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Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」を批判するのはそう簡単じゃないぞという話

さて、この文章を書き始めた段階で既に時刻は深夜12時36分をまわっている(とか書いていたら37分になった)。明日(というかもはや今日!)も仕事があるのに、何故私は貴重な睡眠時間をけずってまでnoteを書いているのか。それは、たまたま下北沢で酒を飲みながらスマホを見ているときに、Mrs. GREEN APPLEのMV「コロンブス」が、大炎上して公開取り消しになったというニュースを目にしたからだ。元々私はきちんと議論、検討が済む前から(問題が起きた途端に)作品が非公開になるのを好ましく思っていない人間なのだが、今回の「コロンブス」非公開(に至る炎上の経緯)は一等ひどいものであったので、私なりに(賛否どちらの側に立つのであれ)「コロンブス」MVの内容に関して踏まえておくべきだと思われる点を即興でまとめておこうと思う。

①何故不謹慎という点からだけでは「コロンブス」MVを批判しきれないのか

何故このMVが炎上したのかというと、中日スポーツによれば「大航海時代の先進文明人が、『猿』に文明を教える、調教する、あるいは使役するビジュアル」が問題になったからだそうだ。明るい曲調と雰囲気の中、メンバー扮するコロンブスたちがサルたちを教育する様子は、植民地主義や先住民迫害(や蔑視)を肯定している様に映るという訳だ。しかし私から言わせるなら、こうした批判は間違っている、と言うよりも、もはや間違っているかどうかすらも定かでない。何故か。

簡単に言ってしまえば、メンバー扮するコロンブスたちは、実はコロンブスであってコロンブスではないし、サルたちもサルであってサルではないからだ。これだけだと禅問答もどきで煙に巻いているようにとられるだろうが、要するにコロンブスもサルもアナロジーによる演出でしかないという話だ。実際、コロンブスたちはわざとらしいまでのコスプレ衣装だし、サルたちの方が明らかに文明的(現代的)な生活を送っている(MVが非公開なのが悔やまれるが、これらは明らかに意図して作られている)。ではそんなサルたちにコロンブス(もどき)が何を教える(啓蒙する)かというと、音楽と卵の立て方しかない(よって啓蒙なのにサルたちの生活スタイルは何一つ変わっていない)。つまりこのMVのキモは、啓蒙の体すらなせていない啓蒙の演出によって、何を曲のテーマにしていたかを探ることにある。となると、わざとずれた役柄として演出されているコロンブスやサルそのものに不謹慎さを感じたって仕方ない訳だ。

しかしこの様に書くと、次の様な反論が出てくるかもしれない。「たとえ曲(やMV)のテーマを連想させるために、ずれたコロンブスやサルを持ち出したのだとしても、それらを(肯定的に)採用している時点で、歴史的な差別意識を助長するではないか。アナロジーによる演出をしたいのならば、不謹慎さと紐付かない方法で行うべきだ。」というものだ。しかしこの様な反論は、少なくとも直ちには認められない。それこそヒットラーやスターリンの様な、より明確に悪と見なされる人物を例にとってもいいが、それらが何かしらの役回りとして(演出上)採用された場合は、それにより何が表現されているかを理解しないことには、非難のしようもないからだ。本来役柄というものは、それだけを取り出して評価するのは不可能である。個々の役を含んだ舞台全体の文脈を踏まえて、初めて一つ一つの役の意味が分かるからだ。よって、あのMVに根源的な不謹慎さを感じるような人こそ、曲(やMV)のテーマを先ずは探らなければならない。よって次は、そこを(可能な範囲で)探りつつ、MVの演出も明らかにしていこう。

②「コロンブス」MVのテーマは何だったのか

本来MVは、元の曲のための映像作品になる。よって、「コロンブス」のテーマを探るには、歌詞を抜きには出来ないだろう。そこで「コロンブス」の以下の歌詞に注目してもらいたい。

いつか僕が眠りにつく日の様な
不安だけど確かなゴールが
意外と好きな日常が
渇いたココロに注がれる様な
ちょっとした奇跡にクローズアップ
意味はないけど
まだまだまだ気づけていない
愛を飲み干したい 今日も

「いつか僕が眠りにつく日」というのは、曲の終わりの方に「くたばるまで」という言い方があることからも、永眠を示唆していることが伺える。となると亡くなるまでの日常にある「渇いたココロに注がれる様なちょっとした奇跡」とは何なのか。また、何故それは「意味はない」し「まだまだまだ気づけていない」とも言われるのか。これらの謎がどうMVに絡んでいるのか掘り下げてみよう。

さて、先ほどMVの映像では「啓蒙なのにサルたちの生活スタイルは何一つ変わっていない」と書いたが、コロンブス(もどき)が訪問することで、サルたちが分かりやすく変化している点が一つある。それは、音楽に触れることで、サルたちの(リズムの)ノリがよくなっている点だ。しかし「それが奇跡なんだ!」と言っても、「で?」と聞き返されるのがオチだろう。(日常に大きな変化がないまま)音楽に体が反応するようになったからと言って、それが何だというのだろう。そんなものに「意味はない」。しかし一方で、体がリズムにのったということは、日常的なものの見方自体が変わったと言えるほどの変化が生じたとも言える。日常の空間に音による高揚感が芽生えたのだから。そんな風に世界が豊かになった点では、間違いなく「渇いたココロに注がれる様なちょっとした奇跡」が起きたことになるだろう。また、一度こうしたことが起きると、これからも日常の見方が変わるような「まだまだまだ気づけていない」高揚感、奇跡が(どの様な日常であっても)予感され続ける。では、こうした奇跡とコロンブス(もどき)の格好はどう繋がるのか。それを考察しつつ、この曲のテーマを見極めていこう。

