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映画だから、だからこそ。【Les Miserables】

※2013年2月に某所にアップした文章の転載です。

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先日・・・えーと1月の終わりに、話題のミュージカル映画「Les Miserables」を観てきたのでした。

「話題になるワケもわかるし内容もけっして悪くはなかったと思う・・・のだけれど・・・個人的にはあんまり「映画にしたことがプラス」な感じはしなかったなあ。
うーん、「オペラ座の怪人」と「マンマ・ミーア」のダメなトコ集めた感じ?ってのが今の正直な印象でした、スミマセン。 」

ってのが当日つぶやいた感想。
いい作品なのになあ、どうにもお話に集中できなかったなあ、って感じ。

この時点で実のところ大枠で「ナニが気に入らなかったか」は見えていたんだけどなかなか書く気が起こらなくて・・・、これが「ドコが気に入った」の話だったらぜひ観に行ってほしいから寝る間も惜しんで書くんだろうけどね。

まず最初にことわっておきたいのは、ボクはミュージカル映画好きだってこと。
もちろん舞台のミュージカルも好きだけど、ミュージカル映画のほうが好き。
理由は至極単純「気持ちよく英語で歌ってくれて字幕で話が理解できる」から。
タモさんの言う「いきなり歌いだすのが恥ずかしくい」って感覚はないけどまあ、ちょっと覚悟はいるわよね、翻訳ミュージカルって。

・・・それはともあれ。いい作品なのになあ、どうにもお話に集中できなかったなあ、と感じた原因は「観客が確実に呼べる」「ハリウッド大作」の「ミュージカル映画」を作ろうとしたから・・・だろうと思う。
勝てる要素を注ぎ込みすぎて、結果すべてが中途半端になった印象。
特に気になったのはふたつ。「キャスティング」と「リアリティ」。

ひとつめ、キャスティングのこと。

ポスタービジュアル。
欧米圏では舞台版のイメージで動員できるから子役のコゼットだけのものがメインで使われているらしい。
国内だとソレだと動員できないと判断されて、おなじみの4人のおなじみの顔で並んでます。

でも、このキャスト。

ヒュー・ジャックマンVSラッセル・クロウの対決シーンはヤッパリいつ、チタンの爪とローマ剣闘士の剣で斬り合いになるのか、ってのが頭を掠めるよね。こういってはなんだけど当たり役に嵌っちゃって身動きできなくなっている大物俳優に一皮剥けたキャラクターを、って意図が見え見えすぎ。

オープニングで髭の囚人をやっているときのヒュー・ジャックマンのギラギラ感にはちょっと期待したんですけどね、そもそもミュージカル畑の役者さんだし。でも後半になればなるほど、いつもの「悩めるヒーロー」としてのヒュー・ジャックマン、「鉄の意志」のラッセル・クロウが強調されてなんだかなー、正しいキャスティングなんだけどなーどうにもなーってもやもやしました。

 
アン・ハサウェイの「夢やぶれて」は確かに舞台ではできないウィスパーボイスでの悲嘆にくれた歌いっぷりがすごかった。

けど、そもそもファンティーヌって原作はもちろん舞台版でもあんなに強調されてないキャストでしょう。髪を切ったのはともかく奥歯抜いたのはダメだろ?当時の入れ歯用に売るならちゃんと原作どおり「かわいらしい前歯」を抜かないと、とか意地悪なことが言いたくなるぐらいのフューチャーっぷり。「ココが売り!」みたいなゴリ押し感がどうにも鼻についていけません。


キャットウーマンのセクシー路線ともども「大作でヨゴレやってステップアップ」ってやる必要あったのかなあ。プリティ・プリンセスから引きずってる清純派路線で、プラダ・・・とかアリス・・・みたいな役柄を続けるのは本人が嫌なのかなあ??ボク好きなんだけどなあ、白の女王w

コゼット・・・世界的「わたしの天使」のコゼット役にアマンダ・セイフライド・・・ごめん、この人が「天使」をやるとただの「バカ」、「考えなし」に見えるのは絶対「マンマ・ミーア」の役柄がとても好きだからだ。あきらかに偏見なのは認めるけど、コゼットがちゃんと無垢で美しくなきゃ、死んだエポニーヌが浮かばれないよな。・・・あ、子役のほうはとってもコゼットでした、ぱちぱちww


