英語サークルの総会について

※これは、2019年の秋ごろ、精神を病んでいたころに書いた文章です。

とてもとても利己的でごめんなさいだけど、責任のない立場で、後からではいくらでも言えると言ってしまえばそうではあるのだが、一年半以上モヤモヤし続けているので、このままだと、体の奥底にしこりが残ったまま時効を迎えそうなので、オブラートに包むことなく言ってしまいたい。私が大学一年の末の英語サークルの総会についてのことだ。私の英語サークルに対する記憶・印象の7割を占める存在であり、避けては通れない記憶だ。未だに思い出すと、トラウマのようで夜も眠れなくなる。私の認識が歪んでいるのか確かめたい。英語サークル流に言うと他己追及に当たる内容ばかりであるが。おそらく誰かさんから消せと口封じされそうな気がするのだが、実際にあったこと、それを素直に認識した内容を書き殴ろうと思う。

反省紙面の害派生で、活動・行事・組織に支障が生じる恐れに至るまで10項目くらい、細かくLinkageを書き上げる作業に一体なんの生産性があったのか?「ここのLinkageおかしくない?」とか、空の理論を追及したところで現実世界になんの影響があるのか?

反省紙面の不信の項目で、2018年度中央”委員会”とか、2018年度日吉”委員”とか、2017年度三田委員とか、その現場にいる人たちの現在、過去の委員名を、影響力の大きい順に全て8個くらい書き上げる作業に一体なんの意味があったのか甚だ不明。一個でも順番を間違え、項目が足りなかったら「おい、俺2016年度日吉委員だったんだけど。おい、これ順番違くね?」と怒られるのだ。

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紙面訂正とかいう、厳格にスペースやインデント、言葉遣い、ナンバリング、等書き方の指定がしてあるFormat Manualとやらものに違反すると、「インデント違うだろ、ナンバリング違うだろ」、といって怒られるのであるが、そもそも、あのフォーマット書きにくいし、読みにくいし、細かくナンバリング分けようとするせいで参照なんてあまりにも面倒くさい。なぜ、あの方式を強要するのか?一般的に読んでわかる体裁で書いて、それで十分ではないのか?失礼が無いようにという目的だとすれば過剰な押し付け以外何物でもない。自分たちはそうやって書ける、書いてきたんだという一方的な無意味な空虚な価値観の押し付けでしかない。ポイントを絞るなどしてPower pointとかで視覚的にプレゼン資料を作ることもできるのに、なぜ情報伝達手段をwordのぎちぎちなルールにのっとった”文字情報”のみに限定して、強要するのか?

問題解決の手段として反省紙面を用いていたとはいえ、回答は上級生が想定するものに近づけなければならず、ヒントも無い状態で暗闇の中、無理やり自分たちの頭脳まで辿り着いてくれよ、自分らは経験があるからそれに従いな、とかいう話だったと解釈している。問題解決など、結果論に依るところも大きいし、数学のように絶対的な一意的な方法など存在しないのに。そもそもあの”パッケージに合わせようとした”労力があまりにも大きかったせいで、如何にパッケージと上級生の頭脳に上手く合わせられるか(答弁で余計に追及されないために)が最優先事項だったから、柔軟なアイデアを発想し、現実に実現するといった余地が無く、かえって思考法が縛られすぎるのでは?という実感しか湧かなかった。慣れれば良いフォーマットなのかもしれないが、そのレベルにまで至っていなかったと言ってしまえばそうなのかもしれないが。とはいえ、あの短期間で、素人があの要求されるレベルに到達できるはずもないのだが、普通に考えれば。

そもそも問題解決の手段でなぜ反省紙面のあの2進法解決方式(意識追及の手前まで、細かく行動を規定して改善する)にこだわり続けるのか?いくら想像しようとしても、反省紙面が具体的に組織運営でどのように効率的・効果的に役立っているのかの実感が湧くことがない。現実世界と反省紙面のリンクがイメージつかない。ググれば他に色々な方法があるし、人によっては、大学の授業で問題解決法を勉強することもあるのにそれらとは一線を画す異質な方法論としか思えない。反省紙面で結局やることと言えば、膨大な労力を”パッケージを書き上げる作業”に費やすことになり、現実世界にそれが生きるのか疑念が拭えない。現場で生かすために細かく10,20も存在するHow toのstepを全て記憶して、現場に臨むのか?それとも、持参して一つ一つなぞりながらこま切れに現場を回していくのだろうか?他のある三役は、総会以降一枚も反省紙面を書いていないと言っていた。では、総会中のあの反省紙面の嵐の存在意義は何だったのか?20コ以上もある反省紙面という要望を全て返し切らないと総会が終われないと迫られていたから、みんなに迷惑はかけられまいと寝る間も惜しんで取り組んでいた。反省紙面という試練を与えて、乗り越えられるかどうかの基準として設定しているオーディションやトライアウト的な、まるで先住民族の過酷な成人儀式(通過儀礼)のような役割を果たしていたのだろうか?

