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noteを始めた本当の理由−過去の自分と今の自分。

僕がnoteを始めた理由。

それは前回も言わさせていただいたように純粋に文章を書くのを上手くなりたい。という未来的な目標もありますが、自分の認知度を上げたい。自分を知ってほしい。

「おれはここで頑張ってるぞ」と、

どうしても下部リーグにいるとなかなか見てもらえないし、大半の選手は日本で「プロサッカー選手」になれなかった選手だと思います。残念ながら僕もそうです。悔しい想いをして腹をくくってきた選手、自分の成長の為に海外に飛び出した選手色々いると思いますが、ほんとに単純に沢山の方々に自分の存在を知ってほしいと強く思ったので、noteを始めました。
また前回にも紹介しましたが、今から海外に挑戦する選手に向けて少しでも自分の経験を伝えれたらなとも思います。















そして僕は将来的に絶対にJ1.J2で活躍したいと強く思う。(今はブンデスリーガでのプレーを目標にしている)今も暇な時よくそこで活躍している自分を頭の中で描く、高校の時からしている。それはとても楽しい。だって変幻自在に操れるから、毎回無双してる。それが僕のひとつの趣味でもある。
だが、大学2年生のある試合をきっかけに、それは頑張ったら現実するかもしれないと感じれるようになった。

それは松本山雅FCとの練習試合。
もうとにかく無双した。誰も僕を一切止めれなかった。点も決めてアシストもした。もちろん相手はサテライトなのであまりやる気がなかった。なぜやる気がないかは知らないが…
そしてそこでスカウトの方に目をつけてもらった。このまま成長すれば大学3年で特別指定にするかもしれないと、そう大学のキーパーコーチに言われた。
だけど最後のプレーが心残りだった。コーナーキックのカウンターからパスをもらいドリブルで相手を交わし加速…キーパーと一対一になる直前、センターバックのカバーの選手(酒井隆介選手)に吹き飛ばされた。その時感じた。これがプロかと。僕はあの時なぜか超悔しかった。帰って筋トレをした。それから2カ月ほど経過してインカレの筑波戦。相手と接触した。その接触が原因で半年間の怪我をした。