それから、テルナディエ夫妻役のサシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボナム=カーター。
はっきり言えば、スウィニー・トッドのインチキ薬売りと人肉パイ屋がそのまんま夫婦で登場、ってことでコメディリリーフとしてどのキャストよりも達者な演じ手ながら抜群の既視感。

何が言いたいって、やっぱり主演にメジャー俳優ではなく、確実に歌いきれる人材を最優先で投入した(ファントムのジェラルド・バトラー、クリスティーヌのエミー・ロッサムともに映画は初主演ながら舞台やオペラでのキャリアから抜擢された)「オペラ座の怪人」とキャストの話題性(おいおい、メリルストリープとピアース・ブロスナンでミュージカルって大丈夫か?ってのも話題のうちじゃね?)って飛び道具があたった「マンマ・ミーア」の両作品の成功を考えると、今回はどっちかといえばキャスティング的に失敗作な気がするのよね。

その意味では、舞台版でもエポニーヌを演じたミュージカル界のホープ、サマンサ・バークスと イートン校からケンブリッジを出た本物のセレブ俳優、マリウス役のエディ・レッドメインは納得のキャスト。正直なところこういう映画はメジャー俳優より実力があって世間にカオを知られていない役者が生きる場だと思います。

結局、映画(映像作品?)って舞台と違ってキャストを演じ手として観るのが難しいんだよなあ、ってあらためて感じます。
舞台はどんなに当たり役があっても別の役を演じればその役での演技を楽しめるし、そもそもがロングランヒットの舞台だとキャストはどんどんロールしていく。歌舞伎なんかだと「先代の当たり役を当代がどう演じるか」が興味の中心になってお客が入ったりすることもある。

でも映画では、なんだかんだで役者が「その役を生きて」しまう。

渥美清が生涯「車寅次郎」であり続けなければならなかったり、嶋田久作が街を歩くと子供に「加藤が来たーっ!」と全力で逃げられたり。アンソニー・ホプキンスのレクター教授、ジェレミー・ブレッドのホームズ、ピーター・フォークのコロンボ・・・キャストと唯一無二の組み合わせになってしまうことの幸運と不幸。
もちろん日本で同年に公開された「マルコヴィッチの穴」と「チャーリーズ・エンジェル」で観たキャメロン・ディアズの変貌っぷりのように、まるっきり違ういくつもの貌を演じることができるケースもあるとは思うのですが。

・・・まあ、そもそもがどうにも舞台よりも出来が悪いと思うのですが(ぼそ

ふたつめ、リアリティのこと。
ミュージカル映画って、ボクは2つに分かれると思う。

ひとつはマンマ・ミーアやヘアスプレー、プロデューサーズにスウィニー・トッド、あとシカゴ。
チキチキバンバンはこっちだろうな。メリー・ポピンズとマイ・フェア・レディもこっち。

もうひとつはオペラ座の怪人、ドリームガールズ、ウォーク・ザ・ラインとか。
王様と私やサウンドオブミュージックもこっちかな。あとウエスト・サイドストーリーも。

一言で言えばエンタメ路線かリアル路線かっていうコト。

レ・ミゼはもちろんリアル路線で、ソレもかなりカネもかけ気合も入った作品なんだけど、ドリームガールズやオペラ座の怪人に比べていまひとつリアル路線じゃなかった。
時代感を感じさせるリアリティだけとれば、スウィニー・トッドやヘアスプレーのほうが良くできてたんじゃないかと思う。


もちろん建築物などロケ、セットともに当時(1800年代初頭)のフランスの再現しようと、非常な努力がなされていたし、衣装や化粧、アップで観る役者陣の容貌の変化(・・・まあ、アン・ハサウェイのことだ)などもきちんと丁寧な仕事だった。そこは「英国王のスピーチ」のトム・フーパー監督ならでは。オープニングの大型軍艦を囚人たちが牽引してドックに引き込むシーン(とそこに引き続く「旗をとって来い!」の名シーン)のスペクタクル感、釈放されたジャンバルジャンが眼下に見下ろす荒涼たる山並みや、ジャベールの歩く「端」の背筋が寒くなる高さ、そういったリアリティを描き出しえたことは、舞台に対する映画の最大のアドバンテージだと思う。

