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死への憧憬を手放した。死体から始める人生だった。

死にたいとあまり思わなくなった。これは自分にとってとても大きなことなので、そのことについてぼんやり気持ちを巡らせようと思う。ながい独り言をここに記していく。

比較のために、死にたいと疑わなかった時期の記事も貼っておく。3年半ほど前になる。



いちばん死にたかったのは10歳の時だった。家にも学校にも居場所がない心地がしていたし、実際に居場所はなかった。家は荒れていたし、学校では先生からもクラスメイトからもいじめられていた。隣のクラスにたった1人いた友人と、放課後話を聞いて手紙まで交換してくれた音楽の先生がいなかったら、もうとっくにこの世にはいなかったと思う。今も昔も、周りの人間が命を繋いでくれている。

当時の死への衝動、そこから持ってきたその憧憬をいつの間にか手放したようだ。死にたいだなんてほとんど思わなくなった。この世にいることに納得できるようになった。この地に足をつけるのに、随分と時間がかかってしまったけど、ここに降り立つことができてよかった。はじめて生きることの心地良さを覚えている。

さて、10歳の時、本当に自ら命を断とうとしていた時期のこと。一番の相談相手が当時の音楽の先生だった。私は彼女のラインをなぜか知っている。いつ教えてもらったのか、アドレス帳から勝手に登録されたのか記憶はない。連絡先を見ながら元旦の挨拶をしている時に、彼女の連絡先に気がついた。試しに、あけましておめでとうの挨拶を送ってみたら返事が来た。私のことを覚えていてくれたようで、小学生の頃の気持ちに戻る心地がした。20年近く経った今 "当時本当に死のうとしていて、でもあなたがいたから踏みとどまることができた" ということを伝えた。すると先生は「そこまで深刻だったなんて知らなかった。」と言った。当時の私は死にたいとは一言も、誰にも話していなかったみたいだ。全て話していたような気がしたが、気丈に振る舞う明るい子どものふりをして生きていたことを思い出した。自分に素直でいることを諦めた時間が長くて、ほんとうに危うかったなと思う。
どこにも居場所がない気がして、やがてそれが当たり前になり、心の膿が心そのものだと勘違いし続ける時間、ずっとずっといなくなってしまいたいと願ってきた。呼吸するより先にいなくなってしまいたかった時間が人生の大半の時間だった。心は何度か、たぶんとっくに死んでしまったけど、奇跡的に回復したようだ。今思えば命を絶つのは割と容易だった気がするけれど、友人などから「生きているだけでいい」と言われ続け、自分にも言い聞かせ、生き延びた。死は救済にならないんじゃないかと疑っていたりもした。今の1秒生きるのに絶望していた人間だったが、生きるのが割と平気になった。自分にとっては奇跡のような出来事だ。

最初に "周りの人が命を繋いでくれている" と記したことは過言ではない。大人になって、環境を作り、場所や人を選べる人生になってよかったと思う。友人の多さを羨まれることがあるが、これは私が死ぬ気で獲得してきたことだ。死ぬ気で獲得しようとした結果、その力の大きさは適切なものではなく、本当のことを言うと幼い頃から周りの人に馴染むことなく浮き続けていた。
家に居場所がないとずっと感じていたために、外に居場所を作ろうとし続けてきた結果が今である。恥ずかしい黒歴史でありながら、今も変わらないのだけど、幼稚園生の頃から周りにいる人みんなにいきなり自己紹介をすることをしていたらしい。知ってもらうほど、自分の居場所が増えると信じて疑わなかった。知ってもらわないと、どこにもいられない気がしていた。いきなり間髪入れずに人に話しかける上に、着眼点が変な変わり者だったからいじめに遭うのは日常茶飯事だった。自宅よりもいじめられている学校の方が居心地が良いという、地獄の日常を送っていた。休みなく通い続けたため三学期くらいになるとみんなに馴染む。一学期にまたいじめられる。その繰り返しだった。それでもそのやり方しかわからなかった。
高校生くらいになるともっと心はむき出しになっていく。寂しくて、知って欲しくて、いきなり重たい話をするような人間だった。今でこそ良くないと思うけど、それで魂の殴り合いができるような友人に恵まれたりもした。自分がむき出しになることで相手と自分に与えられる加虐を楽しんでいたような気もする。今は写真があることで、自分と相手の間にカメラを置くことが許されるようになり、この加虐性にもワンクッション挟めるようになってよかった。心を通した過剰なコミュニケーションは、咽び泣く寂しさからきていたんだなと今では思う。体を通したものを求めていたら大変なことになっていただろうなとも、よく思う。
そして人間関係のやり方や本質は今もあまり変わっていない。居場所がない焦燥は痛々しく見ていられない。見ていられない人生だった気がする。それでもこんなあり方で人を繋ぎ、人に繋がれてきた。過剰なくらいでないと、ここにいることができなかった。

長いこと心が痩せ細っていたためか、自分の性別や体の存在そのものに違和感があった。存在してることが嫌だったし、もっとガリガリの体や、関節がありえない方に曲がっている体や、プラスチックの肌に憧れた。
自分の肉体に納得できないまま過ごすと、やがて体の存在を無視するようになり、息切れしたまま人生を走っていた。ほとんど心の力だけで体を走らせる感じだった。
体を無視していたのでよく怪我をする。そして体に痣ができると歓喜し、このまま体が終わればいいと感じる日々を送る。怪我をすることは、体を終わらせることの一歩のように感じていた。それでもなぜか自傷行為はしたことがない。ただ、自分の美学に反するからだろうと思う。
体を破滅させたい気持ちは緩やかに、そして確実に加速していった。やがてお酒と栄養ドリンクの力だけで大学に通っていたりもしたが、時期に破綻し体が動かなくなった。おおよそ回復したが今もその時の反動で体が動かなくなる時がある。
本当に死にたい時期を、写真とその周りの人間関係が本当に楽しいという気持ちだけで生き延びた。心の鏡になってくれる人はそりゃあたくさんいたが、身体の鏡になってくれる人も現れて「このままだと栄養失調で死にます」と言ってきた。嘘のようで本当のことを話す声色だった。私は死に焦がれているものの、死因が栄養失調なのは美学に反するので抗うことにした。
食事をする時間を人生の中に設けるようになり(それまで食事の時間を作っていなかった)長年無視された身体は少しずつ力を帯びるようになった。力を帯びた身体は、心の休ませ方を教えてくれた。身体も、心も、休ませると言うことを知らなかった。そしていい人間関係をもたらすようになり、やがて心身に生きた肉がついてきた。すると、ずっと付き纏ってきた己の存在への違和感がいつの間にかなくなっていた。

生きることに納得したと言っていい。こんなことは初めてだ。自分の気持ち悪さも、どうしようもなさも、うまく使っていこうと納得できるようになった。質量のある身体に違和感を覚えなくなった。やっとまともな自意識があり、死体として長いこと生きていたなあと思う。

死に焦がれるのは死ぬ時だけでいいなと今は思う。
今いる場所に納得していられるのは本当に気持ちいいことだね。生きることや心地よさをやっと知った。知れてよかった。
とはいえほとんど時間死体だったために、この納得感はまだまだ不安定なものだと思う。2年後くらいにやっとスタートさせられるかな。
死体から始める人生を終えられる兆しが立ってきた。

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