そこで自分は過ちを犯した…

もちろんぶっ飛ばされた悔しさが消えることがなかったからひたすらベンチプレスをした。下半身を怪我したから上半身しかできない状態だった余計。だから上半身をウホウホ追い込んだ。終わったら必ずプロテインを飲んだ。
そしてゴリゴリマッチョの身体を作ってしまった。それ以降今まであったスピード、キレ、緩急、の使い分けが出来なくなり一向に調子は上がらなくなった。身体を大きくしたことにより細かい怪我も増えた。また山雅のスカウトの方が試合を観に来てくれた時はいつも怪我をしていた。(4回中4回)そしてゆわれた。「そうやってチャンスは無くなるんだぞ!お前はスピードとキレを絶対に戻せよ」と。キレがなくなった事は既にバレていた。こう指摘してもらったが、期待に応えるパフォーマンスが出来なかったので結局なにもないまま無くなってしまった。
そして、大学4年になると監督が変わった。最初に1人ずつ面談する機会があった。そして監督からこうゆわれた。今年からはお前のチームじゃないから!
前の監督は僕がどんなに調子が悪くても試合に出させてくれた。大切に育ててくれた。自分の良いプレーを伸ばしてくれた。しかし監督が変わった途端、そう言われた。最初は具体的にどう言う意味か分からなかった。シーズンが始まると予定されていたように物凄いカミナリを落とされた。FWをさせられ守備のプレスは全力で追えと言われた。その基準はフィルミーノ以上。というか全部100%のスプリント。試合が終わると毎回のように吐いた。その後もずっとそのプレスは言われ続けた。だから攻撃に一つも力は残ってなかった。そしてこれ以上ないくらいにもボロカスに言われた。インアウトもめっちゃした。誰もがみて分かるように干された。でもそれを機に率先して試合後に掃除をするようになった。チームのことをしっかり考えることになった。出れない選手の気持ちがわかった。めちゃくちゃに鼻をへし折られた。
でも今だから思える。監督は僕を本気でプロサッカー選手にさせたかったと。プロに入ってからでは遅い、サッカー選手に必要なものを教えてくれた。どちらの監督もとても感謝してます。そしてその新たなnewプレースタイルを築きあげた僕は、天皇杯でジュビロ磐田と戦った。試合結果は2-2(0-1)延長の末敗れた。悔しかった。試合が終わると色んなサポーターの方々から写真を求められた。すごく上手くて「「すごく走るね」」と言われた。少し成果がでた気がした。手応えがあった。中村俊輔さんから1番良かったと言われた。それからすぐまた怪我をした。そして病院の先生に全国大会は確実に間に合わないと言われた。でも諦めなかった。そしたら奇跡的に間に合った。全国ベスト4まで行った。大会が終わるとJ3の長野パルセイロさんからオファーをいただいた。とても魅力的なクラブなのでとても悩んだ。その後愛媛FCの練習参加3日間行き、1日目の練習試合でハットトリックした。2日目の15分の紅白戦で2点決めた。3日目軽い練習をして終わった。手応えは完璧だった。なんなら愛媛の選手からはメッシメッシとゆわれた。来年も宜しくなとも言われた。なのでパルセイロさんのオファーは断させていただいた。J3の他クラブの練習会も全て断った。そして愛媛FCの監督、コーチ、キーパーコーチからは🆗サインが出た。しかし強化スカウトの方を完全に納得させることができなかった。そして2.3ヶ月待った後、チームの選手が多すぎるという理由で断られた。
そこで愛媛FCのスカウトの方からの勧めでドイツ4部に行き5部でプレーし今の僕にたどり着きました。

4部では怪我と監督の交代により戦力外となってしまった。
その後3ヶ月間一人で自主練という今考えたら苦しい生活をしてました。
日本でチームを探そうか本気で悩みましたが、このまま日本に帰る顔がない‼︎と強く思ったのでドイツ5部でプレーすることを決断した。
3連敗の勝ち点最下位のチームに行き、4試合目から出場するとそこから8連勝した。クラブ記録を大きく更新し、歴史をつくることができた。
またチームの全18ゴールの内、14ゴールが自分からの起点だった。やっとサッカーしてるなと、とても充実した3ヶ月だった。

そして先月、愛媛FCからまた興味を持ってもらえる事ができた。試合ビデオを送ってと言われた。だからリーグ戦で、3アシストしたビデオを送った。
そしてこう言われた。周りのレベルが低いからこっちに来た時にどれくらいできるかわからないからと。。いや、やれるわ
反射的にこう思った。でも、それが今の自分の実力であり評価。このレベル中でとんでもない結果が出ているわけじゃないし、かと言ってメッシのようなプレーができたわけでもない。だから仕方ない。
ただ僕が出来ることはドイツの地で爆発的な結果を残すこと。成長すること。そして僕はそのクラブより絶対もっと良いクラブに行ったる。って強く思えた🔥

ここ数年で僕は色んなことを経験できた。させてもらった。そして色んなものを吸収することができた。そして今の自分がいる。進化し続けなければいけない。
今は自分の長所を伸ばすべくスピード、キレ、瞬発力をあげるメニューを、陸上部の先生から聞いてトレーニングしている。日々成長することが1番大切。だからやり続ける。そしていつかあのような陽の目を浴びれる場所で活躍できるように、皆さんにはまだ一つもいい報告が出来てませんが、良い報告ができる日がくるまでひたすらに頑張ります。

またこんな僕ですが応援してくれたら嬉しいです😊




読んでいただきありがとうございました。


Tschüss 😊 藤島樹騎也