あおいみどりい


広域科目Ⅰ 創作指導C 提出作品
「あおみどりい」(原稿用紙換算三十七枚)

  

一.
 おじさんの家へ遊びに行った。
 待ち合わせ場所は、南町の商店街を抜けてずっと行ったとこ。この前つぶれてしまったお菓子屋さんの、二つ先の電信柱の下だった。電信柱のうらっかわは、一面草が生えているだけの空き地で、道路の向い側も、赤い大きな看板がある以外は、やっぱりただの空き地。看板の文字は剥げていて、「河合不動産」の字と、電話番号が薄っすら読める。
 ぼくは、さとが錆だらけのガードレールに寄りかからないように気をつけながら、おじさんを待っていた。約束の一時半までにはまだ十五分もあって、さとは早くもむずがっている。こんなことならさとを学校から早退させることもなかった、とぼくは思った。ぼくは給食を食べている最中のさとを、学校からひっぱりだしてきたからだ。
 白い五月の光は随分強くて、シャツの下は汗ばんでくる。時々、腰の高さまである雑草の中を走り抜けてくる風が心地良い。緑色のにおいに、さともゆっくり息を吸い込んで、少し咳こんだ。
 さとは日陰に入りたいのか、何度もぼくを離れて、少し先にある、屋根付きのバス停の方へ歩いていこうとする。でもぼくの手首には赤い紐が巻いてあって、もう片方の端はさとの手首に巻きつけてあるから、すぐにひきもどしてやれる。さとは無言で日陰の方を顎で指すけれど、ぼくはやっぱりさとをひき戻す。あのおじさんのことだから、電信柱から一歩でもずれた所にいれば、ぼくらを見つけてくれない気がしたのだ。
 時間はのろのろのろのろ過ぎて、さとは何度も走っていこうとして、ぼくは何度も手首を引っ張った。さとの靴はとても小さくて、歩くときゅうきゅう音がなる物だ。ピンク色のキャラクターの絵があしらわれた靴は、さとの足には小さすぎるのだけれど、纏足をはかせているようで可愛いとぼくは思う。時々不自由な足でふらついてしまうのを、支えてやるのも楽しい。
 さとはぼくから離れて歩くのを諦めて、何度も足踏みして時間をつぶした。
 きゅう、きゅう。きゅう、きゅう。
 道路の幅は広いのに、車はさっぱり通らない。ぼくは向かいの赤い看板の電話番号を、見るともなしにずっと見ていた。そういえば、車のナンバープレートの四桁の数字を、足したり引いたり掛けたり割って、答えを十にする遊びがあったっけ。じゃあ、あの電話番号も、符号を足せば答えは十になるだろうか。ゼロ、プラス、よん、たす……
 ちりん。
 自転車のベルの音がした。ぼくもさとも、すっと顔を上げる。自転車は静かにすべってきて、ぼくらの前で止まった。
 自転車の上のおじさんが、にこやかな顔であいさつをした。
――こんにちは。待ったかい?
 ぼくは頷いた。おじさんはいつもの、芝居がかった口調で笑う。
――ちゃんと妹さんも連れてきたね。まぁ、君は来なくても良かったんだが。
 ぼくはさとの手首に繋がる赤い紐を、しっかり掴みなおした。
――じゃあ、行こうか。
 おじさんは自転車を降り、手で押して元来た道を戻り始めた。ぼくらもそれに着いていく。
 おじさんはいつも通りのぼさぼさの髪に、砂っぽく汚れた黒いトレーナー、ジュースをこぼして汚れた作業着みたいなズボンに、買ってから一度も洗ってないみたいなサンダルを素足で履いていた。自転車だけが真っ赤で、新しい。ぼくは思わず、自転車は誰かのものをとって来たのでは無いかと邪推してしまう。このおじさんならそれ位のことをしかねない。
 おじさんはゆっくりと自転車を押しながら、ぼくらに、というより正確にはさとに、話しかけてきた。
――今日は随分早い時間に来させてしまってすまないね。
――今日は学校は無いの?
