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探究

こんにちは。

今日は、2020年5月3日。

憲法記念日。


 Instagramを見てると、コロナについて誰ひとりとしてグチや不安を募らせることなく、えてして明るい。心もほぐれる。それも束の間、ニュースを見ると目玉がズーンと喉まで下がるようである。

 喉まで下がった目玉は、数ヶ月先に我が身にふりかかる最悪の事態を投影する。

 楽観的でいたいが、悲観的さという心の文鎮ははずしてはいけないと精神が警告してくる。楽観と悲観の間でモンテーニュが好む中庸の場にとどまるとする。

 悲観の軍配が上がりだしたなら…

 なぜ苦痛が、それほど耐えがたいかといえば、われわれが、主たる満足を精神のうちに見いだすというこに慣れていないからであり、精神こそ、人間存在の唯一にして、至高の主人でありながら、それを十分に信頼していないからだ。

(エセー/白水社 『幸福や不幸の味わいは、大部分、われわれの考え方しだいであること』 2巻40章 P181)

 モンテーニュは、感覚(サンス)について重きを置いている。しかし今の感覚はTVの電波による視覚と聴覚ではないか、それでは精神も痩せてしまう。

 したがって、精神について学び、探求し、それが内包している、全能の力を目覚めさせることが必要なのだ。 精神の傾きや選択に対抗できるだけの力を有する、理屈や、指図や、強制などありはしない。 精神が自由にできる何千という視点のうちから、われわれの安らぎや安全にうってつけのひとつを、精神に与えてやるがいい。

(エセー/白水社 『幸福や不幸の味わいは、大部分、われわれの考え方しだいであること』 2巻40章 P181)

 前々回に記載させていただいた、「ふりかざした拳が空をきらぬように、目的を与えてやる」にも等しい「精神へのうってつけのひとつ」を与えてやることにした。明確な足跡を。

 本来ならば、今日は旅行に行く前夜でウキウキしていた筈であった。ウキウキするのは楽しく幸せである。真逆のこの状況を幸いにも不幸とは思わず、むしろ平静でいるのは何故か。それは、いかにこの深刻な状況を乗り越えるべきかと脳がフル稼働で活動しているから一種の快楽すら生まれている節がある。

 憂鬱のふところには、ほんの少しばかりの心地よい美味・風味があって、それがわれわれに笑いかけ、まんざらでもない気分にさせる。

(エセー/白水社 『われわれはなにも純粋には味わわない』 5巻20章 P148)

 この度のコロナ禍については、今後どう展開していくかは神のみぞ知るところだろう。自分には及びつかない規模のニュースから、自分に直接関わる小さなニュースの間で精神は揺さぶられる。精神論では解決できないにしても、各々が抱えている問題と向き合うには、精神的な面でも世間と距離感をもって、日々それぞれの対応が求められる。

 深いよろこびには、楽しさよりも深刻さがたくさんひそんでいる。最高にして、充実した満足感とは、うきうきしたものより、むしろ落ち着きはらったものなのである。

(エセー/白水社 『われわれはなにも純粋には味わわない』 5巻20章 P147)

 表面的な楽しさを滲ませている水面下では、たくさんの深刻さが渦巻く。これを満足感と呼ぶに値するにはパワーが要る。

 緩やかであったり急であったり流れが変わろうとも呑み込まれないように、精神を探究し鍛えていきたい。

 

 

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