毒虫(2007サークル冬合宿用)

「毒虫」

 グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。
「いやはや!」ザムザは叫んだ。「これは困ったことになった!」
 ザムザはおそるおそる、布団を体の上から取り除けた。その布団をつかむ手すら、名状しがたい姿に変貌している。ザムザはくらくらしてくる頭を軽く左右にゆすった。唾を飲みこむと、身体の中で、内臓から耳に突きぬけるような異音がはじけた。
 薄い布団は、のろのろとベッド脇へ落ちた。そうして、グロテスクな毒虫の体が、薄曇ったガラス戸越しの光に、斑に照らしだされる。
 ザムザは頭を軽く起こして、自らの身体を観察した。毒虫に変わった肉体はあまりに重たい存在感をもって、ベッドに横たわっていた。身体の表面から分泌される物質があるのか、敷布からは湿り気が感じられる。しかし、その感覚も平時に比べると妙にぼやけていた。毒虫になると、触覚までも変化するのだろう。
 ザムザは体の先端部に目を向けた。体の中心から先端部までは、深い亀裂が入り、先端はさらに分化している。分かれた先には、よく見れば一枚一枚、白い鱗が張り付いている。
 ザムザは視線を徐々に、体の上部に移していった。格子縞の寝着はずり落ちそうに、肉色の表皮に張りついていた。触ればぶよぶよと沈みそうな、くすんだ色の表皮のあちこちは、群生する繊毛に覆われている。
「何ということだ」ザムザは毒虫の肉体から顔を背け、嘆息した。「こんな姿では人前に出られやしない」
 ザムザの頭を様々な考えが駆け抜けた。このままでは仕事に行けない。今日は大事な商談があるのだ。いや、それよりも、このままでは家族にすら顔を合わせられない。こんなに惨めな、醜い姿を晒す訳にはいかない。
 とにかく、状況を冷静に確認しなければ。呼吸を整え、ザムザは自分の肉体の観察に戻った。呼吸をする度に、寝間着の下の表皮は大きく上下に動く。呼吸器官からは、どこかから息が漏れているのか、息を吸うたびに高音が響く。
 強いて冷静に観察しようと試みたものの、上半身も想像通りのひどさだった。相変わらずの肉色が寝間着のボタンの合間から覗いている。頭部のすぐ傍に目を転じると、太い二本の触覚が身体の側面から生えている。その触覚の先も、身体の先端部と同じように、さらに分化し、それぞれに鱗を持っていた。
 この調子では、自分の顔を見るのも思いやられる。ザムザはそう考え、更に絶望的な気分に陥ったが、その心配はすぐには必要無さそうだった。当然の事だが、自分の頭部を自分で見ることはできないからだ。
「……しかし、いつかは見なければならないなら、今確認するべきだろう」
 ザムザは不快な肉体から目を背け、感覚だけでベッドの下へ這い降りた。鏡に自らの姿を映してみようと考えたからだ。
 触覚や分化した肉体は機敏に動いた。と言っても、床からも目を背けてベッドから降りるのは、そう簡単な行為でない。ザムザはすぐにバランスを失い、床に崩れ落ちた。
 木の床と、固いもののぶつかり合う音。ザムザは痛む即頭部に意識を集中させた。と、触覚は無意識の内に痛む部分に伸び、その箇所を摩る。そのおぞましい感触に、ザムザは改めて身を震わせた。
 とにかく、顔を見ねば。自分がどんな化物に変身したのかを確認しなければ。ザムザは壁にかかった鏡に向かい、床を這った。
 しかしザムザは、床から伝わってくる、ザムザの身体の動きとは違うリズムに気づいた。部屋の外の、廊下を歩いてくる靴音だ。そうしてこの時間にこの部屋にやって来るものといえば、妹のグレーテしかない。
 ザムザは戦慄した。妹は、このようなおぞましい姿に変貌した自分に、どんな態度を示すだろう。
 グレーテは扉を開き、何気なく、空のベッドに目をやるだろう。さらに、床の上を這いずる毒虫を発見する。途端に叫び声が上がり、ついては階下の両親も、何事かと思って階段を駆け上ってきて、そうなれば商談どころではない、家族は自分を隔離し、閉じ込め、家族としても扱うことなく――
 ザムザの想像が終わる前に、扉は開いた。
「兄さん、いつまで寝ているの?」
 グレーテの声。
 ザムザは次に起きるであろう妹の叫び声を待つ前に、狂ったように壁の鏡へ突進した。伸び上がり、鏡に己の顔を映す。
 こんな姿を妹に見られては。こんな浅ましい毒虫の肉体を見られては。
 グレーテの言葉が、後ろから飛んできた。
「あら、こんな所に毒虫が」
 鏡の中に映った毒虫の表情は、苦悶に歪んでいた。
 アーモンド形の瞳と、角ばった鼻と、青白い唇が歪んでいた。肉色の頭部の先は繊毛で覆われている。その全てにおいて気色の悪い器官が、正視に堪えぬ肉体が……。
「もう朝食ができていますから、早く下に降りてきてくださいね」
グレーテは、ザムザの想像していたよりずっと冷ややかな声でそう伝えると、部屋をでていった。
ザムザは鏡に映った男の顔に、未だ「毒虫」と呟き続けていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?