そもそも反省紙面は、問題解決の手段としてトヨタの方式を参考にして取り入れて自己流にアレンジして続けているだけであり、決まりではないと聞いたのだが、もしそうであるならば、なぜ時間もキャパも能力もない学生にとって不幸をもたらす方法論に固執し続けるのか?

起きている間は、常に納期に追われ頭を目いっぱい使いながら一日10何時間もパソコン作業、またプレッシャーの目線に追われ緊張しっぱなし、細々としたご飯しか食べれない。そのうえ徹夜→4時間→4時間→徹夜の睡眠サイクルを実践してみましょう。最後の方はゾンビになれますよ。

自分の過去の部分的な至らない言動を、疲労困憊で50人くらいの目の前で高圧的な上級生から徹底的に追及され、答えに窮したらそれもさらに追及されるといった環境におかれ、さらに、反省紙面は書けてないじゃないかと徹底的に追及され、とてもではないが、手に負えるものではなかった。

そもそもまだkessの運営を経験したことのない素人に、最初から100%を求めるのがよく分からない。

私が大勢の目の前で答弁と反省紙面に窮していた現状を見かねて、総務を任せられるのか同期達と一緒に話し合ってくれと指示され、誰も幸せにならず、気を使って言葉に困るような環境に置こうとした人の心理はなんだったのか?そういう環境にする必要はあったのか?

答弁を降ろされたのち、みんなに迷惑をかけたから謝れと言われて謝りに回ったのだが、今まですごく仲の良かった同期達に頭を下げなければならなくなった人の気持ちを。

総じて人格否定されていると私は感じ、自信を完全に失ってしまったのだが、その後kessから距離を置いたのちにも、私の存在と総会での経験、出来事が闇に葬られ、無かったことのようにされたような気がして、総会を終えてついに誰もが前に進もうとしていたのを私が邪魔だったからなのか?それにしても、同期から励ましのメッセージをたくさんもらったことを除いて、上級生からのアフターケアがほぼ皆無に等しかったのは、期待に応えられなかった人間の定めなのか?過剰なプレッシャーをかけて潰したという見方は存在しなかったのだろうか?

潰されたという過激な表現は如何なものかと自分でも思うのだが、総じて、私の20年間の人生経験の中で知りえた、社会通念、一般的な感覚とは、あまりにも大きくかけ離れた非人道的な経験であったと認識せざるを得ず、現実に総会の後は、まるで廃人のように心と体が上手く動いてくれなかったのは明らかな実感だった。

結局私が至らなかったのが本当だとすれば、わざわざ潰すように仕向ける必要はあったのか?他の前向きな方法で説諭する術は彼らの眼中にはなかったのか? 潰されるべくして潰されたおかげで、(僕が居なくなったお陰で)後の英語サークルが繁栄していったのだとすれば、理想状態・十分状態の達成という観点から、手段を選ばないという英語サークルの概念としては正解だったのかもしれない。

英語サークルの一部の人たちは偏った一面的なLogicを経典として崇める宗教団体と私は思っているのだが、あながちジョークの範疇に収まらない趣がある。

大勢の前で人格否定、睡眠すら削らないと終わらないような過剰な課題、そして上司の高圧的な態度と言葉遣いを一般の会社に当てはめれば、客観的に考えようとしてもパワハラと捉えられておかしくない。彼らは、人格否定などしていない、そういう伝統だ、自分たちが若い頃もそうだったと言うだろうが、受け手がそう感じているのだから。

誰も幸せにならず、(一部の人達にとっては幸せなのかもしれないが)生産性もあるのかどうか疑わしい総会の伝統(種々の儀式的・形式的な枠組み、過剰な反省紙面)がなぜ変われないのか、本当に不思議で仕方がない。不幸に需要が存在する洗脳集団なのか?外から見ると不思議で仕方がない。

本当のことを言うと、明らかに異常な経験で、そのような雰囲気が当たり前としてまかり通っていることを鑑みたとき、然るべき機関(学生部の相談室など)に相談した方が良いのではないかと一瞬考えたこともあったのだが、結果として、同期達の活動に迷惑をかける可能性が否定できないことを考えると踏みとどまったこともあった。

自分が仕事を振っていた人が、大会出場メールの宛名を間違えるというしょうもない小さなケアレスミスを、次からは宛名を確かに認識して、間違えないでくれよと言えば済む話だと普通に考えれば思うのだが、意義達成に関わるからという英語サークルにとっては巨大なImpactを盾に、毎回チェックしなくて良いのか?それを自己追及しろと言われ、何を言えばよかったのか?未だに分からない。そもそもそんなに大げさな問題なのだろうか? 

