みだれ髪さんに次ぐ

 午後三時十五分。ぼくはさとの手をとって、二階のベランダへ向かう。

 ぼくがガタつく窓を閉めている間に、さとはもう小さな踏み台に登っている。ベランダの手すりに何とか顎をのせて、視線だけをじっと道路に落とす。手すりの下の、柵の間から覗くのでは気に入らないらしい。
 窓を閉め終えたぼくもさとの隣に立って、手すりに頬杖をつく。ベランダからだとすっかり見渡せる、家の前の細い道路には、路上駐車の車一台、人っ子一人見当たらない。
 しかし、時間は着実に近づいている。庭で洗濯物をとりこんでいるはずのお母さんだって、ベランダから覗き込んでみれば、玄関の脇、生垣の後ろから道路の様子を伺っている。向かいのマンションの二階のおじいさんも、新聞を持ってベランダへ出てきて、愛用の木椅子に納まっている。四階建てマンションの他のベランダを見回しても、カーテンをちょっとずらして外を見ている人だらけだ。
 隣の家の人も、その隣の家の人も、気配を殺し、または玄関先で堂々と、道路に向かって目を注ぐ。もちろんぼくとさとも、さっきからずっと道路の左手を見やっている。おじさんは、毎日三つ先の交差点を曲がってやってくるからだ。
 視線の先だけが交わる、静まりかえったおやつ時の底で、ぼくたちはただ待った。気の所為かと思う、微かな音が浮かびあがってくる。向かいのベランダのおじいさんが、新聞を畳み、道路に視線を落とした。顔には柔和な笑みを貼り付けたままで。
 音はどんどんと近づいてくる。辺り一面の家々を震わせるような、耳をつんざく大声が響きわたった。お母さんも生垣の隙間にぴったり目をつけて、これからやってくる物事を待ちうけている。
 大声が頂点まで達した時、道路の曲がり角に、ひらりとその姿が現れた。黄色い大きな布を首にまいて、マントのようにはためかせて走ってくる影。どんどんと近づいてくる。
 おじさんの姿がはっきり見て取れる大きさになる。黄色いマントに、灰色のシャツ、黒いズボン。おじさんは叫んでいた。ぼくも、さとも、その他の大勢の人たちも、その動きをぴったりと目で追う。
 ”あ”とも”え”ともつかない母音を絶叫しながら、おじさんはぼくたちの前を全速力で走りすぎた。
 さとはおじさんが目の前を通り過ぎるとすぐに、踏み台を降りてベランダの端へ駆け寄った。そうして柵の隙間から、直線道路の奥へ走りこんで行くおじさんを凝視している。
 ぼくもベランダから身を乗り出した。何かから逃げるように全力で走っていくおじさんは、既に黄色い点だ。音とともに姿は小さくなっていって、その内とつりと何処かの角を曲がって消えた。
 向かいのベランダのおじいさんが再び新聞を開く音が合図だった。あちらこちらから、窓を僅かに閉める音、カーテンを引く音が聞こえる。
 ぼくはさとの手を小さな手をとった。そうしながらも、マントのおじさんが消えていった先を、余韻を探すみたいに見定めたままだった。

