くれはす

 乾いた空から真直ぐに落ちてくる日の光が、濡れ鼠色のブロック塀を、くっきりした影に塗りわけている。清爽な冷ややかさを含んだ風が、アスファルトの道々を隅々まで吹きぬけ、女性の重くじっとりと垂れた髪を揺らす。

 道端を足早に歩いていた女性は、背中の大部分を覆い隠す黒髪を荒くかきあげた。前方の道にぼんやりと焦点を合わせている、太い縁眼鏡の奥の瞳は、目尻に集まった細かい皺の中に赤く潤んで佇んでいる。

 女性の名は、葛原尚子という。女性は、三十二歳である。女性は、踝まである煮しめたような色のスカートを蹴りながら、家路についている。夜勤を終えての、ようようの帰宅だ。

 家々を囲むブロック塀の上から、通行人を絡めとろうとするかのように手を伸ばす緑の下をくぐりぬけ、葛原は自宅の玄関へと通じる石段を登った。自宅は赤いスレート葺きの二階建だ。この家の二十年来の住人であった葛原の母は、昨年死んだ。もう一人の住人である父は、平日の昼間は山上の福祉施設に通所している。そして数年前に出戻ってきた葛原は、手提げの底から干支の根付つきの鍵を取り出して、緩慢な動作で回した。扉は、開かなかった。もう一度回す。開いた。

 父が鍵をかけ忘れて行ったのかしらん。そう思いつつ、葛原は無言で玄関に入る。後ろ手に鍵を閉め、クリーム色のパンプスを向きを整えることなく脱ぎ散らかし、廊下をひたひたと進む。短い廊下の先の、居間へと通じる、目線の高さに擦りガラスのついた戸はしっかりと閉められていた。普段は開け放しておくのにと、葛原は再び不審を感じる。少し、父は惚けてきたのだろうか。そして、扉を開く。

 居間の真ん中に、白目を向いた女がぶっ倒れていた。

「ひぁっ」

 首を締められたような甲高い声をあげ、葛原は後ずさった。一歩、二歩。倒れた女の顔が、居間の椅子に隠れて見えなくなる。三歩、四歩。葛原が廊下に後退するにつれ、視界に占める女の姿の面積が徐々に減少していく。五歩、六歩。すでに完全に廊下に舞いもどった葛原の目には、僅かに女の白いブラウスの裾のみが映った。七歩、八歩。

 女の姿が完全に視界から消えた瞬間、葛原はその場に座りこんだ。鼓動は身体から飛び出しそうに早鐘を打つ。耳元でがなりたてられているような異音が、頭の奥から広がっていく。

 倒れていた女は、見知らぬ人間ではない。今、奥歯の根をかちかちと鳴らしている葛原が、あの、顎が外れたように歪んだ顔の造りを一瞬で正しく把握できていたとすれば、女は、葛原の従姉妹にあたる人物だった。それが何故、平日の真昼間に我が家のど真ん中でひっくり返っているのかを、葛原は推測できなかった。ただ、家中を揺らすように頭に響く轟音を、放心状態で聞き流している。

 死んでいるのか。ただ、気を失っているだけなのか。しかしあの無防備で乱雑な倒れ方は、まるで誰かに突然背後から殴られでもしたみたいじゃないか。そう思いついた瞬間、葛原は振り向く。振り向いて、玄関を見やる。靴脱ぎ場にあるのは、脱いだままの形のクリーム色のパンプス、家族共用の深緑色の健康サンダル、父の余所行きの黒い革靴。それだけだ。それだけで、あの、倒れた女の物は無い。

 葛原ははじかれたように、首の向きを戻す。戻して、居間の方面を再び凝視する。居間で倒れていた女は、靴を履いていただろうか。記憶に無い。しかし、土足であがりこんだとしたら。ふと、恐怖が葛原の耳元で囁いた。他にも、誰か家の中にいるとしたら?

 家全体が揺れるような目眩を感じ、葛原は床に両手をついた。この耳元の轟音は何だろうといぶかしみつつ、葛原の混乱した神経は、混乱した道筋を通って、無理矢理一つの結論を導き出した。つまり、靴脱ぎ場を見ただけでは、現在何人の人間がこの築二十年以上の鉄筋コンクリート二階建てに無断侵入しているかは推測できない。そして、自宅内にいるはずでない人間が一人いるなら、二人いてもおかしくはない!