――今は何を勉強してるの?
――休み時間は何をして遊ぶんだい?
――その腕の赤い紐はなあに?
 それら全ての質問に対して、さとはうつむくだけだった。ぼくが何一つ、おじさんの質問には答えないよう言い聞かせてあるからだ。
 おじさんはそれでも諦めず、質問を繰り返す。
――お兄さんはいつも良くしてくれるかい?
――最近ベランダに出ているのを見ないけれど、どうしたの?
――この前始めたピアノはどう?
――一緒にピアノをしているゆみちゃんは、最近いじわるをしすぎるようだね?
 さとはうつむいて答えない。ただ、きゅうきゅう言う靴だけがおじさんに相槌を打つ。
 おじさんは、空き地ばかりの道をしばらく真っ直ぐ進んだ後、道路を渡って、建物の密集する一角へ入った。小さなブロック塀と、それを覆う植木の付属した建物たちは、曲がりくねった道をつくって立ち並んでいる。おじさんはそんな平屋建ての木造建築の間を、数え切れないくらい曲がった。さすがに四回も同じ家の前を通れば、方向音痴のぼくだって同じ道を通っていることに気づくけれど、おじさんは気にせず同じ角を同じように曲がる。ぼくらに帰り道を分からないようにしているのだろうか。
 でもこの辺りの低い建物の並ぶ道からは、ちょっと遠くのショッピングセンターの看板が良く見えるから、方向が分からなくなることはない。ぼくは安心して、おじさんにひきずりまわされ続けた。
 おじさんは、太く大きな樫に押しつぶされそうになっている木造瓦葺き平屋建ての前で止まった。
――さぁ、着いたよ。
 家はほとんど壊れかけたようなありさまだった。土と同化してしまいそうな、くすんだ木目の外壁に、無数の小さな穴が空いて見える。よくよくみると虫がいくらでもくっついていそうで、ぼくは薄目で通ることにした。ブロック塀に挟み潰されたみたいな木戸を開けて、石段を数段登ると玄関口だ。おじさんは自転車を石段の上にひっぱりあげ、雑草だらけの、元は猫の額ほどではあるものの庭だったであろう空間に、自転車を止めた。チェーンを取り出し、鍵もかけた。
 樫は低く葉を広げていて、家の回りは、さっきの道路に広がっていた白い光が嘘みたいに薄暗い。ぼくとさとがきょろきょろしていると、おじさんはガラスの入った引き戸を、がたがた言わせて開いた。こちらは鍵はかけていなかったらしい。
――さぁ、どうぞ。
 おじさんは、外より更に薄暗い玄関の中から、満面の笑みでぼくらを招く。おじさんの歯と、歯にはさまった緑色の何かだけが、くっきり外からの光に映されている。


二.
 ぼくはさとを背中に隠すように、おじさんの家に踏み込んだ。ほこりっぽい臭いの玄関は、人一人でいっぱいになるくらいの靴脱ぎ場しかない。
 おそるおそる中を覗きこむと、玄関から続く廊下で、おじさんはスリッパを並べていた。青い大人用のものと、赤い小さなものと。
――さと、靴は脱がないでいいよ。
 ぼくはスリッパに履き替えてから、くるりと玄関の方に向き直って言った。まだ靴脱ぎ場にいるさとは、靴を脱ごうとかかんだ姿勢のまま、不思議そうな顔でぼくを見上げる。
 おそらくやはり不思議そうな顔でこちらを見ているであろうおじさんを無視して、ぼくはさとに言い聞かせた。
――さとは、靴は脱がなくていいんだよ。そのまま上がればいいんだよ。
――なんで?
 さとが消え入りそうな声で尋ねる。
――なんで? ……スリッパはきゅうきゅう言わないから?