 *

 みだれ髪さんは有名人だ。
 この町の人なら誰だって、みだれ髪さんについて聞いている。ぼさぼさの髪をふりかざし、町の至る所に出現する男の人。地面を這ったり、ブロック塀の上を渡ったり、夜の学校のプールで泳いでいたりするという。
 でもその素性については、誰も何も知らなくて、知ろうともしない。町で見かければ、「あ、みだれ髪さんだ」と指を差す。それだけ。
 追いかけて来られたら「塩塩三本」というと逃げられるという声を、ベランダで日向ぼっこをしている時に聞いた。大方家の前を歩いている小学生の噂話だったのだろう。そうなってしまうと、口裂け女と変わらないけれど。
 さとも黒い髪を振り回すみたいに首を横に振って、みだれ髪さんが怖い、と言う。
 ぼくはいつも、みだれ髪さんが粗暴な振る舞いをすることもしたことはないと言い聞かせるのだけれど、さとは自説を曲げようとしない。
 今日の朝なんて、今日は通学路にみだれ髪さんが来る気がするから、学校へ行きたくないとまで言い出す。そうするとぼくはさとに、赤いランドセルを取り付け黄色い学帽を被せながら、みだれ髪さんがどれだけ無害かを、作り話を交えて解説せねばならなくなる。みだれ髪さんはね、怖いことなんて何にも無いんだ。ちょっと髪に櫛を通すのを忘れてしまっただけなんだ。
みだれ髪さんのお母さんはとっても怖い人で、朝起きて寝癖がついているのを見てさえ怒った。お風呂で髪を洗った後、ドライヤーを使うまでの間にも小言を言った。だからみだれ髪さんは家を出て、お母さんに文句を言われる心配がなくなってから、好きなだけ髪をぼさぼさにしているんだ。
 いつも肩までの髪を梳かれるのを嫌がるさとは、少しだけみだれ髪さんに同情した表情を見せる。ぼくは得意になって口を滑らせる。だから髪を梳かすのを嫌がると、みだれ髪さんが仲間だと思って連れて行っちゃうよ。
 しまった、と思ったときには遅い。さとは目を赤くして、今日は絶対小学校に行かないと言い張るのだった。謝っても、もちろん聞く耳をもたない。床に頭をついているぼくを見下して、涙をこぼすだけだ。
 さとがようやく家を出たのは、学校の始まる十分前、おやつに森田のパン屋のメロンパンを買ってくることを約束して、学校にいる悪い子の手首を曲げてあげることも約束してからだった。ぼくはみだれ髪さんの名の恐ろしさに溜息をつく。