 葛原は、這うようにして後ずさった。一歩、二歩。目は居間の方へ向けたまま。誰か、突然居間からやってきても視認できるように。三歩、四歩。つま先が、脱ぎ散らかしたパンプスの側面に触れた。足の感覚だけで引きよせ、つっかける。

 五歩、六歩。葛原は這いながら靴脱ぎ場へ後ろ向きで降り、顔の方向を変えぬままノブを手で探った。感覚だけで開錠し、扉を開く。七歩、八歩。そろりそろりと、家を出る。

 九歩。葛原は玄関を脱出し、扉を閉めた。十歩。第一発見者、という言葉が頭をよぎる。十一歩。まだ目線を自宅の扉から逸らさず、葛原は石段を降りた。十二歩。あの女がまだ死んでるとは限らない、早く救急車でも呼んだ方が良いんじゃないのか。家から逃れたという安心が、そんな声を投げかけて、葛原は唾を飲みこんだ。十三歩。

 ぱちゃん。

 今度は全身で息を吸いこむような音をたてて、葛原は立ち止まった。首をねじり、足元をおそるおそる見やる。後ろ向きで降りていった石段の二段目に、パンプスはその先をつきかけている。その左足の、足首までが、水に浸っているのだ。

 水。葛原は左足をおそるおそる持ち上げた。パンプスから、水はかたまりになって垂れ落ちる。石段が、水に浸かっている。

 水? 葛原は顔をあげる。自宅を取り巻く、見慣れた住宅街を見回す。

 周囲が、一面の水に沈んでいる。

 石段の下二段は完全に水に覆われて、覆う水面はちゃぷりちゃぷり波紋をたてている。アスファルトの道路も、植え込みも、電信柱も、等しく洪水後であるかのような景色に足元を浸している。下水道でも、壊れたのだろうか。先程までは、ほんの少し前までは、何事もなかったというのに?

 葛原は更に混乱し、逡巡した。背後。白目を剥いた女が倒れている忌まわしき自宅。目線の先。満遍なく水没した、屋外。

 ふと、背後で、自宅の中で、何かが動いた気がした。

 葛原は持ち上げていた左足を石段に降ろした。水はふくらはぎの辺りまで達して、長いスカートの裾を濡らす。液体は生温かった。水はにごって、石段についたはずの足は、暗い影に沈む。

 葛原は右足を最後の段に下ろした。スカートは水の上にだるく浮かぶ。騒ぐ水面の間に、黒い縁眼鏡の女の表情が一瞬覗いた。その顔を踏み抜くように、左足も下ろす。

 葛原は、水の中を進み始めた。ただただ、逃げたいとの一心で、進んだ。とにかく、あの家から遠ざかりたかった。その感情に比べれば、辺りが突然水没した事の怪異など、気にも止まらない。女の姿を見たときの、脳が締め付けられるような恐怖だけが、葛原の後頭部のあたりをゆらゆらさまよった。

 アスファルトを沈めた水は、あちらこちらで目に痛いくらいのきらきらと白い光を乗せている。葛原は水音を立てて歩いた。とろみのある細かい泡が産まれて、漂って、消えた。泡の波の中を進んで、進んで、何本も通りを横切った。少し、息が、落ち着いた。

 水をかきわける脛の表面を、藻の感触が滑りぬけていった。目線を落とすが、黒く薄っすらとした塊が一瞬見えるだけだ。正体見たさに少し屈んだものの、葛原は思わず顔を背けた。水面近くは、ひどい臭いだった。それは食物のにおいに近いようでいて、吐き気を催させた。

 この水が下水道の水ではなく、有毒物質でも混ざっていたら、と葛原は考えた。そういえば、先程から一人の人も見ないのだ。

 街の静寂に気づいた。試みに立ち止まってみる。葛原の立てていた水音は止み、波紋を広げ、彼女を中心に幾重もの輪を描き、青い屋根の家のブロック塀で止まった。既にたっぷりと水を含んだスカートが、水にあわせて蠢いた。その動きを、徐々に弱めて繰り返したあと、水は危うい安定を取り戻した。

 葛原は息をつき、周囲に目を向けた。今までは、あの家から逃げ出すことに精一杯で、この街の異常な光景を当然のように進んできたのだ。家々の塀からは、通行人を絡めととろうとするような緑が枝葉を伸ばしていた。ブロック塀はくっきりした影に塗り分けられていた。葛原は顔を上げた。乾いた、薄水色の空に、やわらかなかたまりの雲が揺蕩(たゆた)う。少し冷たさを含んだ空気が、葛原の重たい黒髪を揺らす。

 静かだった。緑と緑がこすれあう音と、どこかで時折雀が囀る他は、全く静かだった。平日の昼前だというのに、買い物にでかけようという主婦も、工事現場へ向かうトラックも、当ても無く散歩する初老の男性も見当たらなかった。四階建てマンションのベランダにかかる赤いタオルケットがひらひらと目についたものの、それを干す人間の姿はない。平日の昼間を包む、くぐもった子どもの泣き声もない。

 しかし、静寂の中から、何かが葛原の耳元に囁く。これらの家の中の住人は全て、白目を剥いてぶっ倒れているのではないか?

