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細部がないことで成り立つ理解について―漫画『GS美神 極楽大作戦!!』から探る創作内の説得力―

1.創作は「添え物としての説明」があり得る

 
 お化けだろうと宇宙人だろうと、物語では、作者の想像力が及ぶ限り何だって登場させられる。何なら物語であれば、現実とは異なる仕組みの世界を設定したって構わない。物語をどう創造するかは、作者にとって完全に自由な試みであると言えるだろう。ただし、物語の設定や登場させるものは作者が自由に決められるとしても、その設定をどう理解可能なものにするのかが、創作では必ず問題になる

 この問題について分かりやすくするために、一つ有名な漫画から例を挙げよう。近未来が舞台の漫画『鉄腕アトム』では、漫画の中に、ゲタや昭和スタイルの学生服、イガグリ頭のキャラ(四部垣)などが登場する。そのせいで鉄腕アトムの都市は、未来の発展的な建物の中に一部古風な風景が混ざったチグハグな世界観になっている。これについて作者の手塚治虫は、「ほんとの未来都市を描くと」「今の読者にとって風変わりすぎて」「だから読んでてもなじまないんだよ」「だからわざとあちこちに現代の物をまぜて」「読者に親しみを感じさせるようにしてあるんだ」と、(アトムの漫画の中に自分を登場させて)語っている。こうした例からも分かるように、単に新たな設定だけで物語を創っても、それを読者に理解させることは難しい。新たな設定が、(元々の)現実の延長線上の繋がりで(現実からの変化として)受け取れた際に、初めて私たちはそれを理解することが出来る。今回取り上げるのは、そんな「元々の現実と繋がる新しさってどういうもの?」という話である。

 今回の話は椎名高志の漫画『GS美神 極楽大作戦!!』(以下『GS美神』)を検討しつつ進めていく。この漫画のメインは言わば悪霊退治で、日常のドタバタギャグを挟みつつ、都度霊とのバトルを楽しめる物語になっている。タイトルにある「GS」は「ゴーストスイーパー」の略だ。何故この漫画をメインに取り上げるのか。それはこれから明らかにしていくが、予め簡潔に述べると、『GS美神』は新しい(その漫画独自の)設定についての細かい説明を敢えて省略することで、却って物語(内の設定)に説得力を持たせ(るというユニークな手法を用い)ているからだ。創作では、作者が一定の範囲より先に何も説明をつけないことで、物語の設定をより読者に納得させられる(独自の設定が現実からの変化として受け取りやすくなる)ということがあり得る。通常の感覚からすれば、説明が細かいところまできちんとなされている方が、よりその内容を理解しやすくなると思われるだろう。ところが創作の場合は、通常の感覚とは寧ろ反対に、一定以上は何も言わないことで説得力が増す(創作ならではの)説明があり得るのだ。こうした(創作ならではの)説明が本文の趣旨になるため、これに「添え物としての説明」と名をつけよう。「添え物」という言葉には、説明それ自体(の内容)が直接理解を可能にするのではなく、説明を元々の現実に添えられる限りでだけ行うというニュアンスを込めている。次節からは、実際に『GS美神』が、その漫画独自の設定を(物語内で)どう説明しているのかを確認し、「添え物としての説明」という手法についても明らかにしていく。

↓ここから先漫画の内容への言及を多々含みます。ネタバレが気になる方
  は読むのを止めて、先に漫画を読まれることをお薦めします。
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     す。)