 ぼくは頷いた。そうしておじさんの用意した、赤い小さなスリッパの右と左を重ねて、下駄箱の上に置いた。
 振り返ると、廊下のおじさんは不機嫌そうにぼくを見ている。でも、さとには貼り付けたような笑みを浮かべて言った。
――君のお兄さんはなかなかひどい。人の家を何だと思っているんだか……。
 おじさんは、さとがおそるおそる土足で家に上がるのを待って、ぼくらを先導した。
 廊下は右側に部屋が二つ、突き当たりに扉が一つあるだけだ。おじさんは手前側の部屋の襖を開けた。
 部屋は、あかるかった。白い光線に、ほこりがたゆたうのが透けて見える。開け放している障子の向こうには、緑の垣根が見えた。
 ぼくらは廊下に突っ立ったまま、ぼんやりと室内を観察した。畳の部屋の中央には、木製の、良い色合いの正方形の机が一つ。壁には水彩のお花の絵のカレンダー。衣装箪笥。仏壇。
 おじさんは机の脇に立って、ぼくらをにやにやと眺めていたが、やがてゆっくりと膝を折った。そして、そのまま頭をぴったりと畳につけ、ぐしりと首の向きを変えて、ぼくらを見た。
――どうぞ、座ってくれ。
 ぼくは廊下に立ちつくして、床につっぷしているおじさんを見ていた。
 おじさんはつっぷしたまま、ぼくらを見返している。
 ぼくはさとを見やった。さとも目を大きく開いて、おじさんを凝視している。
 おじさんは頭を畳につけたまま、這って二三歩、じろりと進んだ。ぼくらはその一挙一動を観察するしかない。右手、左足、左手、右足、そして頭が滑っていく。
 おじさんはつと止まると、口元を大きく歪めた。頭を畳にめり込みそうなくらいに深く沈める。獲物を捕らえるカメレオンみたいな姿勢で、ぐっと神経を集中させている。
そして、畳のささくれを、にじり抜いた。
――ほら、またあった。
 おじさんは独り言つと、また二三歩じろりと進んで、ささくれを抜いた。そしてぐしりと首の向きを変えて、ぼくらを見やる。そして言う。
――ほら、どうぞ、座って
 ぼくはやはり廊下に立ちつくしていた。おじさんの妙な行動は今にはじまったことじゃないけれど、それでもやはり薄気味悪いのだ。それとも、この家では、畳に這って客人を迎える習慣があるんだろうか。
 手首が引っ張られた。
 さとが部屋にずんずん入っていく。畳にきゅうきゅう音を載せながら、机の脇まで歩いていって、座る。
 力を入れていなかったぼくは、赤い紐にひっぱられて、一緒に机の脇まで歩かされた。さとが座るのにひっぱられて、ぺたりと座りこんでしまう。
 おじさんは畳に頭をぴったり押し付けながら、それを満足そうに確認した。
――じゃあ、
 おじさんは一言漏らすと、立ち上がった。
――ちょっと待っていてくれ。茶を持ってこよう。
 おじさんは何事もなかったように、ぼくらの脇をすりぬけて、部屋を出て行った。
 部屋には無言だけが残る。時々、垣根がさわさわ言う音が、緑色の風にのって吹きぬけていく。
 おじさんはすぐに戻ってきた。手にはお盆をもって、その上にはプラスチックのコップが二つ、お菓子の入った小鉢がのっている。
 おじさんはコップを机に置いた。プラスチックのコップには、見たことの無いクマの絵が印刷されていた。
――どうぞ。遠慮なく。
 さとは躊躇無くコップをつかむと、両手でしっかり掴んで中身を飲みほした。さとの手首が動くと、ぼくの手首もひっぱられて動く。
 ぼくはさとと繋がっていない方の手でコップをつかんで、鼻を近づけた。中身は冷たく冷やされた茶色い液体だ。でもぼくはその、薄い麦茶のにおいより、のどに詰るような妙なにおいが気になってしまう。
 けろりとしているさとを横目で確認してから、ぼくはおそるおそる液体を舐めた。ごく薄い、麦茶の味だ。
 しかしコップを傾けて飲もうとすると、妙なにおいが鼻をつく。ぼくは息を止めて麦茶を一口飲んで、コップを置いた。
 おじさんも、さとも、そのまま動かない。ぼくはもう一度コップを手にとって、においを嗅いだ。妙なにおいは、麦茶自体のものではなくて、コップに残っているもののようだった。
 ぼくがコップを机に置くと、おじさんは菓子を勧めてくる。手を出さずにいると、おじさんははたと手を打った。ぱちん、という音が、部屋の隅々までさっと広がる。
ぼくは驚いて少し肩をすくませた。
――そうだ、君たち。昼食を食べていくといい。
――でも、もう、さともぼくも食べました。
――いや、給食なんて不味いものだ、そんなに食べられるものではないだろう? だから、ちゃんとしたものを食べるべきだ。うん、そうだ。何がいいだろうね? ああ、そうだ、とっておきのものがある!