自分が担当する役職者を総会に”遅刻させてしまった”反省紙面は、合計十何時間も費やすことになったのだが、はじめは、自分で目覚ましをセットするなり、総会の重要性を認識してもらうといった本人の意思で変えていくような方針でずっと書いていたのだが、上級生が想定する回答は、後に話を聞く限り、「ペナルティを課す」or「合宿をする」といった、強制手段を用いたものだった。ペナルティなどというネガティブに手段に僕は辟易していたから嫌だなと思ったのと、総会中、もしくは活動中は毎日合宿なんてサークルのためにそこまでプライベートを犠牲するのも如何なものなのかという疑念は拭えない。

反省紙面が大量すぎて無理だったのであればそう言って欲しかったと後に言われたけど、間違いなく、「与えられた課題すらこなせない人間に総務が務まるのか?」と詰問されるに決まっているし、高圧的な雰囲気を自ら醸し出していた上級生にそんなことが言えるわけがない。ましてや、答弁を控えている段階で。もしくはTime-AllocationのHow toを詰めろと言われ、さらに反省紙面が追加されるだけだ。ほんの少しでも抵抗すれば、全て反省紙面という形で、負担しか増えないのだ。

総会中に書いていた反省紙面なぞ、一つあたり相当な時間と労力を費やさなければならず、反省紙面を書けなければ(上級生の期待する内容でなければ)それの反省紙面、期限までに出せなければそれの反省紙面、人を呼べなければそれの反省紙面、紙面訂正(紙面の体裁のミス)があればそれの反省紙面、答弁で自己追及できなかったらそれの反省紙面…延々と累進していく反省紙面の嵐で、そんなものTime-Allocationとかいう問題ではない。明らかにキャパを超えている。はっきり言って人間を舐めてる(過信している)

25万円を無駄にしたとか、よく考えれば意味不明だわ。Time is Moneyの適用事例かな?

反省紙面を書けなかったことの反省紙面とか、無限ループやん。現実世界を二進法で捉える英語サークルの反省紙面の世界において、そういうプログラムは破綻している。

答弁の最初にそれぞれの所属のメンバーが全員揃えられず申し訳ありません。といったような作られた謝罪原稿を高速で棒読みするあの儀式はなんの意味があったのか?そんなのを真正面から聞いてる人はいるのか?真正面から聞くのもそれもそれでどうかと思うが。

そもそも総会中、はっきり言って多くの人は、自分のなにかしらの活動のプレパをするか、未来のkessのために自分たちの今後の具体的な活動について密かに打合せするなどといった、生産的な活動とのマルチタスクをしてたように見受けられ、人の答弁のみを真正面から集中して聞く人など居たのだろうか?

定足数ルールとかいう、総会自体が異常な雰囲気だし、時間を盗られるし嫌だし、他にやりたいことがあってとかいった色々な事情のある人々を無理やり集めないといけない仕組みがあり、一人でも足りなければせっかく会場代で結構なお金を使っているのに一日何にも話し合いが行われず、「午後からでも来れないかな?一時間だけでも来てほしい、話し合いができるから」といった電話をかけまくる一日を過ごすサークルがあるそうな。

そもそも、自分が担当する役職者が総会前日まで結構な旅行に行っており、(総会の日程自体がずれ込んだので、責めることはできないのだが、(そもそも責めるという言葉が嫌なのだが、))、総会期間中やその夜とかに、今後の活動について直接会って考えを共有しようと思っていたのだが、反省紙面に大量の時間が盗られるなど夢にも思っていなかったからできずじまいだった。そんなこと知る由もないから、せめて事前に「総会中は反省紙面が忙しくてそれしかできないよ~」言って欲しかったし、少しは身構えて臨めたと思うのだが。(そもそも、それをきちんと身構えたところで結末が変わるとは思えないのだが、)

総じて、雁字搦めにあっていた感覚であり、無理なら無理と言えばよかったのか?準備と能力が至らなかったのか?上級生が偏っていたのか?あの記憶をどのように捉えれば良いのか、分からない。自分はどのような行動を取るべきだったのかが分からない。だからモヤモヤする。

英語サークルは毎年毎年、「嫌だね、変えたいよね」と言われているのに、結局変われずじまいになるあたり、これからも帰納的に不幸が続いていくのだろうか?自浄作用はあるのか?そもそも、素人がどっぷり独自の方法論に染まって、他のやり方を知らないという点、既に長い年月をかけて構築されてきた既存のLogic()を打ち負かす革新的なLogic()を構築するために膨大な労力を費やさなければならないという点、保守的にならざるを得ないのかもしれない。

後に一部の同期や先輩と会って話をしてみても、モヤモヤが消えることは無い。慢性的な不眠症はいつになったら終止符が打たれるのか?

P.S
そもそも理解不能だった経験に意味付けする価値などないということに気づいたこと、手段はどうあれ、こうやって自分の気持ちを発散・発信できたお陰でモヤモヤが無くなりました。不眠症も治まりました。(@ ̄ρ ̄@)スヤァ

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