 葛原は再び足早に歩き始めた。ひょいと覗いた窓の奥に、倒れた主婦を発見したりしないように、水をかきわけるくたびれたスカートの先をじっと見つめて。

 スカートはゆやゆやと揺れた。水の思うがままに、翻った。最初は水面に浮いていたのが、徐々に水を含んで沈み、足元に絡みつくようになった。それがひどく歩き難い。

 周囲は代わり映えもしない、地方の街の光景だ。どこまで見渡しても、平坦な道にだるく住宅が連なり続けるだけ、三階以上の建物はない。

 足裏の感触が変わった。これまでの、水越しではあるものの硬いアスファルトの感触から、柔らかく沈む何かの上へ。同時に葛原は疲労を覚えた。徹夜明けで家の布団に倒れこむつもりが、突然の予定変更を余儀なくされた上、水の中をひたすら歩いてきたのだ。しゃがみこみたいような気分だった。

 葛原は家々の窓の奥を覗かないように警戒しつつも、周囲に目を転じた。すぐ脇に、アパートの入り口があることに気づいた。コーポ云々と書かれた銀のプレートに、足元で絶え間なく揺れる光の輪が映し出されている。白い三階建てアパートは、水の中からにょっきりと、錆だらけの非常階段を突き出していた。細めた目で観察したところ、各戸にはカーテンがかかっていた。ぶっ倒れた他人を見つける可能性はない。

 葛原は階段にじゃぶじゃぶと近づいた。鈍色に光る手すりをつかみ、足を水から引き上げた。久しぶりに身体を水の外へ出すと、泥水をたっぷりと吸ったスカートの重みは一段と増す。水が一息に、剥げた白いペンキの上に叩きつけられる。

 階段の踊り場まで這うように登って、葛原はへたりこんだ。手すりを片手で握り締め、その片腕に頭をもたせかけた。

 目を閉じた。

  *

 暗くなった。

 明るくなった。

  *

 葛原は目を開けた。明るく、乾いた空から真直ぐに落ちる日の光が、街中の緑を照らしていた。清爽な冷ややかさを含んだ風が、葛原の汗ばんだ髪を撫でた。そして、街は水没していた。この光景は夢ではなかったのだと、眠気眼に葛原は思った。

 しかし、変化はあった。鼻腔をつく揚げ物のにおい。水を激しく跳ね散らす音。どこか遠くで、複数人の話す声。

 街に人はいたんだ。葛原は安堵した。そして、考えた。あの女も、もう起き上がっているかもしれない。何事もなかったかのように、家を出て行っているかもしれない。それどころか、あれは徹夜明けの疲労が見せた幻影であったかもしれないじゃないか!

 葛原は階段を駆け下りた。足取り軽く、半乾きのスカートが足に張りつくのも気にせずに。錆だらけの鉄の上から、躊躇無く、水の中に足を沈める。

 しかし沈めて、葛原は気づいた。水嵩が増したようだ。水は腰のあたりまで達している。長いスカートは空気を含んで膨れ上がり、体の回りにうかぶ。スカートは、邪魔だった。邪魔だった。ので、これからは彼女はミニスカートをはいていることにする。彼女は水中を駆け出さんばかりに歩く。彼女は髪を金色に近いまであかるく染めた、十代後半の女性である。名は、葛原尚子と言う。

 腰までの下半身が水に沈んでしまうと、歩きにくさは一塩だった。足を上げ、体を前に押し出し、再び足先を地に着く。その活動が水の重みに邪魔されて、両腕を大きく振りはするものの、思うように進まない。悪臭も一段と増していた。水面は灰虹色に輝く油と、薄黒い濃密な液体と、黄色い泡で大きく模様を描いている。その水面を、腕で何度も叩き、かきわけないと、身体は均衡を崩してしまう。

