1/fって何すか。2019.09月号

 <#66 渋谷くんとの話>

  先日、仙台で開催されたmurffin discsレーベルナイトの翌日のこと。お昼頃、東京に戻る前に同じ事務所のバンドの友人と寿司を食べに行った。回らない寿司!注文して運ばれてきたランチセットは1枚の寿司下駄に10貫ほどの握り寿司、軍艦、手巻きがのっていた。普段安い回転寿司にしか行かない私にはちょっとした贅沢であり、胸を弾ませていたのだが、努めて冷静を装った。なぜならその友人というのは、ステージの上でも下でもいつもスマートで、同世代でありながらも自分にないものをたくさん持っている彼に、私は密かな憧れを抱いていたからである。しかし、数十分後に、その努力の甲斐も虚しく、憧れは憧れのまま終わることを知るのであった。
 

 ビュッフェでも、定食でも、寿司でも、私の箸のつけ方はマナーに欠ける点があった。それは、食べたいものを、食べたい時に、食べたい順番で食べるという衝動をコントロールできないところに原因はある。どうやら寿司には、食べるネタの順番にもルールみたいなものがあって、赤身は白身の後に、味の濃いものは薄いものの後にというのが一般的とされる。運ばれてきて最初にマグロを口にするなんてことは、小学生レベルのお行儀の悪さであり、残念ながらそれが私である(あえて言い訳をさせてもらうと、一番美味しいものを一番美味しい状態、例えば空腹の状態で食べることが、マグロにとっても本望ではなかろうか!)。そんな食べ方をしていると、ネタを食べていくにつれて寿司下駄にのった選択肢はどんどん少なくなっていく。マグロの味なんてもうとっくに忘れた口が次に求めるちょうど良いネタがなくなってくるなんて事態は必至である。一方、友人の食べ方は一般的なルールに乗っ取っていながらも、そこには独自で築いた大人の流儀のようなものが垣間見えていた。しかし、私はそれに気づいたのは随分と時間が経ってからだった。
 

 皮肉なことに、私の寿司下駄と、友人の寿司下駄に残った最後の一貫は同じ甘エビであった。しかしどうしてだろう、どうも彼の寿司下駄にのった甘エビの方が、私のよりも美味そうに見える。それは、その一貫が最後まで“残された”甘エビであり、最後に“残ってしまった”甘エビではなかったからだろう。
 

 三島由紀夫の小説「金閣寺」に「衝動とは、意思に対する復讐である」という言葉があるが、寿司屋の昼時に私が味わったのはそれとは真逆の「理性による、衝動への復讐」だったように思える。できれば次は、食べる順番の予め決まった、コースディナーに行きたい。

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