「遠くから遠くまで」を遠くから想う
はじめに
わたしが漫棚通信と名のって、マンガについてのあれこれをネット上に書き始めたのが2003年。もう20年近く前のことになります。今は亡き「さるさる日記」という日記サービスサイトがありましてな、という昔語りになってしまいます。翌2004年にはniftyがつくったココログというブログサービスに引っ越しました。
当時ウェブログ、略してブログというのがけっこうなブームになっていました。2022年の日本では、ブログはアフィリエイトで収入を得るための手段みたいに見られているようですが、そのころは、テキストで何かを語り、それに対してコメント欄でコメントし、トラックバックして自分のブログでまた語り、さらにひとのコメント欄で勝手に会話したりケンカしたり、という、日記形式より一段進んだ新しいコミュニケーションツールと受け取られていたのです。
誰も彼もがブログを書いていました。もちろん内容や表現は玉石混淆でしたが、そのおかげで、「プロじゃないけどそれなりに読ませる文章を書くひと」がけっこう多くいるのが発見されたりもしました。かく言うわたしも世間的にはそのひとりだったようです。
さて漫棚通信のまだまだ初期、2005年のこと。わたしがせっせとブログ記事をアップしていた時期ですね。白土三平『忍者武芸帳』の主人公、影丸の有名なセリフ「われらは遠くからきた。そして遠くまでいくのだ………」(かなや漢字はわたしの持ってるゴールデンコミックス版に準じて記載しています)のモトネタを探す、という記事を書いたことがあります。この記事はかなりの反響をいただき、その後もいろいろと意外で興味深い展開がありました。
作者である白土三平も、最初の発見者であるみなもと太郎先生も2021年に亡くなられました。一連の記事もわたしのブログ内のあちこちにとっちらかっており、このあたりで総括的な文章を書き残しておかなきゃな、と思ったわけです。
はじまりはみなもと太郎
白土三平『忍者武芸帳』最終12巻、ラスト近く。本願寺法主の顕如に一揆主導を促すため、影丸は本願寺に忍び込みます。しかしそれは信長の罠でした。
信長軍につかまった影丸は、ついに八つ裂きの刑に処される。死の直前、影丸は「美しい空だ」とつぶやきます。そして見届け人の森蘭丸に影丸の声が聞こえる。語らずして心を伝える無声伝心の法。
「われらは遠くからきた。そして遠くまでいくのだ………」
このセリフについて、副田義也は「われら」とは支配された民衆であると説きました(1967年「歴史における個人の役割」)。また四方田犬彦はこう書いています。「個の出自を越え、死をも恐れず、ユートピアの実現をめざすという影丸の思想を端的に物語っているといってよい」(2004年「白土三平論」)
影丸は死にますが、影一族は生き残る。そして秀吉の刀狩りを経てもなお、農民たちの生活と生産は続いていく、というラストにつながります。「遠くから遠くまで」は全編を象徴するセリフとなりました。
ところが。
「白土三平ファンページ」(今は引っ越して「白土三平絵文学」というタイトルになってます)にこういう文章が記されていたのですよ。
これってちょっとびっくりする話です。『忍者武芸帳』の最終巻の刊行が1962年。当時、2005年はそれから四十年以上たっています。名作マンガとして認知されて半世紀近く、今になってこれが白土三平オリジナルのセリフじゃない? そんな新発見があるとは。
で、トリアッティってだれ。
パルミロ・トリアッティ(1893-1964)は、アントニオ・グラムシらと共に1921年にイタリア共産党を創立した人物。ファシスト政権下のイタリアからロシアに亡命。コミンテルンの指導者のひとりとなり、スペイン内戦にも参加。第二次大戦後は「サレルノの転換」でイタリアの左翼陣営を大同団結に導きました。どうも現代史の偉人のひとりらしい。
わたしの家は県立図書館の比較的近くで、当時は一家で図書館によく行く生活をしていたので、図書館でトリアッティの著作を調べてみましたが、結局「遠くから」の出典はよくわからない。ただしネットで調べると、トリアッティの盟友で一緒にイタリア共産党を作ったグラムシ、彼の研究の第一人者・石堂清倫が1997年国際グラムシシンポジウムでおこなった特別記念講演のタイトルが「遠くから遠くへ ヘゲモニー思想の新しい展開」でした。おお、「遠くから」だ。