 *

 午後三時十五分。ぼくはさとの手をとって、二階のベランダへ向かう。
 さとは右手で口に突っ込んだメロンパンを押さえながら、踏み台へ登る。ぼくも窓をからから閉めてから、手すりに頬杖をつく。向かいのベランダでは、もうおじいさんが新聞を広げていた。おじいさんはこちらをちらりと見て会釈する。ぼくも軽く頭を下げた。見ると、おじいさんのベランダを中心として、マンション中に窓の動きが広がっていく。
 マントのおじさんは、時間通りにやってきた。
 今日は叫び声は止めたらしい。その代わり、遠くからでもはっきり分かる、今までにない苦渋に歪んだ表情を浮かべている。必死の形相で、走る姿勢すら崩しながら、駆けていく。
 ぼくもさとも向かいのおじいさんも、マントの動きに合わせて首をゆっくり振った。さとは音楽を聴くように、縦に小刻みに首を揺らしつつ。ぼくはマントの裾を目で撫でるように。向かいのおじいさんは、何を考えているのか分からない。
 おじさんがぼくの前を過ぎる瞬間だった。何かキラキラ光るものが目を刺した。どんどん小さくなっていく黄色いマントに目を凝らす。
 マントにはたくさんの、大きくて平ぺったくて、丸く光を照り返す物がくっついている。真っ白な丸に、一回り小さな黒い丸がきょろきょろ動く。
 目だ。
 ぼくはその、マントについたたくさんの目に見つめ返されていた。マントはひらひらひらひら走り、目もその中でひらひら踊る。
 気づくとぼくは家の中に飛び込んでいた。階段を転げ落ちそうに降りて、靴も引っ掛けずに、外へ。直線道路を、マントのおじさんを追う。
 おにいちゃん。さとの声が降りかかった。でもぼくはマントの目に吸い寄せられる。靴下のまま道路を走る。がさりという紙音、窓を引く軋み。音が後ろから追ってくる。
 ブロック塀が視界の両端を流れていく。マントは突如道を折れた。ぼくは靴下ごしの、尖った石の痛みをこらえて曲がる。
 井戸端会議のおばさんや、自転車を止めている小学生や、手押し車を押すおばあさんが、視界の端に現れてはいなくなる。マントについた目は、その間をきらきら走って走り抜ける。そうしてきょろきょろ黒目を回す。
 マントのおじさんは、右へ左へ、数え切れない位に角を曲がり、速度を緩めず走り続けた。ぼくもひどく息があがって、道の両端にいるはずのおじさんを見つめる人たちも、どんどんぼやけて見えなくなってくる。風景が目の裏で飛び過ぎて、ついに頭の上でぐるぐる回りそうになる。
ようやくおじさんが立ち止まった。見慣れない裏道だった。ぼくも足を止めたが、喉に胃がせり上がってきそうで、たまらず歩きだす。おじさんは自動販売機の前に向かい合って足を止めていた。ぼくはお腹を押さえてマンホールの周りをぐるぐる歩く。そうしながらも、首だけは上にあげて、マントの目とのにらめっこを続けていた。
 がこん。自動販売機の内部の動きに驚いたように、目がいっせいに向きを揃える。その内の一つは、マントからべろりとはがれて落ちた。
 おじさんは緑色の缶を持って振り返った。ぼくには目もくれず歩き出す。ぼくは着いて行く。
 おじさんは道端の茂みの中に入り込み、ずんずん進んだ。ぼくも着いて行って、茂みを乗り越える。靴下はもう泥だらけだ。
 茂みの向こうは公園だった。おじさんはベンチに緑色の缶を置いて、また別の茂みに入っていった。
