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祖父のこと

私の祖父が3月に亡くなった。
49日の法要も終え、祖父のいない日常が当たり前になってきたので、気持ちを整理し、残しておこうと思う。

私が大学のために上京した2017年から今に至るまでの5年間ほど、身近でお世話になった。
一言でまとめてしまうと「お話の好きなおじいちゃん」であった。
岩手の高校時代の友人や大学の友人が我が家に泊まった際も、よくお話をしていたようで、後から聞くと「お話好きのおじいちゃんね。」という印象を抱いていたよう。最近のニュースを話題にするのが好きだった。
通いの病院の先生とも問診の際に世間話だけして帰ってくることもしばしばあった。
以前から循環器系の患いがあり、通っていた。
また、身体の大きい祖父なので膝関節の負担もあって、2箇所の具合悪さで病院に通っていた。
病院帰りに祖父から話を聞くと、どうやら世間話だけして帰っていたよう。
痛いところを祖母が事前にヒアリングして病院の先生に伝える始末だった。

いつ頃か、犬の散歩をかなり辛そうにする時期があった。
しっかりと痛いということを口にする祖父ではなかった。
病院の先生も「痛い」ということが分からなければ対処のしようも無い。
そういえば、祖父は人に心配させることをしない人だった。
病院で伝えなかったのは、そういう性格もあってだったのかもしれない。

2月の中頃だったか。
家から祖父が集中治療で入院が確定したとの旨の入電があった。
不動産に勤めているため、繁忙期期間中だったが上長に頼み早く帰宅した。
祖母から聞くに、かかりつけの病院では対処できないから大きいところで検査してもらうだけの予定が入院となった、という経緯だった。
コロナ禍という中で、入院できたのは運がよかったのかもしれない。
病状が回復し、自宅でケアしながらであれば帰られるという目前の時に敗血症の初期症状が見られた。
帰宅目前の際には、一人で歩けるほどに改善もしたし、精神的にも良かったよう。
そこからは早く、急転直下であった。
特別に面会もさせてもらえたが、血圧が低く、話すことが出来なかった。
一方的な話ほど楽しく無いものはない。
普段の祖父と重ね合わせてしまうため、それが尚更心に来るものであった。
その日の夜に再度病院に呼ばれ、祖父は息を引き取った。

後日に知ったが祖父は病院でも、変わらずお話好きではあったが、他の患者さんと比べて「ありがとう」をよく言う人でした、と言われた。
「なんか祖父らしいなぁ」と思いながら病院を後にした。
病院の先生にはかなりお世話になった。
これまでに大変に丁寧な薬・処置の説明をしてもらった。
正直、検査結果の説明を受けた時にかなり重症である、ご覚悟願います、と一発目に言われたのを記憶している。
そこから、一時的に改善(直近での様子からするとすこぶる良い状態)して頂けたのは大変嬉しかった。

身の回りが落ち着き、繁忙期の業務が落ち着いたので、今このように綴ってみた。
祖父は入院中に転び眼鏡を落とし割ったということがあった。
ガラスレンズの眼鏡だったため、見事に割れていた。
今や形見となった眼鏡だが、「一生物の眼鏡なんだ」と生前は言って気に入り愛用していた。
流石に割れたまま葬儀をするのもどうかと思い、眼鏡屋に勤めた友人に相談したら快諾して直してもらった。
本当にありがたかった。

死者と共に生きる。
私の記憶、家族やお世話になった人との談話の中で、祖父像が再現され、思い返すことでしか繋がりは無いのだけれども。
祖父と私、双方向でのやり取りはないけれども、忘れずに生きていこうと思う。

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