先ほども書いたが、コロンブス(もどき)一行に扮するのは、Mrs. GREEN APPLEのメンバーたちだ。また、コロンブス(もどき)一行が奇跡の伝導者ということになる訳だが、先ほども述べた通り、この奇跡は日常的なものの見方自体が変わるほどの変化であると同時に、日常に意味を与えるほどのものではない。一方過去実在したコロンブスは、どうあれ様々な人々の日常に意味を与えてしまったことだろう。さて、コロンブス(もどき)とコロンブスの差はどこにあるのか。ここで「コロンブス」にある二か所の歌詞を見比べてもらいたい。

偉大な大発明も
見つけた細胞も
海原に流れる
炭酸の創造

文明の進化も
歴代の大逆転も
地底の果てで聞こえる
コロンブスの高揚

これらの歌詞は、どちらも歴史的な(大きな)出来事が表現されている。しかし下の歌詞ではそれを「コロンブスの高揚」とまで力強い言い方で表現しているのに対し、上の歌詞では「炭酸の創造」とまとめている。これらの対比から推察される様に、この曲では、日常に大きな意味を与える出来事(や人物)も、一方では泡沫の様な儚さとして、虚しく捉えられている。こうしたギャップから、コロンブスとコロンブス(もどき)を見比べてみると、何故MVでコロンブスの格好をしたのか(と曲のテーマ)が見えてくる。

言わば、コロンブスとコロンブス(もどき)は、互いに反転していると考えられる。過去実在したコロンブス(やコロンブスがなしたこと)は、歴史の泡沫として儚くはじけながら、人々の日常に劇的な意味を与えてしまった。一方コロンブス(もどき)は、人々(ないしサルたち)の日常に何の意味も与えていない。しかし、人々(ないしサルたち)の日常的なものの見方自体を大きく変化させてしまった(「ちょっとした奇跡」を起こした)訳だ。コロンブス(もどき)は、ガワだけ(わざとらしく)コロンブスであることで、そのことを視覚的に明らかにした訳だ。また、こうした対比によってサルたちの意味も大きく変わる。過去実在したコロンブスによって、先住民達は(さながらサルのごとく)侵略者側から蔑視されただろうが、そこから反転したコロンブス(もどき)が遭遇したのは、寧ろそうした犠牲の上で飽食したサルたち(つまり侵略者側)である。以上の話を基に、この曲のテーマを探ると、それは何になるか。

本論の検討に即して述べるなら、「コロンブス」のテーマは、「日常の見方を変える奇跡、及びその儚さ」となるだろう。今日、音楽が人々を救えると信じられる人は、おそらくそう多くはないだろう。音楽が提供されようと、何かしら不幸な人の原因が取り除かれる様な意味は何ら持たない。しかし一方で、音楽にノルからこそ、日常の見方自体が変化することは、誰にだって、どの様な日常にだって生じる。「コロンブス」では、「ちょっとした奇跡」が「ちょっとした美学」に、また「意味はないけど」が「意味しかないけど」に言い換えられている個所がある。日常に何の意味もない奇跡にあえて目を向ける「美学」によって「意味しかない」見方そのものが新たに発見される訳だ。こうしたテーマと、それによるコロンブスとサルの(反転)演出を踏まえて初めて、「コロンブス」MVへの言及が(賛否どちらであれ)有意義になる。

③Mrs. GREEN APPLEのMV「コロンブス」炎上は何がひどかったのか

最後に、私が何故「コロンブス」非公開(に至る炎上の経緯)が一等ひどいものであったと判断し、このnoteを書いたのかに触れておこう。誤解してほしくないのだが、私は「コロンブス」MVの演出に不謹慎さを感じる人がいたことは、別に問題ないと思っている(し、私も単に「コロンブス」MVを擁護したい訳でもない)。ただし、いくらMVに歴史上の題材があるからといって、史実(と題材のチョイス)だけから不謹慎な内容であると見なされ、それが炎上による「コロンブス」MVの非公開に繋がったことは、全くもってひどいことだと判断せざるを得ない。(MVが歴史を題材にしてるので)史実も踏まえて評価することは構わない。しかしMVが作品である以上、そこで演出されているテーマを抜きにしたまま、題材だけを以て作品を非難できる道理がないのは自明であろう。それが許されてしまっては、およそ(わざわざ新たに何かを表現しようとする)作品が作品として尊重されることがなくなってしまう。本当に「コロンブス」MVが不謹慎な作品であったのならば、史実のみならず作品のテーマまで考察された上でも、非難は成立したはずだ。たとえ非難であれ、作品を評価する以上は絶対に省略してはならない手続きがあるということが、一人でも多くの読者に伝わってもらえれば幸いである。ところで、この文章を書き終えた段階で既に時刻は早朝4時54分をまわっている(とか書いていたら55分になった)。今となっては、犠牲になった私の4時間強の睡眠時間が報われてくれるのを祈るばかりである。

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