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死者は急がない。【映画「おくりびと」】

※2008年11月に某所にアップした文章の転載です。

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えーと、映画「おくりびと(http://www.okuribito.jp/)」観てきました。
よかったです。


モックンのむっちりしたハダカと広末のいい具合なフケ具合が


もお、いいのよー、モックンのヌード。
正直42歳とは思えないよーな張りのあるいい筋肉と実用的な脂のバランスでした。いいわあ・・・あのカラダ(たぶんすごーく兄貴系のホモ受けするわよ、アレ


てゆーかさ、あの夫婦「30代後半の奥さん」役のキャスティングに難航して、広末さんに決まった段階で脚本を修正。「チェリストの大悟にあこがれて結婚した」実年齢どおり42歳と28歳で年齢差14歳の「歳の差」カップルとして設定したんだそうですが・・・どう見ても本木さんが30代半ばより若い感じなのでそう見えないって言うか明らかにめっちゃ「若夫婦」だったですよね。
・・・同級生役の杉本哲太(実年齢43歳)とその妻役の方が可哀そうになったぐらいw


・・・いやいや、落ち着け。はいしんこきゅー。


ううむ、おススメです。 たぶん邦画ファンの皆様にはとってもおススメですよ。


本木さんもヒロスエも・・・山崎努もすげーよかった。哲太もよかったしな。
申し訳ないけれど「本当に死んでさえいなければ」峰岸さんもスゴく良かった。死体役にホンマに死なれちゃったら正直洒落にならないよ、悪い意味で現実に戻っちゃうからね、やっぱり。


納棺士としての本木さんの所作の美しさとか、背景にしている様々なロケーションとか、室内のライティング具合とか、すごく美しい映画だったの。うーんと『幻の光』(1995年 是枝裕和監督 江角マキコ主演)とか、『さびしんぼう』や『はるか、ノスタルジィ』(いわずとしれた大林作品、主演はそれぞれ富田靖子、石田ひかり)とかに印象が近い。


・・・どうでもいいけどよく考えるとみんな「死者を眼前にして、どう生きるのかを考える」映画ばっかりだな、コレ。


映画の中で、季節は秋、冬、春と巡ります。
山形の秋の終わりには鮭が遡上しオオハクチョウが越冬のために飛来するその町の、田舎町らしさ(酒田市の皆様ごめんなさい)が、映画の中の心象風景ととてもマッチしていて美しかった。
日本映画に「雪」と「桜」って付き物ですがこの映画でもいい効果を生んでます。


そして静謐な冬の川原にチェロの響きが良く似合っていた。
チェロと言う楽器の帯域は、ほぼ男性歌手(テノール~バリトン)のボーカル帯域と等しく、そのゆったりとした音色で心に落着きをもたらす効果が高いといわれますが、まさにそういった印象。


監督:滝田洋二郎、音楽:久石譲ってのは伊達じゃないよね、実際(まあ、全編チェロとオーケストレーションだったので、音楽:溝口肇・・・?、と思ったのは内緒


そのチェロの響きと山形の自然の映像やSEをバックにした、本木さんの少しかすれた儚げなセリフ回し。いわゆるDMS(ダイアログ/ミュージック/サウンドエフェクト)の同心円が、日本の映画にしては巧く作用していたと思います。そういう意味ではシアターのデモに使えそうなシーンが意外に多かったかな、とコレは収穫(BDで出たならば、ですが)。


・・・でね、ここからはちょっと違う話。


なんだろうなあ。 オイラ、この映画観てはっきりと痛感したんですが、下手をするとオイラは、両親の葬儀でも「来訪者のタクシー手配とか平然とできる」ぐらい冷静でいられる・・・かも。


これはちょっとした主人公への共感でもありますが、死者を前にしての心構えというのかなあ。


うん、葬儀というのは死者のためではなく生きているものたちに「彼(彼女)は死んだのだ」ということを納得させるためのものなんですよね。そしてそのお手伝いが出来ることはとても大事なこと。
肉親の死という悲しみをお棺に入れて荼毘にふして、お墓に納めて、いそいでいそいで思い出にしてあげなくてはならないのはいつだって「生きているものたちの心」の方なのですね。


この映画の中では幾度となく葬儀のシーンが出てきます。そこには様々なシチュエーションで「肉親の死を受け入れられないヒトビト」の姿が描かれています。そして納棺士の手によって「(見慣れない)死体」が「(肉親の)ご遺体」に変ずる時間を経て、ショックで止まってしまった「やり場のない感情」が静謐で暖かい「悲しみ」に変化していく、そんな姿が丁寧に描かれます。あえてBGMはなく、衣擦れの音、脱脂綿を詰めたり、清拭したりする音、剃刀のすれる音や化粧刷毛の音、室内の暗騒音も交えた様々な音が納棺士の緩やかで正確な所作とともにゆっくりと心に満ちてきます。


・・・オイラ、爺さんの葬儀では火葬場に向かうお棺にとりすがって泣く母や叔母の姿を見ながら「ああ劇場型の性格ってこういうときに便利だなあ」と思いながら、少しだけ輪の外に立って「次にやること」の段取りを考えてました。


参列した葬儀場、結婚式場で「係りのヒト」扱いされたことは数知れず、またその際大抵は要求を叶えてきた(トイレの説明とか、タクシーの手配とか場内の道案内とかな)。祖母さんの葬儀の際ですら、火葬場で隣の斎場の来訪者のタクシー手配したねぇ。


地元の教会では冠婚葬祭の司会進行を何度かさせていただき、特に葬儀では「本当にいいお式でした。ありがとうございました」と御礼をされることも多かった。喪主が信徒さんではない(=知り合いではない)ケースだと、本職の司会だと思われて別にお礼包まれちゃったりして「いえ、私はこの教会所属の信者で典礼の担当なので、金銭は頂いてないんですよ」って答えるとすごくびっくりされたりしてw
・・・「いいお式」のコツはね、台詞や段取りの呼吸を「喪主の隣にいるヒト」に合せていくことなんです。そうするとご遺族の皆様が、いいタイミングで「泣けたり」「ご安心されたり」するようです。


実際のところ、ずいぶんと長い間オイラは自分のこういう「情の薄い(と感じている)」部分を、非人間的で疎ましいものと感じていた(そしてその一方でときどき爆発的にゆれ動くこともある自分の感情をもて余してもいた)もので、その意味ではこの映画に感謝かもしれません。


死者を前にしても、そこが「儀式」の場であると「左脳が優先的に動く」タイプのオイラですが、それはそれとして「そこに参集された皆様」と一緒に「死者をお送りする」ことはちゃんとできるはず。


人は誰でもいつか、おくりびと、おくられびと――。


と、映画の解説文では書かれていますが、「おくりびと」も「おくられびと」も、どっちも参列している人々のことなんじゃないかとオイラは思います。


栗本薫の古い作品に「猫目石」というおいらの大好きなとても美しいミステリがあって、その最後の謎解きに向かう前のシーンに、「死者は急がない」という台詞があります。


そう、死者は急がない。


「いってらっしゃい、あっちでまた逢おうの」


そう言って今日を生きていくために、大切ななにかを与えてくれる、そんな映画です。

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