2.説明が適度にないからこそ繋がれる現実の理解について


 前節でも簡単に触れたが、『GS美神』の物語のメインは悪霊退治であり、また霊とのバトルである。よって、この漫画でも(悪霊との)バトルでの強さを表す「霊力」(や、それを基にした各除霊屋特有の「霊能力」)という指標が存在する。この力が『GS美神』ならではのバトルを成立させるための、言わば独自の設定の要にあたる。ただし霊とのバトルといっても、いつも分かりやすく霊力(や霊能力)が発揮される訳ではない。幽霊側の事情に合わせて、テニス、カラオケ、F1(エフワン)、果ては(鬼を相手に)ミニ四駆やゴルフなどで勝負することもある。『GS美神』の世界観では、これらの勝負すべてが霊能力の闘い(単に相手より競技が上手ければいいという話ではない)ということになり、幽霊の執念に霊力で対抗できれば幽霊を成仏させられるのだ。こうした話からも分かるように、『GS美神』の霊能力の闘いの本質は、傍目からは分からない(霊力を持った霊能力者にしか分からない)場合がある。読者の眼には、単に幽霊や鬼を相手に自分達も日頃やっている競技をしているようにしか見えないという訳だ。それでは読者は、『GS美神』のバトルの何を以って、それを(単なる競技の実力に限らない)霊能力の勝負と納得するのだろうか。

 『GS美神』のバトルが霊能力の闘いであったことが一番分かりやすくあらわれるのは、幽霊が勝負に負けたら成仏する(霊能力者が幽霊に負けた場合は霊力をすべて吸い取られて死ぬ危険がある)ところだろう。読者は話の最後まで読んで幽霊が成仏する様を見ることで、「ああこれは(本質的には)霊力による勝負だったんだな」と納得する。勿論ここでいう霊力は、『GS美神』内でのみ通用する設定(フィクション)な訳だが、にも関わらずこの設定には確かな説得力があると言える。何故か。

 我々一般人でも、当然幽霊を信じる人もいれば信じない人もいる。しかし(幽霊を信じようがなかろうが)「幽霊は生前の人の思いが死後も残り続けたものであり、またその思いが憎悪や無念や欲望などとして増幅すれば、(生者を脅かす)悪霊になる」という理解については、誰であっても(幽霊や悪霊という言葉を使用する限りは)信じている。何故なら、ともあれその様に我々が幽霊を理解しないことには、この言葉自体を使用できないからだ。となれば、そんな幽霊を(勝負に負かすことで)成仏させられたということは、幽霊の思いを昇華させる力が(物語内で)発揮されたことになる。こう考えるなら、たとえ読者の様に霊能力者でない者からしても、(ともあれ幽霊が成仏してる以上は)すんなりと霊力という設定を受け入れられるし、その設定に説得力を感じられる様になる訳だ。

 もしこれが、(霊力という独自の)設定の細かいところまで説明されていたらどうか。(『GS美神』でいうところの)霊能力者ではない読者からすれば、その細かい説明を頼りに独自の設定を理解するしかないだろう。勿論詳細な説明によって、細かいところまで(作者と読者が共に)考察をめぐらすという(凝った)楽しみ方だって十分あり得る。ただし、そうなると詳細な説明の精度が、読者に設定を理解してもらえるかどうかの生命線に(良くも悪くも)なる。その点『GS美神』の場合は、本質的には何をやっているのか分からない(ただ日常的な競技をしてるようにしか見えない)からこそ、(我々が既に現実で理解している)幽霊を成仏させる力がこの漫画内にはあるのだなと合点がいく。これが前節で名付けた「添え物としての説明」である。

 言わば『GS美神』の霊力の説明(及び設定)は、既に現実にある我々の「幽霊」に対する理解に、設定の肝心な(本質的な)部分をゆだねており、そこからはみ出す部分にだけ説明を添えているのである。なので、『GS美神』における独自の設定は、その新規性が(元々の)現実の世界の仕組みと、根本から取って代わってしまうことがない。我々の元々の現実への理解(の仕組み)はそのままに、その上で「実は・・・」と付け足す形で独自性を盛り込んでいる。そうすることで、我々の元々の理解と食い違わずに、新たな世界観が円滑に接続される。せっかくなので、本節では霊力そのものの(漫画内の)説明についても、もう少し見てみよう。

