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NHK「ここは今から倫理です」第5話を観ました。

えー「ここは今から倫理です」。雨瀬シオリさんの原作もとても好きな作品なのですが、ドラマ版も原作をうまく使いながらさらに意欲的な作品作りでとても面白く拝見させていただいてます。

で、今回。第5話を観たところでいろいろと納得がいかなかったり過剰に意識してしまったりで、悩んでいるうちにこれはnoteに上げた方がいーんじゃないかってことでUPすることにしました。明らかに周回遅れですみません。

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原作でいうと2巻の中盤と3巻の最終と4巻の最初にまたがった前後編の3つの話をまとめたかたち。コミュニケーション障害(愛着障害?)のために保健室登校をしていて(であるがゆえに)好ましい人には過剰なスキンシップを求める都幾川くんと、かくれリストカッターでちょっとオタ気質な高崎さんのお話です。

2巻の方は学生時代の恩師との会話での「抱いてほしいオンナを抱いてやるのは、極度に飢えた人に今日の食費として渡す500円玉みたいな安直で刹那的な解決にすぎない」がひっかかって「スキンシップを望む都幾川くんにそれを与えることで彼を救うことは倫理的に正しいのか」「教師として彼だけを特別扱いすることは正しくないと思う」「そもそも過剰なスキンシップ自体が一種のセクハラにあたるのでは」とぐるぐるしちゃう頭でっかちな高柳先生。

3~4巻の方は「半年かけて丁寧に倫理について語りかけても、一瞬の激情にかなわない」「教師は生徒が正しく生きるために導く存在であるが時には邪魔でしかない時もある」「エウゼーン(よく生きる)。私にはできていないけれど、あなたはできているのかもしれない」とちょっと愚痴っぽい弱音を口にする高柳先生。
どちらも生徒側より高柳先生の内面にスポットのあたった、いわば「たかやな回」ですね。


今回、ドラマ版で授業テーマになっていたのは「心身二元論」と「身心一如」。原作とは全然違うテーマ選定で、そもそもあんまり思想的なことには踏み込んでません。
原作には出て来ない高崎母の「あなたのからだは神様からいただいた宝物なのよ」とか、都幾川くんの(これは原作にもある)「せんせい、ぎゅっとして」とか「たいせつにして、高崎さんのだいじなからだなんだから」とか高柳先生が保健室の藤川先生に語る一連の言葉とかとか。
こういったセリフを受けて「こころ」と「からだ」の関係性を視聴者が強く意識することを目的にテーマ選定がされていたようで…いろいろと、こう…「クローズアップ現代」のニオイがする回でした。

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こころとからだを切り離してしまうことの危険性については、20年ほど前、統合人格失調症と鬱状態のあげく「いつのまにかビルの屋上のフェンスの外でぼんやりと風に吹かれていた」り「実家に帰って数か月ほど海を眺めていたらようやく泣けるようになった」りした経験があったりするので、なんだか過剰に反応しますね。
意識的にでも無意識にでもこころとからだを分けてしまえば「からだに襲い掛かるさまざまな理不尽からこころを守る」ことが出来るのですが、いっぽうで「辛い思いしかさせてくれないポンコツなからだはやがてこころに見捨てられてしまう」のですよ。統合人格失調症による自殺念慮というのは、こんなプロセスで起こる…らしいです。まあ、少なくとも僕には心当たりがあります。


今回、そういう意味でドラマ版の高崎さんのケースはやけに気になっているのです。

原作だと彼女はわりとカジュアルなリストカッターでした。
親との言い争いだったり自身の容姿やオタキャラ的な部分へのコンプレックスだったり、自分を襲う言語化レベルに満たない小さなストレスを解消してすっきりするための「切っちゃお―かな」。
だからこそ都幾川くんの「たいせつにして、高崎さんのだいじなからだなんだから」ということばが彼女の「ごめんね」を引き出せたんだと思うんですよね。

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ドラマ版では高崎さんのこころをめぐる環境はもっと深刻に見えます。

なんらかの宗教らしきものに傾倒している母親から、そしてその教団に所属していると思われる「ママのお友達」から押し付けられる「狂気じみた善意という名のエゴ」に高崎さんの自我は脅かされています。
高崎さんは「勝手に土足で踏み込んでくる奴ら」から己を守るために自室に内カギを付け、耳をふさぎ、ただカッターの刃が与えてくれる痛みと湧き上がる妄想だけを糧として生きています。切り傷は両腕では足りず、わき腹や太ももなど制服で隠せるあらゆる部分に及び始め、「最近手加減がうまくいかなくなってきてるんだよね」という台詞が、より強い痛みを求める傾向にあることを示します。


鏡に映る体の傷を見つめながら「この傷は私が生きている証だ」と厨二じみたつぶやきをもらすオープニングシーンの重さは、原作にはなかったものです。

高柳先生の言う通り「隠されていることを知ることはできない」。

そういう意味ではいち子さんの「あの子暑くないのかな」からの「あたし藤崎先生呼んでくる!」への察しは、なにか経験がもたらすものな気がしますね。

ここまでの背景のある彼女のリストカットを誘発するこころの痛みは、はたして都幾川くんの腕の温かさと心からのことば(だけ)で癒されるものなのでしょうか。高崎さんの脅かされた自我に与えられた「からだのぬくもり」という癒しはとても刹那的に見えます。それこそ高柳先生の回想シーンで語られる「極度に飢えた人に今日の食費として渡す500円玉(明日のことを考えない刹那的な善行の意)」ではないのかと、私自身には感じられました。

しかも原作を読んでいる私は、そもそも都幾川くんの激発が「高崎さんの行為を止めようとした」のではなく「極度の刃物恐怖症に起因するパニック」であることを知っています。「結果オーライだからそれでよし」とするにはちょっと杜撰すぎるように思うのです(ドラマ版では極度の刃物恐怖症という設定は出てこないので、そこは割り引いてもいいですが)。

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…絵面が美しけりゃいいってものじゃないわよ(ぼそ

さて、話をころっと変えます。
このドラマ、いつもキャスティングがものすごく秀逸だなあと思うのですが、今回はちょっと極端だなあ、と。

都幾川くん役は、最近実写映画版「約ネバ」でのノーマン役で大絶賛、僕たちおおきなおともだちには仮面ライダージオウのウール少年というとわかるのかしら。4月からは読売テレビで主演も決定(ジェンダーレス男子!)という大注目株、板垣李光人。
高崎さん役は2016年のホリプロスカウトキャラバンの歴代最年少の12歳でグランプリ。昨年まで4年間、10代目ピーターパン役を務めたホリプロ演技派女優陣の秘蔵っ子、吉柳咲良。

いやあ豪華豪華。
キャストはオーディションで選ばれたというハナシなんですけど、都幾川くんは指名じゃないのーってぐらいのハマりっぷり。板垣君、原作のキャラにすごく寄せて演じてました。吉柳咲良さんは最初教室にいる姿を見たときは、ビジュアル的に高崎さん役じゃなくて原作第2話の眼鏡っ娘な委員長さん役かなーと思っていたのですが表情と内心の声の演技がともに素晴らしかったです。


さて次回、第6話は「他人としゃべらない曽我くん」と「受験以外の勉強がしたくない田村くん」のお話ですね。気軽に観れるといいなあ。

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