 おじさんはそういうと、止める間もなく部屋を出て行った。
 また、無言が残る。さとは空になったプラスチックのコップを、片手でくらくら揺らす。
――そのコップ、変なにおいがしない?
 ぼくはさとに囁いた。さとは首をまげて、不思議そうな顔をしている。
 と、さとは首を大きく斜めにまげた。突然目を輝かせると、立ち上がる。
 ぼくの手首も、さとにひきずられて高く上がった。
――さとっ。
 さとはぼくを気にせず、ずんずん歩いていこうとする。でも、もちろんぼくの方が力が強いから、さとは歩いていけなくなった。
 さとはぼくをきっと見て、手首を何度も引っ張った。
――お手洗いに行きたいの?
 さとは首を振る。そうして、手首を乱暴に揺らす。
 ぼくは仕方なく立ち上がった。もしさとがここで帰りたいと思っているなら、それこそぼくも願ったりだ。一緒に帰って、二人でゆっくりおやつでも食べよう。
 でも、さとが走っていった方向は、玄関とは逆の方だった。部屋の隅にある仏壇に近づいていって、中を覗き込もうとする。
 ぼくは引っ張られて、仏壇の前へ連れて行かれた。仏壇は、何の変哲もない、黒っぽくくすんだ木の、細い作りだ。
 中には、位牌が一つ。鈍く光る香炉。汚れた蝋のこびりついた燭台。そして、ティッシュペーパーを敷いた上に置かれた、こんぺいとう。
 さとは興味深げに、こんぺいとうに指を伸ばそうとする。ぼくは手首をひっぱって、その手を引き寄せた。
 さとはそれでも抵抗して、手を動かす。ぼくも強く、手首をひっぱる。赤い紐はぴんと伸びて、ぼくとさとの間を結んでいる。
――こんぺいとうが食べたいの?
 伸びた紐の角度を調節しながら、ぼくは聞いた。さとが腕を下げればぼくは上に上げるし、さとが手を前に出そうとすればぼくは逆に引くし、さとが力を一瞬抜けばぼくも力を抜かないようにしなくてはいけない。
――ううん。
 そう言いつつも、さとの視線はこんぺいとうだけにじっと注がれていた。明るい光を照り返すこんぺいとうは、飾り物のようにすましこんて、色とりどりの体を見せつけている。
 遠くで、小気味良い音が聞こえる。包丁で何かを切っている音だ。おじさんだろうか。ぼくは突然、ヘンゼルとグレーテルの物語を思い出した。
 そう考えると、目の前でこんぺいとう如きに心ひかれているさとが痛ましくなって、ぼくは今までにない強い力で手首を引いた。こんぺいとうに誘われてやってきたさととぼくが、おじさんに料理されて、変なにおいのするコップに飲物を入れて、一緒に食べられてしまう光景が、頭にすらりと浮かんだ。
 ただ、その想像はすぐに目の前の風景に掻き消された。さとはぼくに思いっきりひっぱられた所為で、ぼくの方へ倒れかかってきたからだ。
 ぼくは慌てて抑えてやる。大丈夫、と聞こうとすると、さとの潤んだ目がひどくきつく睨みつけてきた。
 包丁の音は止んで、しゅうしゅう、という息継ぎが漏れてくる。やかんでお湯でも沸かしているんだろうか。
 さとはぼくの体に手をついて起き上がった。七分袖から出た細い腕の、赤い紐の巻きつけられた手首が、赤く充血しているのが見える。
 さとはやっぱりまた、仏壇の中を覗もうとした。ぼくは台所の音に、耳を澄ます。かたかた、と何かが動く音。スリッパでの移動。金属音。おじさんのくしゃみ。
