今年一番のクリスマス物語・・・【映画「パコと魔法の絵本」感想】
※2008年11月に某所にアップした文章の転載です。
映画「パコと魔法の絵本」作品紹介:
『下妻物語』『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督が、伝説的な舞台「MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人」を映画化。変わり者ばかりが集まる病院を舞台に、1日しか記憶が持たない少女のために、大人たちが思い出を残そうと奮闘する姿をファンタジックに描く。役所広司、妻夫木聡、土屋アンナなど豪華キャストが出演。クライマックスで役者たちを3DのフルCGキャラクターに変身させ、彼らの生の演技と連動させていく大胆な演出に注目
(Yahoo!映画より)
・・・えーと、豪快に「ネタバレ」してます。しかもえらく長文です。勇気を持ってお進みください。
さて観に行ったのはずいぶんと前のことになりまして、それから何人もに「おススメですよぉ」と言い続けた挙句に、3人ぐらいに先行して感想書かれちゃったりしたりなんかしたりして(cv:広川太一郎
いやなんというのか、どうにもいいたいことが一杯ありすぎて、しかも渾然一体となって自分のなかで整理できないまま、ううんとうなっておりましたら10月11月と時が過ぎていた次第。
みなさんの感想を読んだりコメントをつけたり、ときどきノベライズをぱらぱらとめくりつつ「音読」したり(ww。脳のどこかで再構築の作業がされていたらしいのですが、どうやら「エンゲキテキ省略の魅力」と「テーマのキリスト教的掘り下げ」の2つに分けて説明しないとダメっぽいなあ、ということが判って・・・ようやくなんとなくまとまってきたので、とりあえずは後者の「テーマのキリスト教的掘り下げ」の方から行ってみようかと・・・考えてみると中島監督の前作『嫌われ松子の一生』でもその辺でいろいろ考えてたんだよな。
前作について、オイラは「昭和の高度成長期を生真面目に精一杯生きたマグラダのマリアの物語」と呼びました。その伝で今回の作品を言うならば「古い修道院の建物を改装した病院で起きた奇跡を描いた心洗われるクリスマス物語」というのが良いのではないかと思います。
日本ではあまりなじみがありませんが「クリスマス物語」というのはキリスト教圏ではわりとポピュラーな児童文学のジャンルです。
もちろん「イエス・キリストの生まれた夜」にまつわる様々な伝説を語るものがスタンダードですが、それだけではなく「クリスマス」という時期を選んで描かれる様々な「人の心を暖かくする(そして神様がおこしてくださった奇跡を感じさせる)エピソード」を紡いだ作品もまた、そのカテゴリーに属します。
最も有名なのはやはりディケンズの「クリスマスキャロル」でしょうか。O.ヘンリーの「賢者の贈り物」やオルコット(「若草物語」で有名な)の「おばあさまの天使」なんかが正統派。ケストナーの「飛ぶ教室」も捨てがたいクリスマス物語ですね。
映画だったら有名な「34丁目の奇跡」。「ユー・ガット・メール」なんかもそうじゃないかな、「シザーハンズ」や「チャーリーとチョコレート工場」も・・・いや「チャーリー・・・」は(本質的な意味で)違うかな。
・・・季節はクリスマスじゃなかったと思うけどその気になって観ればルドガーハウアー主演の「聖なる酔っぱらいの伝説」なんかもこのジャンルかもしれません。
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この作品は後藤ひろひと(元「遊気舎」の座長・現G2プロデュース)作・演出の演劇「MIDSUMMER CAROL ガマ王子VSザリガニ魔人(http://www.g2produce.com/parco/msc2008/index.html)」を原作にしているのですが、そもそもこの作品を執筆するにあたって、ディケンズの「クリスマスキャロル」のような長く愛される物語を書いてみたい・・・という思いがあったのだそうです。
構成、演出や美術上の理由で「夏のお話」になってしまってもタイトルを「MIDSUMMER CAROL」としたり、病院で行われる「恒例の演劇祭」を「サマー・クリスマス」と名づけたりしたのはかなり「クリスマス物語」としての作品意識が強いのではないかと思います。
さて、作品内容的に「ナニがどうクリスマス物語なのか」といいますと。
サブテーマ的には「室町の更正」と「タマ子の献身」とか「滝田の心意気」とか「木ノ元の悔恨」とかいろいろ「泣かせポイント」が満載されているくせに、極めてシンプルに作られたこの映画のもっとも重要なテーマは「パコとの出会い、そして別れ」を通じて描かれる「大貫老人の改心」であることは明らかでしょう。
どうしたんだろガマ王子。涙がいっぱい出てくるよ。
これまで自分がやったこと、壊したお家に食べた花。
どれもが悲しくなってきた。
ごめんよみんな。
ごめんよみんな。
ぼくはとってもばかだった。
どうしてなのか知らないけれど、涙がいっぱい出てくるよ。
いままでみんなが流しただけの涙がぼくから出てくるよ。
許せない、許せない、ザリガニ魔人を許せない!
いままでいっぱいひどいことした、ばかでまぬけなぼくだけど、
なにかみんなにしてあげたくて。
だけど強いよザリガニ魔人。ぼくはそろそろ死んじゃうよ。
けれど何度も立ち上がる。不思議な力がそうさせる。
王子のおなかのお花が光ると不思議と力がわいてくる。
ザリガニ魔人のハサミのせいで、体はすっかりぼろぼろだけど
勇気をあるだけ振り絞り、何度も何度も向かってゆく!