 ベンチの缶を横目で見て、着いて行く。と、茂みの中から嘔声が聞こえた。
 ぼくは逡巡して、プラスチックのベンチへ戻った。缶の脇に座る。
 ぼくは缶と一緒にマントのおじさんの帰りを待った。夕暮れの公園は、近所の子どもたちでいっぱいだったはずなのに、ぼくとおじさんが公園に入っていくと、蜘蛛の子を散らすように消えてしまった。マントのおじさんに驚いたのだろうか。確かに、彼の風貌は初めて見た時はとても異様に映る。
 缶が大量発汗し終えた頃に、ようやくおじさんは帰ってきた。おじさんは黄土色のタオルで口元をぬぐいながら、缶をぞんざいに取り、プルタブを引き上げ、中身を喉に流し込んだ。戻しそうになるのをこらえて飲み込んでいるのが、肩の動きではっきり分かった。
 おじさんをこんなに間近で見るのは初めてだった。少し生え際の後退した黒い短い髪の鬢の辺りには、白いものがちらほらと混じっている。色味の濃い頬はこけて、髭のあとがはっきり映る。薄い唇を粘り気のある唾液を絡めた舌が何度も舐っている。それでもぼくは何故か、おじさんの目だけはまともに見ることができなかった。血管の走る濁って潤んだ目に、わずかに視線を移すだけで恐ろしくなったのだ。ぼくは丸い鼻と頬のあたりを、じっと見ていることにした。
 おじさんは缶を置くと、マントを手繰り寄せ、くっついていた目を剥がし始めた。死んだように下を向いている目が、灰色の砂の上に落ちていく。おじさんは表情を変えずに、息だけ荒くついて作業を続ける。
 目のいくつかは既に剥れかけていて、爪の厚い指が触れるだけで容易に落ちた。ぼくの見入った目は、ビニール製だった。
 目が剥がし終わると、空白が続いた。声をかけようとすると、おじさんが一つくしゃみをする。ぼくは上手く調子がつかず、黙り込んだ。
――君はずるいなぁ。
 おじさんが独り言つように口走ったのは、随分経ってから、町の夕方を知らせるチャイムが鳴り終わった時だった。へ、とぼくが妙な声を返すと、おじさんは立ち上がって、落とした目を靴裏でにじりつけた。
 目は灰色の砂にまみれ、折れ、ちぎれた。
「走れ!」
 自分で発した言葉を合図にして、おじさんは突然走り出した。ぼくも慌ててそれを追おうとして、おじさんが走りながら手を離したためにすっとんできた缶を、まともに額に当てそうになる。
 おじさんは公園を突っ切って、植え込みを走り越え、アスファルトの道を進んだ。ぼくも何とか後を追うが、日頃運動しつけない体は上手く動かない。さっき酷使しすぎた足はぎしぎし硬く、走る程距離が開く。
 おじさんはこの前みたいに大声をあげていた。誰かを脅すみたいに両手を上げて、ひたすら大股に走る。黄色いマントは小さくなっていく。とてもじゃないが追いつけない。
 でも、もう追いかける必要はないんじゃないかな。ぼくはふと思いついた。あんなに大きな声をあげているのだから、少し見失っても、何処に行ったかはすぐ分かる。それにぼくは元々、マントの目に惹かれて走り始めたんだ。目を剥がしてしまったらおじさんを追いかける意味はないじゃないか。
 立ち止まる理由がどんどん溢れてきて、足を重くする。ぼくは言い訳に従うことにした。両手で膝頭を押さえて、背中を曲げて、大きく息をつく。胃の中を空気が刺すように苦しい。
 ようやく顔を上げられるようになった時には、もうおじさんの姿は見えなくて、耳の底でくすぶるような大声の残響が残っているだけだった。