さらに2001年石堂清倫が亡くなったとき、中野徹三の書いた追悼論文のタイトルが「遠くから来て、さらに遠くへ」。ここにもあった。
しかし調べものもこのあたりで行き詰まってしまいました。ここは聞いた方が早い。「白土三平ファンページ」管理人のくもり氏に問い合わせてみますと、トリアッティについての情報は、みなもと太郎『お楽しみはこれもなのじゃ』2004年発行の角川書店版に書いてあると教えていただきました。
みなもと太郎『お楽しみはこれもなのじゃ』といえば、1976年から1979年にかけて雑誌「マンガ少年」に連載された、マンガについてのエッセイ。わたしも連載中に読んでました。名作との誉れ高く、それまでにも三回単行本として出版されていました。1991年立風書房、1997年河出文庫、2004年角川書店。しかしわたしの持ってる立風書房版には脚注はあってもそんな記述はなかったのですよ。角川書店版はみなもと先生がさらに脚注を書き加えた増補改訂版として、2004年に出版されたものでした。
で、角川書店版を買ってくると、こうあるじゃないですか。
(04み)というのは、2004年みなもと太郎による脚注という意味ですね。
みなもと太郎先生からは、それまでもうちのブログにときどきコメントをいただいており、全然知らないひとでもなし。えーいここは思いきってみなもと先生に質問のメールを出してみることにしました。それに対する返事がこちらになります。
みなもと先生からのメールには、この前後にオモシロイうんちくや文章が長く書かれていて、全文転載したいところですが、物故された方のメールにも著作権はあるので、ぎりぎり引用の範囲内でご紹介しておきます。
ここで話が羽仁五郎まで到達しました。羽仁五郎『明治維新史研究』冒頭のエピグラフが書かれたのが1956年7月。白土三平なら羽仁五郎を読んでるかもしれない。
年代が絞れたのでもう一度、地元の図書館には置いてない合同出版のトリアッティ選集を、県外の図書館から取り寄せて読んでみました。しかし本文内には「遠くから」なんて出てこない。ただし旧版のトリアッティ選集第1巻(1966年)の石堂清倫の解説にこういう文章がありました。
おおそうか、トリアッティは言ったか。
「遠くから遠くまで」がトリアッティの言葉であることはわかりました。しかし、いつ、どこで言われた言葉かはわからずじまいのままでした。
中途半端な結果にはなりましたが、2005年11月26日、ここまでの顛末を記事にして、わたしのブログに掲載したのでした。
反響とさらなる探求
ブログ記事にはけっこうな反響があり、長谷邦夫先生やすがやみつる先生から、あるいは共産党がらみで紙屋研究所氏からもコメントをいただきました。
その中で自分が気づかず、コメント欄で教えてもらったのがイタリア語でネット検索すればいいじゃん、ということ。今なら当然のことも、当時は盲点だったのですよ。
「遠くから来て遠くまで行く」をイタリア語に訳すと「veniamo da lontano e andiamo lontano」となるそうです。これをネットで検索すると、トリアッティの言葉としてあちこちでヒットするのです。しかし、いつ、どこで言ったのか、決定的なことはわからずじまい。
いっぽう、日本語では吉本隆明が1954年に書いた詩『涙が涸れる』に、「ぼくら」が「遠くまでゆく」というフレーズがあることがわかりました。左翼的な連帯と希望を書いた詩に、「遠くまで」が出てくるわけです。
連合赤軍事件で殺害された大槻節子(1948年生まれ)の日記が『優しさをください』のタイトルで刊行されています。日記の1968年12月26日にはこの『涙が涸れる』の詩がまるまる写されています。この詩は、当時20歳の女性の胸に響く、かつ有名な作品であったようです。
さらに1961年、福田善之の戯曲『遠くまで行くんだ』が劇団青芸(青年芸術劇場)で初演されました。福田善之といえば『真田風雲録』が有名ですが、これはそれとほぼ同時期に書かれた作品です。