―幻冬舎文庫「パコと魔法の絵本」(著 関口尚)より
劇中で何度も繰り返し音読される「ガマ王子VSザリガニ魔人」のストーリーとオーバーラップし、最後には自ら「ガマ王子」を熱演(このクライマックスシーンのCGとリアルアクションのオーバーラップは映画ならではのもの。必見ですよ?)する大貫老人。役所広司演ずる彼の姿や声の細やかな細やかな変化によって、彼に起こった「奇跡」が印象付けられて行きます。
劇中、主治医である浅野に大貫老人はこうつぶやきます。
「・・・あの子になにをしてやったらいいかわからんのだ」
「私は、ただ明日もその次の日も、あの子の心の中に居たいんだよ」
大貫老人の凍てついた心を溶かした笑顔、パコにその笑顔を毎日与え続けるため「毎日パコと絵本を読む」ことを決意をする大貫。パコに絵本を繰り返し読み聞かせるごとに大貫の心には深い反省と後悔が生まれていきます。
「お前がわたしのことを知ってるってだけで腹が立つっ!」が口癖の、他者を信じず、蔑み、自らを頼むことでしか、世の「弱者」を憎み常に「強者」であり続けることでしか「己を認める」ことも出来なくなってしまった独りよがりで孤独な大貫老人。
彼の心を変えたのは、記憶をとどめることのできない不幸な、そしてそれが故に純粋で無邪気な少女をあやまって叩いてしまったことをきっかけに沸き起こった自身の人生への深い悔恨でした。
大貫老人と「前日の記憶を持つことが出来ない」パコを結ぶ奇跡の絆は「毎日パコの頬に触れること」で起こります。
「あれ?おじさん、前にもパコのほっぺに触ったよね?」「ああ、おじさんは大貫だ」
なにも覚えているはずの無いパコの中に、ただひとつ奇跡のように残っている自分の存在。パコの頬に触れるたびに起きる甘やかな奇跡。
ですが・・・僕は思うのです。
それは、本当はとても苦痛を伴う作業ではなかったでしょうか。なぜならパコの頬に触れることは大貫にとって「パコを自分の誤解と狭量から思い切り叩いた」記憶を呼び覚ます作業なのですから。それでも自分の過ちを毎日痛感しながら大貫はパコの頬に触れ続けます・・・そんなことをしなくたって「毎日パコのために絵本を読んであげること」は出来るのに。
それは大貫が毎日自責の念とともに自らの決意を呼び覚ますためだったのではないでしょうか。
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この映画の大貫の中に僕は「聖ペトロ」や「聖パウロ」、そして「聖トマ」といった初代のキリスト者たちの姿を見るような気がします。
師イエスの処刑を翌朝に控えた夜、処刑の前にひと目でもイエスに会うために公邸に潜り込む情熱家ペトロ。
だがそのために彼は、師イエスの言葉通り、朝を迎える前に三度「イエスの弟子である」ことを否認します・・・イエスの一番弟子であることを本当に誇りに思っていたはずの彼が三度イエスを否んだ時、鶏が朝を告げ、師の言葉を思い出したペトロは激しく慟哭します。
聖パウロはイエス自身とは直接の関与が無いのですが、もともと熱心なユダヤ教徒でイエスの弟子(初代のキリスト教徒)たちを弾圧して廻っていました。そんな彼が主イエス・キリストの光に触れ、「キリストを伝えるもの」となった時、かつての「迫害者」である自分とどうやって折り合いをつけていこうとしたのか。
ご存知のとおり二人は、激しい弾圧のなかユダヤからギリシア、ローマの教会を歴訪し熱心にキリストの福音を述べ伝え、最後はローマで殉教を遂げます。伝説では十字架刑にかけられようとしたペトロは「主イエスと同じ死に方は畏れ多い」と逆さ磔で死んだのだといいます。
そして聖トマ。聖書にはこうあります。
『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」というと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』(ヨハネによる福音20章25~29節)
彼は極めて理性的であったのかもしれません、でも「師イエスの復活」を信じられなかった弱い心の持ち主だったのかもしれません。「見ないのに信じる人は、幸いである」と復活した主イエスによって、その弱さを自覚した彼の行動はどうだったか?
まさに彼は「見ないのに信じる」幸いな人々を探し出す旅の果てに命を落としたのでした。彼は十二使徒の中で最も遠くまで、当時ローマ人と交易のあった最果ての地であるインドへと布教に行き、そこで全身に槍を受けて殉教したと言われています。
彼らのこの無茶としか思えない「キリストを述べ伝える」エネルギーの出所を「一旦は主イエスを否定したこと」、そして「にもかかわらず主によって使命を与えられたこと」に見出してしまうのは間違っているのかもしれません。ですが僕にはなんとなくそう思えるのです・・・多分に遠藤周作の「イエスの生涯」「キリストの誕生」の二作(ともに新潮文庫)の影響を受けていることは否定しませんがw。
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繰り返しにはなりますが、この作品は僕にとって「古い修道院の建物を改装した病院で起きた奇跡を描いた心洗われるクリスマス物語」でした。
「後悔が人を強くする」というとなんか安っぽくなりますので、言い換えましょう。
「悔い改め、祈りのうちに努力することで人は神のもとに義とされる」のです。
僕は劇中の絵本を読み聞かせる大貫の姿に「神の義」を観たような気がします。
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