この面で足りなかったのはニオイ感と闇の暗さだったなあ。
当時のパリの街(にかぎらず欧州の都市)の汚さというのは有名ですが、その汚さの頂点である貧民街、そして身の毛もよだつ下水道を表現するにはあまりにもお上品だったかなあ、あの表現は。
下水の中引きずられたマリウスを引き上げたら、まず噴水にでも叩き込んで、その場で盛大に嘔吐するだろ、バルジャン。

ここら辺のニオイ感をものすごく上手く、あざとく表現していたのが「スウィニー・トッド」。
基本は同じようなことやってたけど「スウィニー・トッド」の圧勝。
端的にパイ屋が麺棒でG叩き潰すあの一瞬で完勝ですし、冬の寒さや貧困の絶望感、吐き気をもよおす様な汚さへのリアリティ追求と鮮やかな演出はティム・バートンならではの表現でしょうね。まあ、R15+指定だし。

・・・考えてみりゃ、この作品でジョアンナ役をアン・ハサウェイがやってたら(当初はその予定だった)、ファンティーヌ役のインパクトはもっと大きかったかもねえ。ジョアンナは完全にコゼットのポジションだもんなあ。

闇の暗さ、というのは夜だけじゃなくて下水道のシーンなんかも含めて、「真っ暗だから顔がわからない」、「ろうそくやランタンじゃ表情が読めない」といった陰影による演出が薄かったなあ、ってこと。脚本上ではそれを意図する演出がいくつかあるんだけどそこが上手く表現できてない。
当時の照明の暗さを考えればそういう舞台では難しい演出は入れておくべきじゃなかったのかなあと思う。たとえばエポニーヌの表情にマリウスが気づかないところや、街娼のなかでファンテーヌに工場長が気づくシーン、あと下水でテルナディエに出くわすシーンなんか闇の中でぶつかり合ってののしりあった挙句、あとで指輪でマリウスと気づく時に「ああ、あの声はジャンバルジャンだったか!」と気がついたほうがリアルじゃないかと思う。

また一方で、シーンのリアリティを追求したことで、舞台を基にしたミュージカル映画として観たときのバランスの悪さを随所に感じることになったのも事実。


ジャン・バルジャンの「ワット アイ ハブ ダン?」、ファンティーヌの「夢破れて」、ジャベールの「星よ」、「民衆の歌」に「ワン デイ モア」に「カフェソング」。名曲の終わりに観客の大拍手で暗転、次のシーンにつなぐミュージカルならではのシーン構成の連続。これ、拍手しながら転換で一休みできない映画では実のところ気持ちの切り替えがうまくいかない。

しかもほぼ全編にわたり途切れることなく続く歌唱シーンは、だいたいバストアップで歌わせて、音的にもバックミュージックと歌声だけのサラウンド感もへったくれもないサウンドメイク。
歌わないところではそれなりにD・M・S(台詞・音楽・音響効果)をきちんと狙ったサラウンド構築を組んでくれるシーンがあるだけに、この歌唱シーンののっぺり感には興ざめになるばかり。

実は、ここら辺がものすごく上手だったのが「オペラ座の怪人」。
たとえばクリスティーヌのデビューシーンでの「シンクオブミー」。リハ舞台の奥で歌い始めて、舞台上に進み、歌うままに舞台は本番へと変化、万雷の拍手とともに地下のファントムに届く歌声。
これらの一連の表現がビジュアルだけでなく「サラウンドによる空間表現を変える」ことでリアリティを描き出していきます。

某映画評論家は「演出と編集がダメ」とばっさり切ったそうですが、「オペラ座」ではあくまでも映画としてストーリーを展開しつつ歌を挿入するというやり方、「レ・ミゼ」では、全編を歌で結んだ編集で、ただ力押しな感じだったのは否めません。

この力押しが逆に功を奏していたのが「マンマ・ミーア」で、あれはともあれ「ミュージカルだから歌ったらOK」みたいな舞台のゆるさをうまく利用できてたと思う。映画としては微妙だけどね。

さてさて、長々駄文を書いてきたけれど、このへんで。
・・・でも、たぶん6月にBD出たら買うんですよ、ボク。

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