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彫刻

そして私はナイフを手に掴んだ。

幼少期は可能性に溢れていた。
神童と呼ばれ周囲から期待されていた。
こんなはずじゃなかったのに。
あの頃に戻りたい。

そう思っていた時期もあった。
いかにも凡才が考えそうなことである。

ところで、私は旅行が大好きだ。学生時代は日本全国を奔走し、ノープランで巡りまわった。しかし最近は地に足ついたのか、事前に予定を決めてから旅するようになった。確かに行き当たりばったりもエキサイティングであるが、この予定を立てるという行為がとても楽しい。まだ見ぬ地に想いを馳せて、まだ見ぬ人たちとの出会いを予感する。実際に足を運んで満足はするがこの瞬間がピークであることも往々にしてある。

白いキャンバスにこれから絵を描くように。
無から有を生み出すワクワクを感じる。
いかにも凡夫が考えそうなことである。

同じ芸術であっても彫刻は正反対である気がする。そこらに転がっている木片を削ぎ落としていくと鮭をくわえた熊が姿を表す。それは、招き猫でも宇宙人でもなんでもよかったかもしれない。

絵画は線を書き足して色を重ねて言わば拡散していくが、彫刻は余計なものがどんどん引かれ収斂していく。

無限の可能性を秘めた素材が既製品へと形を変える。可能性が確定されゼロになっていく。

人間の暮らしも同様だ。毎日の活動は可能性を減らしていく作業に過ぎない。年を経るごとに分岐ルートは限られていって人生が出来上がる。やがて、完成した木彫りは再び地面に還っていく。

Twitterに呟けばいいものをわざわざnoteに書きリンクを踏ませる。ハードルが1つ増えるため、その行為はインプレッション数を著しく下げる。

それでいい。
思考の上澄みは閉じられた世界に向かう。
最終的に独りの内的世界に収斂する。

そして私はナイフから手を離した。

なんて出来の悪い。

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