 それを覆うように、外から吹き込む緑色の風はさわさわと音を立てる。
――こんぺいとう、
 さとが呟いた。
――こんぺいとう、食べたいな。
――お供え物を食べると罰があたるよ。
 ぼくはさととの赤い紐を緩めながら返した。
――でも、おうちには、こんぺいとうないでしょ。
――普通、どんなおうちの仏壇にも、こんぺいとうはないよ。
――このおうちの仏様は、こんぺいとうが好きなのかなぁ。
 さとはもう、手を伸ばすことは諦めて、何度も伸びをして仏壇を覗いている。きゅう。
――子どもの仏様なのかもしれないね。
 ぼくは何気なく答えて、そしてはっとした。この仏壇は、誰の仏壇なんだろう。おじさんのおじさんとおばさん? おじいさんとおばあさん? そのまたおじいさんとおばあさん? それとも、それとも……
 いつの間にかさとは口をもぐもぐさせている。こんぺいとうを口に入れてるみたいに。


三.
 おじさんが、お盆を持って、帰ってきた。
 ぼくとさとは机の前に座り直す。おじさんは音を立てずに、ぼくらの前に皿を置いた。
 皿には、山盛りの冷やし中華が乗っている。
――さぁ、どうぞ。
 おじさんは顔中を歪めて笑んだ。
 ぼくは冷やし中華を観察する。何の変哲も無い、冷やし中華だ。細切りのハム、細切りの胡瓜、細切りの卵焼き、細く裂いたカニ蒲鉾、丁寧に敷かれたワカメ、その更に下から覗く、黄色いちぢれ麺と、薄いしょうゆ色のスープ。
 おじさんはぼくとさとの前に、一膳ずつ箸を置く。ちゃんと箸置きに載せて、箸を置く。ぼくの箸は黒くて長くて、さとの箸はピンク色。
 ぼくは、手を膝の上に置いたまま動けない。
 さとはそんなぼくを横目で見てからピンクの箸をとりあげて、
――いただきます。
 と、つぶやいた。
――ぼくはお昼を食べてきましたから。こんなに、食べられないです。
 ぼくはおじさんと目を合わせず言った。
――大丈夫だよ。冷やし中華は美味しいからね。
 おじさんは、さとの顔を覗き込もうと、首を妙な方向にねじりながら答える。
 さとはすでに、細いきゅうりの端っこをつまんで、口に運んでいるところだった。しゃくしゃくと咀嚼して、飲む。
 今度は麺が箸でつまままれる。スープの中をゆっくり漂わせて、高く持ち上げて、すすられる。
 おじさんは固唾を呑んでさとの一挙一動を見守っていた。さとは麺をゆっくり噛んで、飲んだ。喉の動きがはっきりと見えて、こくりという音が、静かな畳いっぱいに広がっていく。
 さとはおじさんの方を向いて、可愛らしい口角を上げた。
 おじさんも、それに笑顔で答えた。そして、次はぼくの手元を見定める。
 さとは隣で麺をすすり続けている。ぼくは仕方なしに、箸を手に取った。乾いた、ざらざらした感触を、何度か擦って確かめる。
 おじさんはぼくから視線を離さない。
 ぼくは箸を右手に持ち直し、麺をすくった。スープがぽたぽたと垂れて、またスープの中に帰っていく。
 おじさんはぼくの麺の揺れに合わせて、無精ひげの残る顎を動かす。
 麺を口に運んだ。酢と醤油の味が舌の上を抜けていく。ゆっくり噛んで、飲み込んだ。
 おじさんはそれを興味深げに見ている。ぼくの麺を噛む回数を数えてるんじゃないかと思うくらいに、じっとりと観察を向けてくる。
――どうだい?