 だが何より昨日と違うのは、葛原以外にもこの汚水の中を歩く人間がいることだった。まず、中年の女性を見た。女性は足元を水に沈めた一戸建てから黒いゴミ袋を手に出てきて、大儀そうに水を進み、ブロック塀の脇にそれを落とした。ゴミ袋は水面に浮かび、無軌道に流れていく。それを気にも留めず、女性は再び来た道を戻り、家へと戻って行った。女性がゴミ袋を落とした場所のブロック塀には、水面から微かに「二十三区ゴミ集積所」と書かれたプラスチック板が覗いていた。

 次に若い男性を見た。男性は背広姿だったが、もちろん下半身は水に浸り、上着の裾も濡れている。男は黒い書類鞄を頭の上に乗せ、守るようにして歩いていった。

 次に壮年の男性を見た。男性はくたびれたランニングシャツ姿で、水をじゃぶじゃぶと駆け抜けていく。何気なく男性の動きを見やっていた葛原は、すぐに目を逸らした。男性が下半身に何も纏っていないことに気づいたからだ。

 そんな何人かとすれちがいながら、葛原は家路を急いだ。誰とも言葉を交わすことはなかった。葛原は自分に向かってひたすら、言い聞かせていた。家に、帰らなきゃ。

 ブロック塀の上から、通行人を絡めとろうとするように手を伸ばす緑の下をくぐりぬけ、葛原は自宅の玄関へと通じる石段を登った。四段の石段を登りきると、葛原は水から脱する。この石段の上に立っている自宅は、全く浸水の被害を受けていないようだ。

 家の鍵を閉めずに出てきたことに気づいて、葛原は苦笑する。しかし、その笑みは自分への愛想笑いでしかなかった。半分固まった表情のまま、扉を開けた。オレンジ色のサンダルを脱がずに、廊下へ上がった。

 一歩、二歩。短い廊下の先には居間しかない。三歩、四歩。そういえば、父はどうしたろう。おそらく福祉施設で一晩を過ごしただろうと、葛原は今更ながら思う。五歩、六歩。

 ブラウスの裾が見えた。

 七歩、六歩。葛原は後退する。いや、あれはブラウスの裾ではないかもしれない、床に落ちた洗濯物の端っこかもしれない。五歩、四歩。しかし葛原は後退する。三歩、二歩。靴脱ぎ場に下りて、一息に家の外へ駆け出た。

 石段を荒く駆け下りる。水を大きく跳ね散らす。二つ先の通りまで走って、葛原は立ち止まった。手近な電信柱を掴んで、もたれかかる。てらてらと光る水面が、青空を映していた。葛原は濡れた手で頭を押さえ、息をついた。

 最初は停止していると思った水面は、良く見ると一定の方向へ流れているらしかった。右から、左へ。それに載った漂流物も、緩々と進路を揃えている。空き缶、木片、ビニール袋、提灯、鋼片、何かの書類、ひっくり返った傘の骨。

 行くあてはなかった。葛原は、足の向くまま、水の流れていく方向へ歩きはじめた。水流はひどく緩いとは言え、体全体に均一に迫る、ねっとりした水圧に逆らって歩くのは、骨が折れそうだったのだ。

 水のまにまに、葛原は歩く。道の両脇は、空へへし合うビルディング街だった。壁一面のガラス窓は、太陽の白光を照り返し、水面で跳ねて、目を刺した。十数階の

目の前を、赤いビニールの救命ボートが通過した。

ああ、救助隊が来たんだ。葛原はそう考え、ぼんやりと伸び上がってボートを覗いた。なるほど、沢山の物資が積まれている。

 しかしそれは、大勢の人間を救うための物資ではないようだ。小さな四角い箱ばかりが積まれ、上から撒いたらしい椿の花で覆われている。そして、ボートの中央には、一人の子どもが眠っている。

 ふと見ると、道端でボートを見送る女性が、静かに手を合わせて俯いていた。葛原は了解した。これは、葬送だった。死んだ子どもを、ビニールボートに乗せて送っているのだ。

 しかし、その理解も、目の前で始まった騒々にかき消された。ボートに、どんどんと人が群がってきていた。そして、椿の花に包まれた小箱をひょいひょいと取っていく。

「ねぇ、乾パンはないの」

 若い女の声がした。それに誰かが低く答えた。上着を腰に巻いた若い男が、腕組みをしながらボートに併走し、中をなめるように覗いている。群がる人の間から、皺だらけの赤黒い手が伸び、花を掃って小箱を取っては、無造作に戻している。

