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心の洗濯

私って雑巾みたいだな。と思った。古くなって使い捨てられた雑巾みたい。もうボロボロだし、見た目も悪いし、臭いし、その辺に落ちてる。
雑巾ってどんな気持ちなんだろう。最近の雑巾は雑巾としてつくられてるものも多くて、100均とかで真っ白の「ぞうきん」として売ってたりするけど、私の知ってる雑巾は、最初は洗面所でお顔を拭くふわふわのタオルだったアレだ。洗面所から、台所に、脱衣所の床に、どんどん格下げされていって、最後に形も変わって、けばけばになった頃にデビューしたアレだ。
それだって「あたらしい雑巾」と「終わりかけの雑巾」は違う。私は終わりかけのほうだ。その辺に落ちてるんだ。うわーん。

雑巾は自分のことどう思ってるんだろう。これまで経てきた遍歴のことを誇りに思ってるんだろうか。なのに今は汚い床にこすりつけられている自分を「自分はこんなもんじゃない」って思うのかな? それとも「雑巾になるまで使ってくれてありがとう」って周りに感謝してるだろうか? 意外とプライド高い雑巾もいるかもしれないし、謙虚な雑巾もいるかもしれないな。
「最後は雑巾になるのが私の夢だったんだ」ってな雑巾もいるかもしれないし、「絶対になりたくないものナンバーワンに成り下がってしまった」と歯を食いしばっている雑巾もいるかもしれない(いや、雑巾に歯はないでしょ)。

雑巾に共感している私は少し疲れていた。ま、みんないろいろあるし、私だけが大変なことなんてないんだけど、でも、私なりに疲れて無力感を感じることもある。疲れすぎて、もう、その辺に倒れ込んで寝たいと思うくらい。だから私の身体ではなくて、私の心が、薄汚れた雑巾みたいな気がしたんだ。雑巾も健気に雑巾としての役割を果たそうとしているかもしれない。でも雑巾は雑巾だから、言葉通り、雑に扱われる布なわけで。私の心は自分からだか他人からだか、最近雑に扱われているぞって、何かのサインを出しているのかもしれなかった。

ちょっと雑巾を洗濯したいと私は思った。洗濯してもふわふわの真っ白には戻らないんだけど。これが世にいう「心の洗濯」か? その辺に落ちてる私の雑巾を拾って、巻き込んでくっついたホコリや泥を取り払って、下洗いしてから、洗濯機に入れて回してみたい。雑巾だってたまにはそうやって大事に扱われていいと思うんだ。柔軟剤だって入れてあげよう。いいにおいになるかな。

あなたの雑巾だって洗濯してあげる。一緒に。私の洗濯機、まだ入るし。もしその辺に落ちててちょっとべそかいてる雑巾なんだったら、拾ってあげる。自分の雑巾より他人の雑巾のほうが大事に扱える気もするし。わたしたち、汚れたり壊れたり傷ついたりしたら、元に戻らないけど、でも、ずっと大事にすることはできるんだもの。ジャブジャブ。
洗濯した雑巾を、やっぱり「雑に扱わない布」にしたっていい。いつかは誇りをもって自信をもって雑巾になれるだろうし、今はまだ、雑巾にしないでもいい。できるかな。できるだろう。そうね。やってみようと思った。

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