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「自分のため」にやるとは?ー『ピンポン』から探る喜びの原点ー

はじめに

 人間、何だって何時だって自分が喜んだり楽しんだりした時は、それを直接感じ取ることが出来る。また、直接感じ取れたことを言葉にし、お互いに伝えあうことも出来る。それ故に我々は、他人・共同体の喜びのために何かすることも出来るし、単純に自分の喜びのために何かすることも出来る。なので日頃我々は、時と場合に応じて「他人・共同体のため」と「自分のため」を区別し、使い分けながら生きている。しかし使い分けながら生きていると、殊更「自分のため」にしている筈のことが、実際には喜びが感じられなくなるというズレが生じる場合がある。そうなると、そのズレに合わせる様にして、やることや考えることはどんどん複雑になっていく。

 そんなふうに生き方が複雑になった際に、「自分のため」にやることは、実際に自分に感じられる喜びと、どう再接続出来るのか。これが、今回ノートで考察する問題である。また、拙ノートは、松本大洋の『ピンポン』に沿って話を進める。『ピンポン』は高校卓球漫画で、アニメ・映画化もされており、どれも概ね好評を得ている。その中で今回直接扱うのは、(現在の筆者の都合上)アニメのピンポンにする。

※ここから先は『ピンポン』のネタバレを多く含むので、まだ見たことがない方は、是非そちらを先に見てください。

「自分のため」を支える原点は何処で発見されるのか

 本考察は、『ピンポン』の中でも風間竜一というキャラに焦点を当てる。彼について簡単に解説すると、作中の高校の中でも卓球最強の海王学園で部長兼主将をつとめ、インターハイ個人で2年連続優勝するという、正に大ボス中の大ボスとでも言うべき存在である。これ以上の詳しい説明は省くが、彼は才能と力のある者だけが(それに見合った)夢を現実にできることを痛感しており、唯々自分と海王学園の卓球を強くすることばかりを追い求める。それに伴い「自分のため」に強くなるほど、勝利は当然(必然)となり、賞賛も卓球も苦痛となるが、そこで足を止めないことにアイデンティティーを抱き、最強であり続けた。ここから分かるように、風間にとって「自分のため」に卓球をすることは、自分が(直接)感じ取れる喜びから乖離している。(自分にとっての)卓球がどんどん複雑なものへと変化しているともいえる。では、そんな風間の「自分のため」の卓球は、どう(直接自分が感じ取れる)喜びへと再接続されていくのか。

 ところで『ピンポン』には、風間に憧れて卓球に心血を注いだ佐久間学というキャラがいる。佐久間は物語の途中で自らの才能の限界を思い知らされ、卓球から足を洗う。そんな佐久間が(卓球を止めてしばらくした後に)風間のもとに訪れ、「風間さん、誰のために卓球やってます?」と問いかける場面がある。そこで風間は「無論、自分のため」と答えるが、それに対し佐久間は「冗談言わないでください!」「今のが本音なら、おれだってなにも……」と思わず感情をもらしてしまう。誰よりも賞賛とプレッシャーを引き受けていた風間に憧れた(し、それに応えようとした)佐久間からすれば、それを「自分のため」などと結論付ける風間の済ませ方は、到底納得できるものではなかっただろう。その後、風間が(海王学園の)副部長に佐久間とのやり取りを伝える場面があるが、副部長に佐久間の問いかけを伝え、副部長から「ほいで、何ち?(それでお前は何と答えたんだ?)」と聞き返されると、「無論、チームのためだと」と返事をする。それに対し副部長からも、「ハッ、きさんらしか答えじゃ」と返される。ここで初めて風間は、ただ「自分のため」に強さを求めた状態から、「他人(チーム・共同体)のため」という見方へ意識的に捉えなおせる様になった(今までと根っこは変わらないとはいえ)。そんな風間だが、その後に、「自分のため」が、自分が直接感じられる喜びへと再接続されることになる。『ピンポン』の主人公である星野裕と試合することによって。

 はじめ風間は、その圧倒的な実力で星野をものともせず、二ゲームを先取する。しかしそこから星野は覚醒し、風間に向けて「卓球っつーのはなァ、めたくそ楽しいんだぜ!!」と言い放った後、まるで遊ぶようにして、自分がやりたいプレーを好き勝手にするようになり、それが却って(型に嵌らないが故に)風間を追い詰める。追い詰められた風間は、「全身の細胞は驚悸している」「加速せよと命じている」と、そのとき初めて卓球の中で自らの身体に起きる刺激に気が付く。今まで(勝利という)大いなる使命に全て捧げて卓球をしてきた風間は、星野(のやりたい放題のスタイル)に相対することで、ようやく卓球に夢中になれたという訳だ(余談だが、この試合は佐久間も観戦しており、風間の変化を見ることで、佐久間自身もいくらか救われたであろうことは想像にかたくない)。

 「自分のため」に何かをすることは、何か実現されるものに即して、そこに自分をすり合わせることを要求する。またそれが現実の中でなされれば、そこで実現される自分の姿が、他人(や自他を含む広がり)から見直されるようにもなる。そうなれば、「自分のため」は必ず(実現されるべき)内容規定上で理解されるし、またそうであるからには、それが素朴には自分自身が感じる喜びとは(直接)繋がらなくなる。ただし、実現されるべき内容は、単にそれだけで成立することはない。そこには必ず、それを支えるだけの実感がある。ただ直接感じられた喜び、楽しみといった快感から、そもそも人は自分を何かにしようとするのだ。「自分のため」に何かをなし、また(それに向けて)考える人こそ、そう思えるだけの(自らの)感覚にどれだけ即せるか、またどれだけ(感覚を触発させる)現実と邂逅することに拘れるかが大切になるだろう。「自分のため」にやることと、実際に自分に感じられる喜びとの再接続は、元々ある繋がりを再確認することで成立する。

おわりに

 『ピンポン』に即して考察したい話はこれだけに尽きないので、後々別の角度から取り上げるかもしれない。ただなんにせよ、『ピンポン』は実にアナロジーが巧みで、見ていて物語の細部にまで血が通っているかのような印象を受ける。物語全般に多かれ少なかれそういう要素はあるのだろうが、『ピンポン』がその点において一等強烈なインパクトを秘めているのは疑いないように私には思われる。それはまた、自分の一番素朴な心の働きが刺激されるということでもある。『ピンポン』から、一人でも多くの人がそういった体験をしてくれればと願っています。

 

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