「うちの子にしたいようだねぇ。かわいい子なのに」

 品のある男性の声が言った。

 葛原は駅前で物乞いを見たときのように、自然な動作で目を背けた。再び川下へ歩く。

ふるふる震える水面は、奇妙に色味をのせていた。葛原は、空を見上げた。通りの頭上では、街灯をつないで、道を跨ぐように糸がかけられている。その糸に、色とりどりの逆三角形の小旗が吊るされていた。

 あか、あお、きいろ、みどり、しろ、みずいろ、きみどり、ももいろ。色が空に散っていた。散った色は汚水に映り、どぎつい油まみれになりながらやわらかく浮かぶ。

 てらてら光る油の虹が、葛原の周囲をざらざら回る。そうかと思えば真っ白な泡の塊が、すいっと近づいてきて葛原を追い越す。泥だらけで浮かぶ花びらは、先程の葬送のものだろうか。

 眠る前までは、薄暗くも透明感のあった水だったが、今は空の水色を、アクリル絵の具の様に均一に映していた。まるで、水の表面が膜張ったような部分すらあった。そこには短い毛先を落ち着きなくいじって歩く、金色に近い頭髪の女の姿も、時折覗いた。

「あれがあんたのパパとママだよ」 

 水面に見入っていた葛原は、突然の声に顔をあげた。声の主は、背中の曲がった老人だ。脇に同じ位の齢の老婆を連れ、葛原をにらんでいる。

 喜劇の役者の化粧のように紅潮した丸い頬の下、皺だらけの口をむぐむぐと動かし、老人は笑った。脇の老婆は表情を変えず、紺の袢纏をひっかけなおした。

「避難所は高台だよ。そっちへ行ったら沈んじめぇよ」

 老人はそう言って、葛原から顔を逸らし、緩慢に歩きはじめた。曲がった背筋の先の顎は、水面すれすれに進む。脇の老婆もそれに付き従う。

葛原は、射抜かれたように突っ立ったままだった。二人の袢纏の後姿が作る波紋を、あっけにとられたまま見送っていた。老人は、時折何か奇妙な語をつぶやいては、笑った。

「ぎゃっ」

 突然、老人が大きく腕を振りもがいた。頭より高い位置まで跳ねた水の中で、老人の身体が水の下からひっぱられるように沈む。

「ぎゃあ」

 と声を上げたのは老婆で、沈む老人に手を差し伸べようとしたが、その時には既に老人の姿は水の下へ消えていた。老婆は慌てふためいたように、老人の消えた場所へ歩み寄ろうとする。

「ばーちゃん、そっちへ行ったらあんたも落ちちまうよ!」

 今度は、葛原の背後から声がした。

 若い男が声をはりあげていた。

「駄目だよ、そっち行っちゃ!」

 男は叫びながらじゃぶじゃぶと水をかきわけてくる。老婆は凍りついたように、動きをとめた。しかしその手は大きく震え、口元はひたすら何かを呟いている。

 背後からやってきた男は、葛原の脇を通り過ぎ、老婆の腕を掴むと、老人の消えた場所から引き戻した。

「地面に、マンホールの穴が開いてる所があるんだよ。そこに足をすべらせちまったら、どうにもなんねぇ。諦めるしかない」

 棒のように突っ立っていた葛原の足が、老婆に負けないくらいかたかたと震えていた。葛原は震えて、後ずさった。後ずさりつつ、足を突く先の地面がちゃんとあるかを探って確かめた。水底は、アスファルトの粗い感触だった。

 若い男は、老婆を引き摺るようにどこかへ連れて行ってしまった。葛原が進もうとした方向と逆だから、避難所とやらに行くのだろうか。

 低音が横長く響いていた。葛原は再び空を見上げた。色とりどりの旗の向こうに、ヘリコプターが飛ぶ。

 後ずさりの結果、道端の塀に背中をもたせかけんばかりだった葛原は、意を決して向きを変えた。水流を踏ん張った足で受け止めた。その「避難所」に行こうと思った。行けば父の消息も分かるかもしれないと、これまで父のことなどほとんど考えていなかった頭で考えた。今までより、より慎重に、老人が消えた場所を大きく迂回して進む。

頭上の旗が終わると、大きな交差点へ出た。同じ道を戻った筈なのだが、見覚えがない。と行っても、あたり一面腰までの水に浸かっているために、見分けがつかないだけかもしれないが。