 『GS美神』には、「不運も幸運もその人間の霊力が呼びこむものよ。」という(小笠原エミというキャラの)セリフがある。運も実力の内ということで、漫画の中でも、たまたまクシャミをしたお陰で敵の奇襲を避けたり、敵が破壊した観覧車が自分とは数センチずれた位置に倒壊したお陰で助かるなどといったことが起きる。勿論私達は全て終わった後の結果としてしか、幸不幸を理解することが出来ない。そして何より、我々は幸や不幸を、実体として捉えられないものとして理解している。よって、本質的に捉えようがない霊力が、実体としては理解不可能な幸不幸の内に整合的に潜むことになり、それがまた(読者への)説得力を生むのだ。言わばここでも、「幸不幸」という我々の元々の理解に接ぎ木するかたちで、霊力の説明が添えられている。

 ただし誤解してはならないが、ここでの趣旨はあくまで「添え物としての説明」にあるのだから、注目すべきは説明を添えるというテクニックである。霊力という新設定を、単に幸不幸と繋げたことを評価するだけでは、本文が考察したい点からズレてしまう。幸不幸から霊力の説明を添えることは、単に幸不幸と霊力を繋げるのと、どう異なるのか。

 それを明らかにするために、今度はガモウひろしの漫画『とっても!ラッキーマン』を引き合いに出して、『GS美神』と比較してみよう。『とっても!ラッキーマン』は、運の良さだけを武器に敵を倒していくラッキーマンについてのヒーローギャグ漫画である。この漫画は幸不幸と力が繋げられている典型例と言える。『とっても!ラッキーマン』と『GS美神』の違いは何か。ラッキーマンは運だけで敵を倒すので、強大な敵がアンラッキーで敗北することで、ラッキーマンの力が示される。一方『GS美神』は、様々な仕方で霊と勝負する中で、ほんの偶然によって勝負の有利不利が左右されることがある。この場合は、幸不幸だけでは(霊力に即した)実力を汲み尽くせない。読者が出来るのは「傍目には単なる運不運にしか見えないが、ここにも霊力は絡んでいたのだろう」と予感することまでだ。言わばラッキーマンの場合は、幸運が力である設定が直接押し出されているので、読者はその力の本質をそのまま(既存の理解として)捉えられる。それに対し『GS美神』は、相変わらず霊力の本質は分からないものの、それが(分からないなりに)どう発揮されたかが、(我々が既に理解可能でありながらもそれ以上遡れない盲点でもある)運不運によって示唆されている。そうすることで『GS美神』は、我々の理解の外側にある新規性を、既に理解している現実と接続し、(本質は現実そのままに)読者を創作による新たな世界へと導入しているのだ。

 以上これまでの話をまとめよう。創作では、その設定をどう理解可能なものにするのかが、必ず問題になる。そこで今回のノートでは、元々の現実と繋がる(設定の)新しさを問題にした。ここで注目したのが、『GS美神 極楽大作戦!!』にある「添え物としての説明」というテクニックである。創作では、肝心な部分を説明しないことで、却って設定の説得力が増すし、それが私たちの理解の外側を示唆する新規性をもたらしてくれることもあるということだ。

 ところで、ここまでノートをお読み頂けた方の中には、次の様な疑問を持つ方がおられるかもしれない。「(「添え物としての説明」といったって)設定の本質が(既存の)現実にあるんだったら、わざわざ新しい設定(例えば霊力)を持ち込む必要はないのでは?私たちの常識的な見方にあった設定だけで初めから創作すればいいのではないか?」という疑問だ。この疑問に答えると、「添え物としての説明」は、敢えてそれが持ち込まれることによって、現実の見方以上に現実のことが分かることがあり得る。『GS美神』も、(霊力という設定が新たに付け加わることで)単に話が面白くなるだけではなく、それによって現実の仕組みに初めて気づかせてくれる様な側面がある。ここには、フィクションがノンフィクションの構造への洞察を可能にする様な興味深い問題が潜んでいると言えるだろう。

↓ということで、ここから下は有料部分です。「「添え物としての説明」が
  現実の理解の仕組みをどう明らかにしてるっていうの?」という話を、『GS美神』の中の四つのエピソードを紹介しつつ説明します。

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