 *

 午後三時十五分。ぼくがさとの小さな手をとろうとすると、さとはぼくの手を振り払った。
 さとはむすりと唇を結んで、空中にはねつけられたままのぼくの手からも目を逸らす。どこで機嫌を損ねてしまったんだろう。手を下ろして、さとに目線を合わせるためにしゃがみこむ。さとも座り込んでしまって、体育座りで身を硬くして、首をぷいと横に向ける。
 猫撫で声を準備しようとすると、家の外で騒ぎ声が上がった。マントのおじさんがやってくる時間は、いつも道路は静かなのに。ぼくは硬くなったさとを置いてベランダに出た。道路を覗く。
 そこにはすでに、マントのおじさんがいた。それも今日は走っているのではなく、ベンチに休んでいるのでもなく、ぼくの方を真っ直ぐ見上げて立っているのだ。
「見物人め!」
 おじさんは、一声叫んび、ぼくを真っ直ぐ指差した。そうして反応をうかがうように、首を傾げた。ぼくは返す言葉もなく、おじさんの目を見る。
 この遠い距離からだと、あの撥ねつけるようなおじさんの目をみるのに全く抵抗はなかった。その少し目尻の上がった、赤みをおびた目がこちらを睨み返した。
「私は君に感謝をしなけりゃならないのに!」
 おじさんはまた叫んだ。
 新聞を閉じる、がさりという紙音がした。窓を閉める音がした。カーテンを引く音がした。
 向かいのベランダのおじいさんが、柔和な笑みを貼り付けたまま部屋に戻っていった。
「君は意図せぬ笑い者じゃないか!」
 おじさんは家の中に潜んでいった人たちを舐めまわすように確認して、またぼくに目を向けた。
 何を言われてるやらさっぱりわからない。ぼくは髪に手を当てて掻いた。ぼくも向かいのマンションの人たちのように、家の中に戻るべきだろうか。
 すると今度は、背後から泣き声が上がった。見ると、窓の向こう、家の中でさとが泣きわめいている。
 ぼくは体ごと振り返り、窓に手をついた。さとも窓に手をついて、涙やら鼻水やらを垂らしている。
 あれ、そういえばぼくは窓を閉めたんだっけ。
「走れ! 見物人め!」
 おじさんは意味不明の言葉を吐きながら、道路の上で喚き散らしている。ぼくはさとを慰めようと、家に戻ろうとした。元々機嫌が悪いのに、家の前であんな人が叫んでいるんだ、怖いに違いない。今までマントのおじさんを見たことはあっても、話しかけられたことはなかったんだから。
 窓に手をかけた。窓は開かなかった。
 ぼくはガラス越しのさとを見る。さとは泣いている。
「走れ! 走れ!」
 おじさんの声が、耳元でがなりたてられているように届く。ぼくは慌てて、ガラス越しに窓の鍵を確かめた。閉まっていた。
 窓ガラスに、呆けたようなぼくの顔が映っていた。ぼくはぼさぼさの髪を、また掻きあげる。
「家の中に戻るな! 逃げろ! そこの配水管に手をかければ木を伝って庭に降りられるだろう!」
 随分と言葉が具体的になってきたな、と思いつつ、ぼくはガラスの向こうのさとに語りかけた。さと、早く窓の鍵をあけてよ。お兄ちゃん、中に入れなくなっちゃったじゃないか。ほら、そこの鍵だよ。お兄ちゃんの言葉、聞こえてるだろう?
 さとはしゃくりあげながら、右手で左手の手首を掴み、ゆらゆら揺らした。そこでぼくはやっと合点がいく。ぼくがまだ、さとのクラスメートの手首を曲げてないのを怒ってるんだな。それでこんないたずらをしかけるのか。
 明日はきっと学校に行くよ、行ってさとの言う通りにするよ。ぼくはさとに聞こえるように、それでいてマントのおじさんには聞こえない程度に声を張り上げ、何度も頭を下げた。さとは顔をくしゃくしゃにするばかりだ。背後からは、未だにおじさんの不思議なベランダ脱出指南が聞こえる。
「ほら、そこの配水管だ。細そうに見えてもちゃんと外壁に止めてあるから、壁から外れることはない。三年前に取り変えたばかりだから、劣化していることもない。そのつなぎ目に手をかけて、みかんの木に足を伸ばせば届くだろう? 怖ければベランダを伝って、玄関の屋根に乗って降りてもいい。たかが二階のベランダじゃないか、そのまま庭に落ちたって大した怪我もしない。さぁ、逃げるんだ。そこから降りるんだ」
 おじさんがぼくの家のことを知っている気味の悪さより、ぼくはさとの表情を伺うのに夢中だった。さとは首を縦に振る動作を繰り返す。その動作の真意を測りかねていると、真っ赤に潤んだ目をぼくにはっきりと向けた。
 兎みたいな目。ちょこんとした鼻。丸い唇。その唇が、はっきりと動いて言った。
 走れ。
 ぼくは、ガラス窓から手を離した。さとはぼくの一挙一動を見漏らさんとするように目を見開いている。ぼくはベランダの手すりの上に登って、配水管のつなぎ目を両手でつかみ、手すりを蹴って体を宙に浮かし、勢いをつけてみかんの木に飛び移って、擦り傷だらけになりながら庭に降りた。
 庭の洗濯物はすっかり取りこまれていて、窓もカーテンも、ぴったり閉まっている。よろよろと道路へ出ると、マントのおじさんは既に走り出していた。ぼくも仕方なくそれを追う。
背後でからから、窓の開く音がした。小さな女の子の声。
 おかあさん、今日もマントのおじさん走った!