 ぼくが箸の動きを止めた一瞬を縫って、おじさんは尋ねた。
――……普通に、美味しいです。
 実際、その冷やし中華は、それ以上の何物でもなかった。どうせ冷やし中華なんて、麺とスープを買ってきて作るだけだから、作る人によって味が変わるものでもないじゃないか。
 でも、おじさんは、作り笑顔を止めず、それ以上の言葉を待っている。
 ぼくは仕方なく、もう一口を口に運んだ。胡瓜の冷たさ。卵のやわらかさ。それだけだ。
 おじさんはぼくの言葉を待っている。
 ぼくは小さく、ため息をついた。実際、ぼくはもうお腹がいっぱいだったのだ。さとを迎えに行く前に、ぼくは家でスパゲッティを作って食べた。しかも、おじさんの家に行かなくてはいけないのが憂鬱で、少しでも元気を出そうと、冷凍スパゲッティの袋を二つ電子レンジに放りこんでしまったっけ。
 さて、この大量の冷やし中華をどうしたものだろう。
――ねぇ、
突然さとが言った。ぼくは何気なく、さとに笑みかける。
――お父さん。
 ぼくはさとの手を、ぴしゃりと叩いた。
さとの手からピンク色の箸が落ちる。
 ぼくは机の下に転がり落ちた箸を拾った。さとの手は、空中で、箸を握った姿勢のまま固まっている。ぼくは拾い上げた箸の、端から端までを舐って、さとの前に置いた。
 おじさんが立ち上がると、仏壇の下の引き出しから割り箸を取り出してきて、さとの前に置いた。
 さとの手は、空中で止まっている。
――さと。
 ぼくは自分の箸を持ち直して、はっきりと言った。
――……お兄ちゃん。
 さとが、心なしか震える声で、発語した。
 ぼくは冷やし中華に手を伸ばす。食べたくもないけれど。さとはやっぱり空中で手を止めたまま、視線をずっと先の方に向けている。
――君、ね。そうやって妹さんを怖がらせるようなことをしてはいけないよ。
 おじさんが言った。
――怖がらせることなんて。ぼくは、
――私はずっと思っていたんだがね。君が一緒にいると、さとちゃんは怖がってばかりだ。そんな赤い紐で縛って逃げないようにしたりね。靴だって、逃げ出した時に音でわかるから、あんな子供用の物を履かせているんじゃないか。
――違います。
――私はずっと思っていたんだがね。
 おじさんは、今までのくずした胡坐姿から、突然背筋を正した。
――君、妹さんを私にくれないか。
 無言。さとが少し咳をして、その拍子に空中に止めたままだった手が大きく揺れる。さとは元の位置に手を戻そうとしているけれど、ぼくの方から見れば随分手の高さが変わってしまったのがはっきり分かる。
――さとちゃんを、私にくれないか。
――できません。
 ぼくは箸を持ったまま、手をひざの上に下ろした。
 顔をあげる。緑の垣根が見える。部屋いっぱいの、白い光が見える。
――さとは物じゃないんだから、あげたりもらったり、そんなことは、できません。
――しかし何より妹さんを、物みたいに扱っているのは君じゃないか!
 おじさんは盛大に驚いて、首をすくめてみせた。
――君と一緒にいると、さとちゃんによくない。
――さとはぼくの妹です。
――本当に? 本当に妹かい?