水がなければ、スクランブル交差点にでもなっていたのだろう。あらゆる向きにつけられた歩行者信号は沈黙している。十数階はあるようなビルや、シャッターの下ろされた量販店が、交差点を囲む。まるで、樹木に覆われた池のようでもあった。

 路上では様々な風体の人間が、一様に同じ方向へ向かっている。背中一杯のリュックを背負い、浮き輪に荷を乗せてひっぱっている者もいる。葛原は唯一の荷である手提げ鞄を、胸に抱いた。彼らの流れに、入りこもうと決心する。

 そんな葛原の前方三メートル程の水面から、小さな白い管のようなものが覗いていた。垂直に立って、あちらこちらへ動いている。葛原がいぶかしんでいるうちに、管は近づいてきた。

「ひゃっ!」

 突然足をひっぱられ、葛原は均衡を失い水に沈んだ。水のはねる音、そして水中のくぐもった泡音。汚物の臭いが口の中いっぱいに入り込み、どろどろとした感触を飲み込んだ。一面の濁った視界。頭のてっぺんまでを水に沈められ、葛原はもがく。

 ようやく地面を探し当て、葛原は立ち上がった。ひどく咳き込んだ。飲み込んだ何か、を吐いた。呼吸を落ち着けると、顔を手の平でぬぐって、足元を見た。

 水中から、白い管が覗いていた。シュノーケルの先端だった。

その脇、ぎりぎり可視範囲内にある暗い水の中から覗くのは、黒いゴーグルだ。

 葛原は恐怖に、ゴーグルの辺りを蹴りつけた。ミニスカートにしておいて良かった。葛原の足先は確実に何かに当たって、白い管が水に沈んだ。葛原は一目散に駆け出した。水の中を無我夢中でかいた。日光に透ける細い髪を伝い、汗ばむ葛原の顎から、汗とも水ともつかないものが滴る。

いつの間にか、大通りからは遠く離れていた。腰に手をあて、息を荒くつく。その瞬間再び吐き気を催して、葛原は身体を折った。水面では、ざらついたとろみと、何筋かの黄色い流れが回っている。その合間を、乾いた空の色が揺れる。

 吐瀉物と尿と水色とが入り混じった流れを、葛原は見ていた。時折、手を差し入れ、流れを掬った。とろみと汚れを掌の上でかき回して、戻した。そうしている内に、いつの間にか鞄を手放していたことに気づいた。

 水面に上半身が映った。ひどい有様だった。顔はもちろん、金に近い頭髪も、泥まみれだ。あまり見苦しいので、彼女は黒い髪であることにする。彼女は、肩までの髪を傾けながら水の中を覗いている。彼女は、派手さのない、二十代後半の女性である。彼女は、白いブラウスの裾を水に浸している。名は、葛原尚子という。

 自分がどこにいるのか、葛原には検討もつかなかった。尋ねる相手も見当たらない。電信柱の広告を見て、住所を特定しようとしたが、書いてあるのは見たこともない番地だ。

 水面に映る空の影が、乾いた薄水色から、徐々に暮色を帯びてきていた。気の早い街灯が葛原の真上で灯った。葛原は驚いて身をすくめた。街灯には電気が通っているのか。

 道は細く、ぽつりぽつりとある雑居ビルとだだっぴろい空間に挟まれている。水面に生えた看板からやっと、その空間が駐車場であったり工事現場であることが分かる。

葛原は、道に面した雑居ビルの階段を登った。這うように両手を段について登り、以前と同じように腰かけた。水から揚がった下半身は、ひどく重かった。素足には何箇所も赤く擦った傷がある。葛原は額を膝の上に乗せ、目を閉じた。あまりに、疲れていた。

  *

 暗くなった。

 明るくなった。

  *

 葛原は瞼を上げた。明るく、乾いた空から真直ぐに落ちる日の光が、街中の緑を照らしていた。帰らなきゃ、と葛原は呟いた。そうしてよろよろと立ち上がった。

 自分の口腔の臭いに堪え兼ねて、葛原は咳き込んだ。口をだらりと開けて、臭気を押しだすように息を吐いた。水が欲しい、と思ったものの、階下で騒ぐ水は頼りにならない。

 葛原は、眠っていたマンションの廊下から、階段に向けて歩き出した。ついでに各戸開いていないか確認したものの、どれも鍵がかかっている。人の気配もない。

 片端からインターホンを鳴らすのを諦めて、葛原は水に戻った。水はやはり生温い。怪我のある足の節々が、染みた。

 葛原は歩き出した。帰らなきゃ、とそれだけを頭の中で繰り返して、進んだ。背筋を丸め、目だけを前方に向けていると、水平線から人影が現れた。近づいてくる。そういえば、ここが何処かすら分からないのだと、葛原は気づいた。

