ公開限定noteだし個人的なことばっかり書いてもいいか! 質問があったら直接訊いてくれ!


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