  *

 辿り着いたのは昨日と同じ公園だった。
 おじさんは昨日と同じ自動販売機で買った、昨日と同じ緑の缶を握って、昨日の隣のベンチに座った。
 ぼくも隣へ座る。おじさんは緑の缶の中身を啜って、息を漏らした。
――ありがとう、みだれ髪くん。
 ぼくは、ぼくはみだれ髪さんじゃないですよ、と首を振った。それより、あなたの方がずっとみだれ髪さんらしい。
 おじさんは口角を上げて、缶を持っていない方の手で髪の先をつまんで見せた。
――私のどこがみだれ髪なんだ。こんな短い髪じゃ、ぼさぼさにもなりゃしない。私はただの、マントを巻いて走っている中年親父だよ。
 おじさんはマントをたくし上げ、ぼくに見せた。黄色い、ほつれと汚れの散った布だった。
――これはね、この公園のすぐ近くに捨ててあったんだ。帯に短くたすきに長いが、マントには最適だ。昨日の目ん玉は、坂上の工場の裏にビニール詰めにしてあってね。はくり紙を剥がすとくっつく仕組みだったから、マントにもつけやすかった。
 おじさんはマントからゆるりと手を離した。ほこりのかけらが夕陽の光に散った。
――でも、これだけ目立つ姿をしても、みだれ髪さんには適わない。無意識に人目を集めて逸らせる、君には適わない。
 ぼくはみだれ髪さんなんかじゃないですよ。ぼくはもう一度繰り返した。
 おじさんは缶を地面に落とした。茶色い液体が、荒い砂の上にどぼどぼ広がった。ぼくの記憶が正しければ、あれは牛乳にチョコレートを濃く溶かした飲料じゃなかっただろうか。全速力の疾走の後に飲みたいとは到底思えないけれど。
――誰だって良いんだよ、みだれ髪さんは。私が君だと信じているだけなんだから。日がな一日家で寝たり起きたり、夕方だけは小さな女の子の手をとってベランダに立っている、ぼさぼさ髪の男だって信じているだけだ。……そういえばあの女の子は何処から連れてきたの?
 さとはぼくの妹です。ぼくは作文を読むように平坦に説明した。
――妹? そうか、私も君のような小さな妹がいればなぁ。公園に来ても、今の時代は一人の子なんかいないんだ。みんな親か友達と一緒で、少し遅い時間になれば習い事。そうして、誰も見知らぬおじさんとは遊んでくれないんだ。寂しいなぁ。
 ぼくは腰を浮かしかけていた。そりゃあマントのおじさんが変わった人だとは思っていたけど、さとに危害を与えかねない危険人物だったら話は別だ。絶対に係わりあいは持ちたくない。
 でも、マントのおじさんは、立ち上がろうとしたぼくの膝を上から押さえつける。
――私が路上でおどけて見せれば、たくさんの人が見やってくれる。会社や学校や家庭で、皆が私の話をする。素敵な考えじゃないか?
 そんなに有名になりたいんならテレビにでも出ればいいのに。ぼくは適当に答えて、おじさんの手を剥がそうと試みた。。それより、手を離して欲しいんですけど。
――君は、それが現実的な考えだと思うかい? 可能だと思うかい?
 直接テレビに出るんじゃなくても、仕事で有名になればいいんですよ。上の空で答えるが、おじさんの手はますます力を増して、ぼくの膝をベンチへ押しつける。
 ぼくはおじさんの顔を見た。おじさんは満面の笑みを浮かべていた。
――私は仕事をしているよ。夜、野菜の漬物を作る工場で、野菜を洗うんだ。
 ぼくは、おじさんが大根を消毒の溶けた水につけて、タワシで磨く姿を想像した。
 その想像が気持ち悪くなって、別の話を持ちかける。話に気を取られて、手を離してくれることを望みながら。
 ぼくは、あなたが何かから逃げてるみたいに見えてました。ぼくらの目には見えないものから、逃げてるんだと思いました。
――逃げる? 例えばビニール製の目玉から? それともみだれ髪さんの噂から? 違う、逃げてるんじゃない。私は追ってるんだ。
 はぁ、とぼくは曖昧な相槌を打つ。
――だから君も、毎日小さい女の子の手を引いているみだれ髪さんの称号なんかより、道路を走ればいい。夏祭り会場をふらついたり、新聞に投書するより、ずっと有益な趣味だよ。
 ぼくはおじさんの言ってることがわからなくて、更に憂鬱な気分になった。全く、さっきの道路での叫びといい、意味不明じゃないか。
 おじさんはようやく、ぼくの膝から手を離して、頭の上にのばした。垂れ下がっていた枝から葉をちぎり取る。
――町のみだれ髪さんには、誰だってなれるんだ。
 それなら、あなたがみだれ髪さんになればいいじゃないですか。ぼくはようやく立ち上がって返した。
――違う、私がみだれ髪さんに成り代わるんじゃ駄目なんだ。私は新しい存在として、人口に膾炙する。
 おじさんはくちゃくちゃと葉っぱを噛んだ。
 そうしてぼくが、公園の植物は定期的に消毒剤をかけてるんですよ、と助言すると吐き出した。
 ぼくはおじさんの奇行を見ながら、さとのことを考えていた。家に帰ったら、さとはぼくを許してくれるだろうか。それよりも、先にクラスメートの折れた手首を見せてやるほうがいいのだろうか。
 おじさんは立ち上がる。そうして、口元を拭って、唾を吐いてから叫ぶ。
「走れ!」
 マントのおじさんはまた走り出していた。ぼくは後ろ姿を目で追う。
 おじさんは大げさな身振りで公園を突っ切って、植え込みを走り越え、アスファルトの道を進んでいった。
 その姿を、ぼくは歩いて追いかけていった。もちろん、追いつくつもりはない。ただ、どこまであの黄色いマントが見えるか知りたくなっただけだ。
 公園を出て、道路の真ん中に立った。おじさんの後姿はまだ消えない。今、おじさんの中では、風景が右も左も上も下も飛び去っているんだろう。どこからか女の子の泣き声が聞こえた。ぼくはさとのことをまた思い出す。さとの上手い宥め方を考えたら、家に帰ろう。
 そうして、ぼくたちは、おどけ続ける。いつまでもいつまでも、道路の上でおどけつづける。


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