――さとはぼくの妹です。
――妹のように振舞わせれば妹になるわけじゃないんだよ。君はいつまで茶番を続ける気なんだ。
――茶番をしているのはそちらでしょう。ぼくだって、こんな見知らぬ人の家に、さとを連れてきたくはありませんでした。
――しかし、さとちゃんが来ると言ったのだろう。私は単に招待しただけだよ。
――さとはまだ子どもなんです。飴をもらえばついていってしまうような、子どもなんです。
――そうかい? 飴じゃ駄目だったよ。お話もしてくれない。でもソフトクリームだったら、家まで来てくれたね。
 ぼくの背筋がぞくりと寒くなる。
――お菓子で小さい子を釣るなんて、最低だ。
――でもさとちゃんは、本当に私を気にいっているんだよ。そうでなければ、君に私のことを紹介しないだろう。
 紹介なんて、されてない。ぼくは思った。ぼくはただ、さとが見知らぬ飴の包み紙をポケットに入れているのを見つけて、さとを問い詰めただけだ。そうして、こんな変質者の男のことを知ったんだ。
 ぼくは今すぐさとに冷やし中華を吐き出させたかった。冷やし中華だけじゃない、アイスクリームも、飴も。
――別に何か、いかがわしいことをしようという訳じゃない。一緒にお話をするだけだよ。そうだって分かってるから、君も来てくれたのだろう。
――ぼくは何も分かってません。ただ、さとが行くというから、付いて来たんです。
――さとちゃんを、私にくれないか。
 ぼくはじっと、窓の外を見た。緑色の風が、汗の引いてきた体を撫でていく。
――さとちゃんを、
――お兄ちゃん。
 さとが言った。
 おじさんも、ぼくも、さとに向き直る。
――トイレ、行きたい。
 さとははっきり、ぼくに言った。
 おじさんはそこに割りこむように答える。
――それならば廊下の突きあたりだよ。案内してあげよう。
――いえ、いいです。
 ぼくはおじさんから守るようにさとを立たせた。おじさんにくるりと背を向ける。
 襖は開け放してあった。だからあんなに、風が通るんだな。
――しかしね、迷うといけないから……
――一回行ったことがあるから、大丈夫です。
 おじさんの言葉に、そう答えたのはさとだった。ぼくは、さとの肩に当てた手を強く握りしめてしまう。
 おじさんがまだ何か言ってくるのを置いて、ぼくらは廊下に出た。廊下の突き当たりの扉は一つだけだ。
 木製の、少しぐらつく扉をあけると、洗面所だった。左側が扉の開け放たれた浴室だから、右が便所だろう。さとの手首とぼくの手首はつながれているから、ぼくはさとと一緒に便所に入って、さとが用を足すのを手伝ってやった。便所はタイル張りの和式だ。窓際に飾ってある造花は、誰が持ち込んだものなのだろう。
 用を済ませて洗面所に戻った。さとは伸びあがって、手を洗う。水をばしゃばしゃしただけで終えようとするから、備え付けのハンドソープを使わせた。ぼくも一緒に、手を洗う。開け放した便所の小窓から、浴室の窓へ風が通り抜けた。さとの細い髪が揺れて、さとは水に濡れたままの手でそれを押さえようとする。ぼくはハンカチを出してさとに使わせた。
――お兄ちゃん。
 さとが言う。
――なに?
――あおみどりい。
 さとはそう言って、浴室の方に顔を向けた。
 戸の開いたままの浴室の内側の、やはり開け放したガラス戸の向こうに、覆いかぶさってくるような草木が見える。通り抜ける風が、それをさわさわ動かす。
――青緑?