「すいません」

 まだ水の先に霞んでいるような相手に、葛原は話しかけた。

 相手は、四回目のすいませんで、ようやく葛原が自分に話しかけていることに気づいたらしい。

「すいません、ここは、どこですか」

 相手は足を緩めて、葛原を頭の先から水の底の足先までじろじろと見た。若い男性だった。男性の黒髪の中の顔は、いくらか泥で汚れていた。服も、胸の辺りまで濡れている。随分歩いてきたのだろう。

「あー、ここなら、島崎町ですけど。南町の二丁目、ですねぇ」

「あの、藤岡通りの方へ行きたいんですけれど」

「それなら、あっちですね」

 男は、自身の歩いてきた方を指差した。特に葛原を厭う気色もない、淡々とした口振りだった。

「あの、あっちを、どうやっていくんでしょう」

「ええっと。真っ直ぐしばらく行くと、って言っても三十分位はかかると思いますけど、真っ直ぐ行くと、県道の通りに出ますから。そこまで行けばわかると思います」

「ありがとうございます」

 答えて歩き出そうとした葛原を気遣っているのか、男は話を止めない。

「いや、大変なことになっちゃいましたねぇ。でも、ここから行くなら、藤岡通りまで戻るより、新波小の避難所に行った方が近いですよ。あ、でも、避難所に行くんじゃないのか」

「あ、そうですね、家に帰りたいので……」

 葛原は力なく返す。

「家、ねぇ。とにかく、このクレハスが、治まってからの方がいいと思いますけどねぇ」

「くれはす?」

 葛原は、耳慣れない言葉を繰り返した。

「ええ、クレハス。あれ、もしかして、テレビとかラジオとか見てないんですか?」

「色々あって、ずっと歩き詰めだったから……」

 男は事情がわかったというように、うなづいて見せた。

「どうやらこれは、クレハスっていうものらしいんですよ」

「これ?」

「ええ、だから、これ。これを、全部」

 男は顎で辺りを指して見せた。

 葛原の脳裏に、倒れた女が浮かんだ。

「くれはす、ですか」

「クレハス、ですね」

 男は発音をくっきり繰り返すと、じゃあ、と軽く会釈して歩いていった。あえて避難所と逆の方向に行くと言うことは、彼も何らかの私用があるのだろう。

「くれはす」

 葛原は繰り返した。これは、くれはす、なのか。葛原は、居間に倒れた女を思った。水に浸った量販店のシャッターを思った。赤いボートを思った。空いっぱいにはためく、色とりどりの旗を思った。

 薄明るい水色に、ひきのばされたような白雲が浮かぶ。汚水は、光の網を揺らす。景色は、いつの間にやら静かだった。

 誰がこんな間の抜けた音を作ったのだろう。そう考えながら、葛原は指された方向へ歩いた。くれはす、と発音して、まず淡い色のクレヨンのことを考えた。次に、南極の深い厚い氷に入った裂け目のことを考えた。結局、考えても音の由来など分からない、という結論に落ち着いた。

 ”三十分くらいは歩く”と言われたものの、気づくと葛原には、時間を知る手段が全くない。進んでいるようでもあり、戻っているようでもあった。同じ通りを、何度も歩いている気がした。ついさっきまで、徹夜明けで、早く眠りたいとだけ考えていた気がした。マンホールに落ちる老人を見てから、何年も経っている気がした。起きてから三時間以上は、歩きづめの気もした。静かだった。

 ばちゃり。

 葛原の目前まで、水が撥ねてきた。思わず目を細めつつ、葛原は警戒を怠らなかった。また、シュノーケルの先が周囲をうろついてないか、咄嗟に確認する。

 どぼん。

 新たな飛沫は右手から、葛原に飛び掛ってきた。

 右手には、低いブロック塀があった。水面から浮かぶのはわずか三十センチメートル程の部分だ。そのブロック塀の上に、中学生が座っていた。

 中学生というのは第一印象であって、白いブラウスと、紺色の短いスカートから葛原が想像したにすぎない。制服に包まれているのは、丸顔の、吊り目の、女の子どもだった。

 「中学生」は足先を水に浸していたが、時々思いついたように水面を蹴った。水が撥ねた。葛原が立ち止まったまま動かないのを見ると、今度はバタ足を始めた。水は更に、撥ねた。葛原の視界は、灰色の飛沫に覆われた。その奥に、子どもが足を蹴る映像がコマ送りのように映った。