戯曲『遠くまで行くんだ』のストーリーはこのようなものです。時代は1955年から1961年。アルジェリア戦争下にあるフランス。徴兵により、もうすぐアルジェリアに送られることになっている青年たち三人が主人公です。ひとりは共産党員、ひとりはキリスト教を規範にしている労働者、ひとりはノンポリの学生。彼らは自分の良心にしたがい、圧制者としての戦争に参加したくないと思っていますが、フランス社会は右翼も左翼もそれを許さない。戦争に行くか兵役を拒否するか。三人は第三の道、軍からもフランスからも「脱走」し、革命家として生きる道を選ぶ……
もちろん、1960年日本の安保闘争の敗北を下敷きにした作品です。米倉斉加年や常田富士男らが出演。タイトルについては、福田善之自身が「題名は吉本隆明氏の詩にもとづいている」と書いています。おお、これもそうか。
1960年、日本社会は騒然としていました。日米安保の新条約が特別委員会で強行採決される。日本中で安保反対の機運が盛り上がり、国会議事堂の周囲をデモ隊が取り囲み安保闘争が激化。当時の米大統領アイゼンハワー来日の調整に来た大統領補佐官はデモ隊に取り囲まれヘリコプターで脱出。ついに国会前でデモ隊と右翼が衝突し、死亡者も出ることになります。
しかし結局、安保条約は自然成立し、アイゼンハワー来日は中止。安保闘争は、反乱した側にとって大きな敗北でした。
『忍者武芸帳』の最終巻、影丸のセリフは、闘争に敗北した人間が、次の闘争をするべき次代の人間たちに向けて書かれたものなのでしょう。
「遠くから遠くまで」は時代をあらわす言葉になっていました。
(0)?年、パルミロ・トリアッティが「われわれは遠くからきた。
そして、われわれは遠くまで行くのだ」と語る。
(1)1954年、吉本隆明の詩『涙が涸れる』に「遠くまでゆくんだ」というフレーズが。
(2)1956年、羽仁五郎『明治維新史研究』にトリアッティの「遠くから遠くまで」がエピグラフとして書かれる。
(3)1961年、福田善之の戯曲『遠くまで行くんだ』上演。
(4)1962年、白土三平『忍者武芸帳』に「遠くから遠くまで」のセリフが登場。
いやもう、時代の気分は「遠くから遠くまで」じゃないですか。
そして次の時代、1960年代後半から始まる再度の闘争である学生運動の時代に、「遠くから遠くまで」はふたたびひとびとの口にのぼるようになるのです。
このころ、わたしは『忍者武芸帳』の影丸のセリフは、ぜーったいトリアッティからだよね、と信じていました。
しかしその後、大逆転が起こるのです。
●漫棚通信ブログ版 あとちょっとだけトリアッティ
●漫棚通信ブログ版 しつこくトリアッティ(その1)
●漫棚通信ブログ版 しつこくトリアッティ(その2)
ゴーギャンが登場する
わたしが『忍者武芸帳』の影丸のセリフ「遠くから遠くまで」について、2005年11月から12月にかけて数回にわたってブログ記事を書き、いろいろとコメントも多くいただき、それなりに盛り上がっていたころ。2006年1月7日、夏目房之介先生よりうちのブログのコメント欄に衝撃的な書き込みがありました。
うわっ、これは盲点、というか、そう来たか。
ゴーギャンの絵というのはコレです。
タイトルは絵の中に書き込んであって、「D'ou venons-nous? Que sommes-nous? Ou allons-nous?」
日本語訳は一定してなくていろいろです。「われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処にいくのか」「われらいずこより来るや、われら何なるや、われらいずこに行くや」「われら何処より来たりしや、われら何者なるや、われら何処に去らんとするや」「われらいずこより来るや、われら何なるや、われらいずこへ到るや」
1897年、タヒチ滞在中のゴーギャンは、娘の死、財政困難、健康の悪化などが重なり、自殺願望に取り付かれます。死の前の畢生の大作として描かれたのがこの作品でした。絵の完成直後(と本人は語ってますが、ホントはまだ製作中だったらしい)、彼はヒ素をあおって自殺を図りますが目的をはたせませんでした。
縦1.7m、横4.5mの大作です。右下には赤ん坊、左下には老婆が描かれ、絵巻物のように右から左に見ていくのが正しいらしい。ゴーギャン自身による解読が彼の手紙として残っています。
楽園のすばらしさを描いた絵ではなく、人生の苦悩を表現した絵であるようです。