――風が、あおみどりいね。
 さとはハンカチをぼくに返した。ぼくもハンカチで、手を拭いた。
 ぼくらは洗面所を出て、部屋に戻った。できれば、あのおじさんのいる部屋には戻らないで、このまま帰ってしまいたかった。きゅう、きゅう、という音のリズムを止めずに。
 洗面所に近いほうの部屋の襖が、少し開いている。
何気なく覗きながら通ろうとして、ぼくは思わず声をもらした。さともぼくを押しのけるように、中を覗く。
 部屋は、冷やし中華のある部屋とは打って変わって、乱雑に物が置かれている。中心には炬燵、その周りには無秩序に置かれた布団、菓子やらの箱、本、服、なぜかプラスチックの白いポールが何本も。
 そして、炬燵の前にあるテレビを見ている、おじいさんが一人。
 テレビは昨日の相撲の取り組みを映している。肌の黒いおじいさんは、ぼくらの方へ顔を向ける。
 その顔を確認する前に、ぼくは部屋の前を通り過ぎた。ぼくはさとを、ほとんど引きずるように引っ張っていた。
 元の部屋の前を通ると、おじさんはさっきと変わらない位置に座っていて、ぼんやりと外を見ている。
――あの、
 ぼくは足を止めずに、声をかけた。本当は声をかけなくても、ぼくらが部屋の前に戻ってきたことを、おじさんは分かっているはずだった。さとの靴のきゅうきゅうは、家中に聞こえているはずだ。
――ぼくたち、今日は帰ります。
 おじさんはびっくりして立ち上がったらしい。かたん、と机がゆれたのが分かった。
――そんな、まだ来たばかりじゃないか。
――でも、もう、帰ります。
 ぼくはさとを連れて、強引に玄関に歩いていく。おじさんは後から追いすがってきた。
――いや、しかし待ちたまえ。
 ぼくはそのまま、靴をつっかけて帰るつもりだった。さとはずっと靴を履いているから、履き替える必要もない。
 ただ、ぼくの靴はいつの間にか見当たらない。
――今日はさとも疲れているから、お暇します。
 ぼくは繰り返したものの、靴がないから出て行く訳にいかなかった。この際、靴を履かずに出て行ってしまおうか。靴下のままでも、家まで歩いて帰ることはできる。
 さとはようやく、ぼくが玄関で立ち止まっている理由をつかんだらしかった。さとは下駄箱を開けて、ぼくのスニーカーを出すと、靴脱ぎ場に置いた。
――……ありがとう。
 ぼくは靴をつっかける。
――いや、まぁ、どうしても帰るというなら仕方ない。でも、また遊びに来てくれ、さとちゃん、ね。
 さとはおじさんの言葉には答えなかった。その代わり、下駄箱の上に吊るされた飾りをじっと見ている。
 目の端で見て、飾りが中国のおみやげか何かの、赤いものだと確認する。ただ、ぼくは一刻も早くこの家を出たかった。
――これ、
 さとは、家を出て行こうとするぼくの手首に抵抗して、手首をひっぱりながらおじさんに言った。
――これ、なに?
おじさんは靴脱ぎ場を裸足のまま降りて、さとの指す飾りを覗く。
――ああ、これはね。
 ぼくはおじさんが、目と鼻の先にいるのが耐えられなかった。早く。
――いいるぅぴんあん。
 おじさんは、今までの芝居がかった低い声からは考えられないような抑揚をつけて、発音した。ぼくはさとを玄関からひっぱりだそうとする。でも、さとは足をつっぱって抵抗する。
――旅の無事を祈るお守りだよ。だから、
 ぼくはさとの脇をつかんで、抱き上げた。さとは大きく足を振って抵抗する。足の先が玄関の引き戸にあたって、がしゃんと引き戸全体が揺れる。
――ちゃんと帰ってきてね、さとちゃん。
 ぼくはさとを家の外に放り投げるようにして、下ろした。
 おじさんはそんなぼくを、蔑むような目で見る。
――じゃあね。また来てね。
 おじさんは、やさしい口調をさとに向けた。
 おじさんに小さく手を振ろうとするさとを静止して、ぼくはさとに、無理矢理石段を降りさせた。こんな、こんな人の所に、二度とさとを連れてきてはいけない。ぼくは思う。
 ぼくは、さとを引っ張るようにして、道路を進んだ。まだ日は高くて、道路はあおみどりい風がいっぱいに、吹いている。
――いいるぅぴんあん。
 道路の上で、さとが、まるでその発音をずっと前から知ってたみたい、流暢に繰り返した。

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