 子どもの白い靴下が、真っ赤に染まっていることに葛原は気づいた。そして、ブラウスの胸から下も。

「避難所に行きなさいよ!」

 子どもが叫んだ。叫んで、一段と強く、水面を裸足の裏で叩いた。

 ばちゃん。

 葛原は、黒い縁眼鏡のガラスを親指の腹で拭いた。歩き出した。

 どぼん。

 家に帰らなくちゃ。葛原は頭の中ではっきりと発音した。後方の水音が、徐々に遠ざかっていく。そろそろ三十分くらい歩いたろうかと、葛原は思った。

 何度目かの、大きい通りに出ていた。シャッターを下ろした銀行と、原色の看板を飾るビルが並んでいた。その道に、見覚えはない。だが、三十分くらい歩いたはずだ、と葛原は思った。

 ので、ここを県道と言うことにしよう。葛原の記憶によれば、県道からはガソリンスタンドの前の小路を入れば、家への近道になるはずだった。しかし見回しても、ビル街の中にガソリンスタンドは見当たない。葛原は、適当なコンビニエンスストアの前で曲がって満足した。

 記憶によれば、曲がった先は一方通行の道で、くねくねと住宅の隙間を通っていけば良いのだった。今葛原の目に映る小路は、思いのほか広い。適当に検討をつけて、歩いていく。この辺りか、と思った時に、進行方向を変える。

 どれ位歩いたろうか。自宅が見つかった。鼠色の屋根の、真新しい家だ。黒いフェンスにとりかこまれた庭木は、皆、水の下に沈んでしまっていて、若芽だけが水面を彩っている。随分と時間がかかった、と葛原は思った。水に沈んでしまうと、見慣れた道もすぐ分からなくなってしまう。

 葛原は、黒く鈍く光る、金属製の玄関扉に手をかけた。ノブを回しながら、また家の鍵を閉めずに出てきたことに気づいたが、これは逆に救いだった。鍵の入った鞄は、シュノーケルに引きずりこまれた時に失くしたままだ。

 浸水は、家の中まで及んでいた。無理もない。この家は、道路と同じ高さに建っているのだ。葛原は靴を脱がないままに、家に入り込む。靴脱ぎ場を、確認する。と言っても、靴はてんでばらばらに水の上に浮かんでいた。父のスポーツシューズと、姉のサンダル、母の革靴が、一足ずつ、廊下の奥まで散り散りに浮いている。

 一歩、二歩。葛原はじゃぶりじゃぶりと、廊下を進んだ。玄関からは短い廊下が続き、右手に浴室、奥が階段、左手が居間だ。居間に通じる扉は、閉められていた。

 葛原の背筋に冷たいものが走る。昨日、家に一度戻ったときには、居間へ通じる扉は開け放しのまま逃げ帰ってきた筈なのに。

 三歩、四歩。慎重に葛原は居間の扉の前に立った。くれはす、という語をおまじないのように口の中で呟き、意を決して扉を開けた。五歩。

 居間に、女はいなかった。

 しかし、まだ安心はできなかった。一目で見あたらないとしても、女の体は水の底に沈んでいる可能性がある。足先で女を探り当てたくはなかったので、葛原は一旦玄関まで戻って、傘を手にした。震える手を奮い立たせて、雪下の遭難者を探すように、黒い水底を探る。

 かつんかつんと、傘を床にあてる。今当たったのは、居間のテーブルだろうか。これはソファー。薄緑のカーテンの下も、丁寧に叩く。

 居間から続く台所まで、葛原は一歩一歩をしらべた。水上にはテレビまでもが浮いている。時折、重く水の中を彷徨う物が絡みつき、葛原は飛びあがりそうになった。が、それは台所の水場の脇に敷いてあったカーペットであったり、父の洗濯物であったりした。

 一歩。かつんかつん。部屋を満たす汚水の表面にも、屋外の、つきつけるような空の色が映る。

 二歩。かつんかつん。水面は傘の先で乱されて、葛原の鮮やかなスカートの影が時折浮き出す。

 三歩。かつんかつん。どこからか、冷ややかさを含んだ風が流れてきて、葛原の肩までの髪を揺らす。

 

  *

 暗くなった。

 明るくなった。

 これは、くれはすだ。

  *


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