白土三平は、「われわれは何処から来たのか? われわれは何か? われわれは何処へ行くのか?」というゴーギャンの問いかけに対して、影丸に「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ………」と答えさせました。
哲学的宗教的なヒトの在り方を問うゴーギャンにに対し、影丸は社会的存在のヒトとして答えている。さらに、哲学的な存在である「われわれ」は、影丸の言葉の中で、左翼運動的連帯の言葉としての「われら」に変化してしまいました。うーん、これはかみあってない。
当時のブログでわたしはあーだこーだ書いてて、白土三平自身の言葉に納得できないと表明しています。作者が言ってるんだからどうしようもないのですけどね。
でも今もわたしには、影丸の「遠くから遠くまで」は1960年前後という時代の産物にしか思えないのです。
1960年の闘争に敗北した影丸が「遠くから遠くまで」と語り、さらにその言葉に導かれたカムイと庄助の闘争が始まる。1964年『カムイ伝』連載が開始されました。
その後のいろいろ
その後も「遠くから遠くまで」についてはぽつぽつといろんなことがありました。
2006年6月には、ある編集者のかたから、今回の顛末について原稿を書かないかという依頼がありました。ただし、この時点ではトリアッティの言葉が、いつ、どこで語られた(あるいは書かれた)かが不明のままだったので、お断りしました。
1960年前後には一部で有名な言葉だったらしいので、出典を知ってる人は必ずいるはずなのですが、アマチュアライターのわたしには、それを見つける手段がよくわからなかったのです。
2006年7月、複数のブログ記事をひとつにまとめた「特別企画:遠くから遠くまで」をネット上に掲載しました。書けなかった上記雑誌記事の代わりになるもののつもりでした。
2006年10月、小学館『決定版カムイ伝全集』第二部の最終12巻が発売されました。帯には「単行本未収録の140枚に大幅加筆の上、さらにラストを新たに描き下ろし、初めてここに「第二部」完結!」とあります。おそらくこれが白土三平、そして絵を担当していた岡本鉄二の最後の画業となったはずです。
2011年7月、毛利甚八『白土三平伝 カムイ伝の真実』(小学館)刊行。毛利甚八は『決定版カムイ伝全集』のとき、白土三平のインタビューを担当したマンガ原作者です。ここに「遠くから遠くまで」について語られた部分があるので抜粋します。
ときは流れて2015年1月。長門裕介氏からこんなメールをいただきました。
国会演説だったのですね。長門氏からはトリアッティの演説が載ったイタリアの新聞のコピーもいただきました。
このメールをいただいた2015年、あらためて「Togliatti, Veniamo」でネット検索してみると、あーらあっさりと「Wikiquote」の「Togliatti」のページにたどりついてしまいました(イタリア語ですが)。「Wikiquote」はWikipediaが別バージョンとして運営しているもので、有名人の発言、有名作品からの引用、ことわざ等を集成しようとするプロジェクトです。
このページの中ほどにこうあります。
なんと10年前にわたしがネット上でずーっとさがしていた「Veniamo うんぬん」が、ここにさらっと書いてあるじゃないですか。10年間のうちにネットの情報はずいぶんとバージョンアップされていたのでした。
エピローグ
さらにときは流れて。
2021年8月7日、みなもと太郎先生逝去。
2021年10月8日、白土三平逝去。
みなもと先生の没後、2021年11月に河出文庫から『お楽しみはこれもなのじゃ』の新装版が発売されました。1991年立風書房版、1997年河出文庫版、2004年角川書店版に続いて、四回目の出版となります。
「遠くから遠くまで」についての記述はどうなったのか。
新装なった河出文庫は、1997年の河出文庫版を底本としているので、解説も2004年角川版の大塚英志じゃなくて1997年版の米沢嘉博の文章。2004年角川版の本文下にあった(04み)と書かれたみなもと先生による脚注もありません。
ただし(04み)の脚注は巻末にまとめられており、そこには。
この文章がそのまま残されていました。
うん、これはこれでいいんじゃないかな。
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